昨今 いろんなネットニュースで発言に対しての謝罪が掲載されています。
おそらくYou Tubeとかで個人の発言が広く拡散するからそういう非難があるのでしょうね。
ただし、職業の報道現場では誤った情報が出てるのにそれに対してはわりと寛容な気がします。
報道は自らが報道しているから誤った情報は「訂正」でだいたいが終焉に向かいます。
個人の失言などの場合はとことん追求されてメディアから消えるほどのこともしばしば。
SNSなどは個人の言動が多いので消される場合もあるのではないでしょうか?
そう言う状況、そう言う環境から思い出すのが
「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉。
発言者の責任追及ではなく、例えばそういう悪い出来事が今後起こらないように行動についてだけ牽制して未来に備えることが正しい、と。
以前はそれが正義だという世の中の考えが何となく見えていました。
しかし、
現在の報道、情報化社会ではむしろ
「人を憎んで罪は後回し」の状態では無いのかな。
社会構造が変わらないから、同じ過ちが次々出てきて、それを「また出た!」と言わんばかりに大騒ぎ。
でもって、「あいつが悪い!やっつけろ!」で終わり。
そういえば
アドラーの三角柱の話がありますが
「可哀想な私」「悪いあいつ」と1番大事なもう一つの側面の三角柱があると想像する。
でもって、一番大事なことは3っつの中の最後に書かれた「これからどうするか」
であるということ。
現代の考え方は
「可哀想な私」「悪いあいつ」ばかりが情報で大きく大きく騒がれてます。
大事な「これからどうするか」
と言う側面があまり出てこない、出てきても消滅してしまう傾向が見えます。
アドラーは
「可哀想な私」「悪いあいつ」は不要である。
なぜならいくらその点を反芻しても未来につながるものは見当たらないから。
過去のことばかりを後悔してるだけであるから。
大事なことは「これからどうするか」のみで良いと言う。
まぁ、私もいまだにグダグダ言ってます。
じゃやどうするんだ、と問われてもイイ返答はできません。
政治のことも世間の出来事のことも、まさにコロナのことも同様。
多面的な思考と判断はなかなかできないのが現在の情報化社会の落とし穴のように感じます。。