賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

趣味と実益

2025-02-04 18:17:49 | メンタル
鬱積した欲求不満の解消には、いわゆる趣味が対策方法として習わしとなっていたのではないか?

そもそも趣味と言う言葉は言葉でしかないので、そういう言葉をあまり使いたいとは思わない。

しかし、伝えたい意味を伝えるために、趣味という言葉を使っている。

そもそも趣味と言うのは何を言いたいために作った言葉なのか?

つまり、やりたいことをやれる時間と道具と、自分自身の意識だろうと感じてる。

それが充実していれば、欲求不満の解消になる。

なおかつ、それで実益取れればもっといいと思う。

では、その実益と言うのは一体何なのか?

そこであろう。

結果としては、お金と言うことに行き着く。

今の時代は、やはりお金がプラスになる「何か」と言うことになるから。

「何か」と言うのは、身に付くもの、入ってくるもののことだろう。

言葉にすれば、「収益」と言うことになるが、収益と言うのは結果として「お金」と言うことになるのが現代社会だ。

そもそも、お金がない時代にさかのぼって考えた方がもっとしっくりくるような気がするが。
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心の浄化

2025-02-04 17:57:52 | メンタル
気持ちが沈んだ時にそれを浄化する方法として考えた。

さて、感覚優位だけでできるのか?

今まで言ってきていた感覚優位の状態で鬱積した気分は消えるのかどうか、だ。

そう簡単に消えるんだろうか、と改めて考え直す。

解消である。

消すのである。

しかし、今までの考え方だと消すことはできない。

だから受け入れろ、と言うた。

受け入れて、そしてそれが消えるのかどうか。

消せない、と言う多様に思う。

では、それはどこに行くにか?

気分の落ち込みはどうなる?

ある程度は時間が解決する。

しかし、昂じた感情を持ってしまった場合に、それをどうにかしないと、だ。

持ってしまった場合のことだ。

落ちた穴からは這い出せない。

落ちない方法は言うた気がするが、落ちた場合にどうするかはどうなのだ?である。

落ちたら受け入れる、だけでは得心できないな、きっと。

さぁて。

もう少し考える。
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感覚優位と感情優位

2025-02-04 05:17:10 | メンタル
今までも何度も頻繁に唱えてきたことなのだけれども 感情及び意識優位の現在の人間の生活よりも、感覚優位の人間の生活に切り替えた方が良いと言うてる。

結論はそういうことだ。

以前どこでに言ったことがあるかもしれないけれども、感覚優位と言うのは、そもそもが最近流行っているマインドフルネスとか禅と同じだろう。

感覚優位の意味がわかりにくいかもしれないが。
言うなれば、「そこにあるものはただそこにある」と、単純に受け止めると言うことに他ならない。

自分の場合は、特に車の運転の時にそれを感じることが多い。
車を運転していて、前の車が信号を突っ切った直後に信号が黄色から赤に変わる。
その時に思う事は、ただ単に「あぁ黄色になったんだな。もうすぐ赤だから泊まろう」
そういう感覚のみで良いのである。

大抵において、そういうときに感情的になり、「なんで前の車だけ行けず、自分は行けないのだ!」と以前は思っていた。
感情が先走る。
あるいは「スピードを少しあげれば通過できるじゃないか」と意識してしまう。
つまり、意識や感情が優先すると、そういう「脳の働き方」を言っているのである。
「信号が黄色になったからもうすぐ赤になるから止まろう」
以上、終わり。
本来はそれで良いのであろう。
それを、「こうしたら、ああしたら、どうしたらこうなる」と考えるのが、都市化された現在の人の脳の働きになっていると思うのだ。

あるいは他人と比較して、
「なんで他の人が先に行けて、自分は行けないんだ!」
「なんで自分だけが損をするんだ!」
そういう感情的に脳を使ってしまうのが現代人的ではないか?

それも他人を意識した行為である。
そもそも他人は自分とは独立した存在なのだから、放っておけば良いのである。

それが人ではなくて、自然現象であるならば、比較対象と言う感情を持つであろうか?
他人と言うものを「自然現象である」と認識するのが気が楽だ。
あるいは他の動物だと言う認識でもいいか。
猪や猿やカラスとかと同じようにあまりこちらから近寄らないで良い動物たちと同じ位に思ってても構わないんじゃあ無いかな。
あるいは、猫とか犬。
そう考えた方が、自分にとって都合が良いはずだ。
無礼者!動物と一緒にするな!と言ってはみても頭の中だけのことだ。
そういう考え方、あるいは認識の仕方を感覚優位という言葉で言っているのである。

鬱病は全て人間関係が原因らしい。
アドラー心理学ではそういうことになっている。

人間関係の場合はその関係の場所から逃げて移動したらイイと思う。
そしてもうそこには行かない。
引越ししたらいい。
例えば、ライオンが居たら逃げるでしょ。
ライオンにはそもそも近寄らない。
逃げ出せたらもう隣には行かない。

それと同じ。

「でも逃げる訳にはいかない」って言う。
けれど、「ライオンに食べられたい」、という『洗脳』にはそこの場所から移動するのが対策の全て。
移動してしまえば洗脳に気づくのが結果だ。

そうすると解る感覚がある。
感覚優先になるから。
気づいてしまえば大丈夫。
もう理解できてるから、そこに戻ってもどうしたら良いか解る。

『禅』
それは感覚のみであればそれで良い。
そういうことだな。
もっと言えば『バカになる』ことにも通じるかもしれない。
『バカにするな!』は感情。
感情優位だからもう既にその時点で洗脳されてる。
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コミュニティーの崩壊した社会

2025-02-03 05:45:11 | メンタル
まるで大きなホテルを次々作って、個別に人畜が飼われているような世の中になっていると感じた。

みんな家畜のようなものだ、と。

今、賃貸のアパートに住んでる。

そこで隣組長の担当になった。

自治会員の選考に出ないといけないが、候補者を推薦してくれと言われたが。

お隣や近所に住んでいる人の顔すらわからないのです、私には。

そしておそらく多くの人がそうでしょう。

アパートやマンションなど。

そういう住処がほとんどになってる今の世の中です。

昔のように隣から色々お裾分けをもらったり、行ったり来たりは無い。

だから隣組という組織は不要。

形骸化してる。

近所の繋がりは無い。

そうなった場合に何が問題か?

そうです。

震災とか火事とか、何か災害とかがあった場合の連携された救助機能が無い。

でも、東日本震災では助け合ったではないか?

都市でそういう機能が発揮されたとは思えないですね。

都市ではそこにあるインフラ機関が目立っていたけれど、住民同士で何か機能することはあったのか?

そもそもそういう機能が必要なのか?

そうです。

もう既に見えてこない。

我先に逃げるだけ。

つまり虫の逃亡に似てる。

人としてのコミュニティは既に無いのでしょう。

虫たちと同じ。

養老先生は言った。

「虫は面白い。観察したり解剖したりしてると、虫はロボットと同じ機能なんだな、と解る」

そう言われてます。

そして

「AIが人間に似てきたんじゃない。人間がAI(ロボット)になってきたんだよ」
と。

現代人は生物としての『人』を脱皮しようとしてる?

そうして、サイボーグ化してる?

最後にAI(ロボット)になろうとしてる?

確かにそうなったら放射能も怖くないし、細菌兵器も怖く無いですね。

でもきっと、生きることは無いでしょう。

生きるということに意味すら解らない。

古代生物には何かしらの生存意義があったのでは無いかしら。

今の生物の理解し得ない何か不思議な感覚。

それを脱皮して脱皮して、そして今に至る。

それで何が見えた?

なんとなく、「消滅」の景色が見えるのは私だけ?

感覚というのきっとAIには無い気がするのです。

感覚機関。

その真の意味は「感覚」であるべき。

意識優先の世界を望んできた人間の行く末には「感覚優先」の「生き物」を否定するところにある。

そういう未来は予知能力とかでは無く、生き物の感覚として感じること。

単純な、コミュニティの在り方の崩壊。

それはそういう意味をも含んだ未来をどことなく感じる。

多くの人の不安要素はそこらへんに漂ってる。

私も精神疾患?

それはほとんどの人が感じてるところにある気がする。

感覚優先の需要性。

言葉ではなく、感覚で感じて生きたい。
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老化のワケ

2025-02-01 09:27:33 | メンタル
知らない人が増えてくると知っている人のところに戻りたくなる
それが老化の理由だ
知らない人だらけになって、とてつもない孤独に見舞われた
そうなったときに、仲間のいるところ、みんなのいるところに戻りたくなるのだ
それを宗教と呼ぶ国もある
故郷と言う地域もある
でも、そこにはみんなが待っている
みんなのところに戻るためにだんだんと老化していく
そしてそこには、家族や身内や友人や多くの仲間たちが笑顔で待っている
あるべき生き物のカタチには、大自然がよく似合う
それを都会という間違った誘惑が虎視眈々と狙っている

でも、そんな事はどうでもいいのだ
生まれたところに、
大自然の中に戻るところに、
先の先にたどり着くべき場所なのだと気づかねばならない

生きるということ、そういうことだ

だからこそ、人は老いていく

そして、たどり着くところに自ずと辿り着くのだと

悟りとは老化

老化が悟り

そういうことなのかもしれない
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