賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

幽霊化の時代

2024-12-22 05:51:42 | メンタル
ネットをついつい見てしまい入り込むのです。
引き込まれるんです。
つい、ね。
どうしてなんだろうかと思うのです。
そうか、寂しいのか、と。
そう感じたのです。

そういう意味ではもっと現実の空間の中のコミュニティを盛んにしたらいいのにね。
ところが現実はなかなか強烈なんです。
優しくしてって、思う。
でもねぇ。
インターネットの中、特にSNSもなかなか優しくないんですよ、これが。
しかし、やはり現実の肉体と肉体のお付き合いは実感が大きい。
だから意識の中に入り込むんです。

そう考えたら、実体の無い認識なんだろうか、と、そう感じ始めたのです。
そこまで行ったら、それって幽霊と同じでしょ、って。
そう感じたのです。
インターネットの中の生活空間は幽霊なんだな、と。

古代の日本の中には幽霊というものがあって、それは意識の中で生きてる。
だから触れない。
触れないけど、存在してて生活に影響を与える。

人はだんだんと意識の世界の中に入り込んでて幽霊化してる?
でも、それ言ったら映画の中の役者も似たようなもの?
漫画も同様かな。
まぁ、そうでしょうかね。
でも、やはりそれも現実の触れる物質ではない。
人間だけが持つ奇妙な世界。
第六感の真髄。

獣たちが持つ予感的な感覚とは違うように思います。
たぶん獣が持つ感覚は現実の世界のモノのように感じます。
見えないことや、未来の気配などを感じる獣たち。
あれは、実態がある現実のモノ。
そう感じるのです。

人はそこを捨てて、幽霊の世界を求めたんでしょうね。
幽霊の世界とは、それは意識の世界です。
生き物から変化していく。
無生物と変化していくことを選んだ。

それが最近の印象です。
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常に変化するから望ましい

2024-12-20 05:18:25 | メンタル
基本的に機械は一度プログラムをすると、そのプログラムの範囲の中でしか変化をしない。プログラムをそのまま進化と呼ぶこともできない事は無いけれども、果たしてそうであろうか。生き物に関しては、プログラム自体そのものが進化する。進化と言うよりも変化をする。環境に合わせて、常に変わっていく。おそらくそれが望ましいのだと思う。生命はプログラム自体を変えることができる。そこに生命だけが持つ欲望という奇妙なモノがある。おそらく機械には欲望は発生しない。
機械に欲望を持つことができるのかどうか。シンギュラリティはその辺りにある。欲望は整合性など多くのモノを捨てる。そこに矛盾を孕む。計算上には無い別のモノ。それが欲望。最終的には自己殺戮までする。それが生物と機械の大きな食い違いだろう。
生命は機械にはなれない。機械は生命にはなれない。ただしサイボーグは既に存在する。そこが今の着眼点。どこまで生命が進化するか。生命は常に変化するから希望が残る。絶望もある。超えることのできる絶望が望ましい。
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仕事のおさらい勉強

2024-12-18 21:04:07 | メンタル
自分自身、役に立たない能力の人だ。むしろなんの能力もないレベル。だから仕事をするにしてもあまり難しい事はできない。難しいことをしてはいけないと感じるのだ。でも生きなくてはいけない。残念ながら今生きてるから。死ぬわけにはいかないから仕事をしている。自分に何ができるか。それを改めて考える。
老化に伴い動作が遅くなっている。もともと動作は遅い。その上整合性が取れた動作がなかなかできない。周囲の人からよく気違いと言われる。でも自分では正しいと思ってやっていること。
だから、やればやるほど周囲に迷惑をかけている。それでも賃金をもらうためには仕事をしなければならない。そうしないと生きていけないから。だからなるべく周囲に迷惑をかけない範囲での仕事をしたいと思っている。ところがそんな都合の良い簡単な仕事は頭の良い人が取ってしまう。結果として、自分には複雑で困難でハードな仕事が回ってくる。その上責任も伴うような仕事になっている。そこで感じるのは世の中の縮図だ。簡単な事は頭の良い人がやり、やり難しいことを頭の悪い人が押し付けられる。それが今の世の中の縮図だろうと感じる。しかしもうすでにそういう事はしようがないと諦めざるを得ない。どう頑張っても頭の悪い自分にはその構造を変えることができない。だから難しいことをより簡単にやろうとする。時間をかけてやろうとする。自分でもできるようにやろうとする。でもって、それが周囲に迷惑をかけるらしい。どこまでいっても矛盾は残る。矛盾が残るけれども、世の中がそういう構造をしている以上はそうならざるを得ない。私ではどうしようもないことなのだから。もしそれに反論がある方がいれば、そこをあなたにどうにかしてもらいたい。そう感じる。
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「いい意味で」ってなんなん?

2024-12-17 11:42:43 | メンタル
よくいろんな言葉の端々に「良い意味で」と言う言い方をする人がいるが、良い意味で受け取るか悪い意味で受け取るかは受け取る側の主観によって自由で良いと思うが。

結局悪い印象で受け取らないでよって言うことを言いたいのだろうけれども、その言葉の使い方をされてもどうも印象良く受け取れない。

良い印象で受け取って欲しいならば、むしろ何も言わないほうが良いのではないかとも思うことが多い。

たいてい言葉と言うのは、人に何らかの意思表示をするものであって、人の意思をコントロールしようと言う意味が入ってくると非常に不快に感じる。

私がどう感じようがどう思うが、私の好きにさせて欲しい。

それをあなたは良い意味で受け取ってよと言うことを言葉にして言われると、相手の思惑通りに動かなければならないと言うそういう恣意的な指図を感じる。

私は人に指図をされるのは非常に嫌だと感じる。
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効率に囚われる

2024-12-16 17:38:48 | メンタル
わりと世間は効率重視と言う。
みんなその意識に囚われる。
しかしそれであたふたしてる。
ではそこを否定してみる。

効率よく行動しようとすると、無駄な部分をとことん排除しようと言う意識が生まれる。
しかし、無駄な部分を排除すると言う意識こそが、一番無駄な行為である。
人生は無駄でできていると思う。
考え直してみると、無駄でない人生と言うのは無いように思える。
命は目的があって生まれてきたのではなくて、気がついたら生まれていたと言うのが本質だろう。
ならば、それこそが一番の無駄ではないか。
したがって、無駄な生き方、あるいは無駄な行動が命だと感じる。

効率を重視しようと言う事は、無駄を省く行為であろう。
それは先ほど言いました。
人生において、それは自己否定とも言えるわけですな。
生きていてもしようがないから、死んだほうがいいと言う刹那主義に走ります。
堂々巡りであり、考えてもしようがないことであります。
つまり、効率を求めてはいけないということなのであります。
効率が悪い行為のほうが、むしろ生きる目的に近いのかもしれない。
そのくらいの考えや意識があっていいと思います。
損をすることが人生なのかもしれない、と。
その程度曖昧なものでいいと思うのであります。

そこまで考えてしまうと、多くのことが気にしすぎだと思えるようになります。
思えるようにならないと幸せにはならない気がします。

では、幸せとはなんぞや?

しかし、そこから先を意識するとたちまちそれはそれで効率を重視しようと言うことになります。
幸せだろうが、幸せでなかろうが、それを考えることが効率重視につながっていくのであります。

「仏門に入る」とか、「禅をする」とか様々な言葉を世間で聞きます。
しかし、それは世捨て人でもなく絶望者でもない。

多くの人が到達する意識は、「あるがまま」とでも言いましょうか。
ぼーっとしてたほうがいい。
馬鹿だと言われてていい。
気にしない気にしない。

しかし、他人に害を加えるようなことが万が一あるとするならば、それは困ったことにつながるので。
まぁ、その辺だけ意識したほうが良いのだろうなと。
そのくらいが適当だろうと思います。

もう一方で、人の目線というのがありますな。

他人の意識に支配されているというのがあります。
他人を気にするから時間を気にする。
時間を気にすると言う事は、効率を良くしようと言うことにつながっていきます。
したがって、他人の意識に支配されないためには、他人の目線を気にしないとか他人を気にしない行動を取ることもやや必要になってきます。
ただ、他人を一切無視すると、それはそれで困ったことになります。
なので、そこはほどほどにというのをプラス加味しないといけませんな。

しかしながら、それでも焦りが出てきますがな。
困ったことに、です。

そこでさらに考える。
焦りは欲求であろう。
つまり、効率の悪い法を選択しようと思っているのだが、それでも焦ってしまう。
効率が悪い方を求めようと言う諦めの精神を持てない。
焦りとは、欲求の一つではないかと言う気がしてきた。
つまり、焦りたいという一つの欲求がある。
そういう意味にもなる。
欲求がある。
ある意味、他者よりも容易に立ちたいと言う欲求が焦りにつながる。
そこには必ず他者が存在している。
他者がいなければ、比較する人間関係がそこにはない。
そうなると、結論は人間関係であり、人間関係とは、人を相手にすることだけではなくなっている。
人が関与する様々な物事に対して人間関係が存在していて、そこに他者との容易性を求める心が発生する。
そこに焦りと言う感情が湧くのであろう。
つまり、焦りは人間関係に起因する。
人がいなければ、焦りは存在しないのかもしれない。
人がいなければ、焦りではなく、もし発生することがあるとすれば、それは恐怖だろう、と。
不安と焦りは同類の部分にあるのかもしれない。

したがって、焦りを排除するためには、そこにいる人を認識しないようにしなければいけない。
ところが必ず人はいる。
そして、人を相手にしないと今の世の中の行動は先に進めない。
そうなると、とにかく何かをするためには、人間関係が必ず通過点として存在し、そこに焦りが発生する。
焦りは回避できないものだと一旦諦めて、そこから考え直しする必要がある。

焦りを低くするには、焦りが発生しない環境に自分の居場所を持ち込まなければならないように思う。
焦りが発生しないと言う事は、人間関係において、他者との比較ができないところにいなければいけない。
そうなると、優位性が存在しないけれども、劣性も存在しないと言うことになる。
自分より劣っていると言う劣勢が存在しないので、他者との比較自体がないと言うことになる。
結果として優位性も求めないと言うことになる。
つまり、比べることがないところに行かないといけない。
そういう道を通過しないといけないと言うことだだろう。
それは一体どういうものなのか?
どういう生き方がそういう道になるか?
そういう道は存在しているか?
そういう生き方は存在しているか?
結論としては、人がいないところに行かざるを得ない。
と、いうことだろうな。

ここまで考えて思うこと。

効率的なことと焦りの感情が湧くことは、
それは比較的類似した問題点を含んでいる。
効率的に物事を進めようと言うから、焦りが起こる。
そのために、効率的に物事を進めないようにしたら、焦りが消えるか?
ところが、そういう焦りは本能から出ている。
そうなると、ややこしくなる。
本能を断ち切るという行為は、自分自身にさらに蓋をすると言うことにも向いていく。
食欲とか性欲とか、そういうものに蓋をしようにも、どうにもならない問題が潜んでいる。
だったら、どこかに解放せねばしようがあるまい、と。
それが、焦りが湧いている途中にどうにかしないと蓋ができないものもある。
また、蓋をしようにも蓋ができないものもある。
そうなると、垂れ流しになる。
焦りを垂れ流しにすると、非常に厄介なことになる。
狂鬼乱舞である。
焦りを消化する方法がいるが、そもそも解消とは消費か?
狂鬼乱舞である。

とても難しい。
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