賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

103万円の壁の見直しで、私の生活は本当に豊かになるのか?

2024-12-12 05:40:16 | エッセイ
言葉が優先的に先走ってしまってやりたい目標に本当に効果があるのかどうか最近疑わしく思う。
言葉だけ捉えると、さも良いことが起こりそうに感じるのだけれども、その言葉通りにやってみて本当に良くなるのかどうか?
やってみないとわからないと言うのであれば、確かにそれは言える。

それよりも、言葉によって、目線を一方に引きつけられているのではないかと言う気もする。
例えば、トラック輸送の長時間労働の問題であるけれども、長時間労働で事故を起こすから長時間を禁止して8時間以内にすると言う1つの方法がとられている。

しかし、8時間以内の運転をさせたから、事故がなくなるかと言えばそうとも思えないだろう。

事故が起こるのは、例えば飲酒問題はわかる。
あと睡眠不足のまま運転させるとかそういう問題もあ流だろうな。
後は単純に不注意の問題もある。

休憩をきちんと取りながら運転をするとか、仮眠を取りながら運転をするとか、基本的な運転のための環境を持たせると言うのは時間だけの問題ではないと思う。

例えば、体力について考えてみよう。

虚弱体質の人が、重いものをたくさん運ぶとなると、それには確かに無理がある。
ところが、筋骨隆々で力も気力も満ち溢れている人が、たくさんものを運んでも、一切疲れないという人もいる。
その場合、体力がしっかりある人はそういう仕事をしていいと思うのである。
逆に、虚弱体質の人は避けるべきだと思うのである。

つまり、長時間労働の問題を捉え考えるのであれば、長距離トラックを運転するにおいて、それなりの準備と体調と気力があれば、きちんと手段を整えて取り組めば大丈夫ではないのか?

別の角度で考えてみる。

「電通」の「高橋まつりさん」のように「長時間労働とパワハラ」から自殺をしましたと言う人がいるが、問題点は「パワハラ」が課題ではないのだろうか、と。
詳しく知らないので断定はできないけれども、私の感覚で言うとおそらくパワハラからくる人間関係ではないかと思うのだ。
従って「長時間労働」はその「イジメの材料の一つ」ではないか、と感じる。

「長時間労働」をしてもやる気があってバリバリ取り組んでいる人がいる。
ただし、自分の肉体の限度を超えて、取り組ませるのは、管理者の怠慢となる。
しかし、それがきちんとできていれば、とことんやらせていいと思うのである。
「高橋まつりさん」の場合は、着目視点は人間関係が原因なのであって、そこをきちんと手当てするべきだと思う。
ただし昨今、正確に手当しないで形骸的な作業で終わってはいないか?
結局は内在する課題が克服できていない気もする。

イジメは動作の問題ではない。
意識の問題なのだから。

例えば
「女だから」という言葉を使う。
あるは「男だから」と言う。
そうすると「差別」だと言う。
しかし、女性は男性とは肉体的に違うでしょ。
そこは認めてくれる筈(だと思う)
そこを無視して肉体的に女性も男性と「同じ」と扱うのは違うでしょ。
だったら男性が出産してもおかしくないだろう、と言ってるに等しい気もする。
まぁ、これは極論ですが。

さて、労働時間の問題に戻る。

労働時間に関しては、そのやり方をきちんと整理して取り組めばいいと思うのだ。
したがって、長時間労働だと言って、そこで考えを止めてしまっているから、余計に変な方向に不具合が出る。
つまり、仕事をしたい人に仕事をさせない対策をする。
そして、仕事ができない人が増えたから、労働市場が疲弊していく。

まさに、息苦しいからと言って、自分で自分の首を絞めてそれで改善できると思っているようなそんな印象だ。
息苦しいなら息苦しくなっている原因を取り除かなければならない。
なのに、苦しいからと言って、自分の首を絞めてどうする?
仕事ができる人は長時間労働だろうがハードだろうが、やる気があればどんどんやらせて高額賃金を取得させたら良い。
そう思うのだが。

そこで話をもともとのテーマの「103万円の壁」に戻して考える。

「103万円の壁」と言う抽象的な言葉でごまかしているけれども、そもそも「103万円の壁」と言うのは、アルバイターがちょっと仕事をするときに税金がかからなくてもいいよと言う特別な所得税の免除であろう。
なぜそういう免除をするのか?
そういう仕組みはどこから来たのか?
そこから考えればならないと思う。

そもそもの誕生は「恒久減税」からではないか?
確かそこから始まっていると思う。

それは103万円がどうとかと言う問題ではない。
「家庭の所得を増やそう」と言うところから、始まっているのだ。
そこから考え直しをしたほうが良い。

しかしそれはそもそもが、「家事、育児に専念していた主婦たち」を労働市場に引っ張り出そうと言う魂胆から始まっている気がする。
「家事育児に専念していた主婦たち」に税金を取らないから仕事をせよと言う目論見である。

しかし、家事育児を放棄して仕事をさせるわけにはいかないので、大体100万円程度以内に仕事をするのであれば所得税を取らないよと言うところからであろう。

なぜ、そうしたかと言うと、労働市場に人を増やしたかったからであろう。
そう感じるのだが。

では、そもそも人が足りないと言うことを疑ってみる。

どこに足りないか?
例えば、接客応対の仕事 つまり店員とか人応対する部分に足りないのであれば、そこの需要がどういうもので出来上がっているかを分析しないとわかりにくい。
その中に、インバウンドの接客というものがありそうだ。

インバウンドはあまり歓迎できるものではないが。
そこはもし可能であれば、AIとか機械に頼んだほうが良いのではないかとすら思う。

外国からのお金の流入が重要だと言う視点を考えてみる。

外国に対してお金を稼ぐと言う事は、「出稼ぎ労働」に近い感覚を持つ。
それプラス「労働力の輸出」ということであれば、その輸出分をどこかで輸入しているものがあるのかどうか?

 輸入しすぎて、お金が足りなくなっているのであれば輸入をやめればいい?
安いものを輸入するのであれば、安い国内の人件費でその安いものを作ったらいいだけのことではないか?
無理して外国製品を買わされていると言う部分がないか?
そこには舶来品が良いと言う洗脳がある気がするのだが。
考え過ぎな部分もあるだろうけれど。

外国から安く輸入できると言うが、国内の方が賃金も安いし、安く作れるのではないか?
そういう時代になりつつありませんか?
そういう疑いを持つか あるいはそういう方法目論んではいかがか?

そもそも、昨今は物価ばかり上がる。
ものの値段が上がったら、利益が上がるはずなのに
材料費だけが上がると言う。
材料費が上がると言う事は、外国からの輸入材料があって、その輸入材料が高くなっていると言うことだろう。
輸入しないといけないから、物価が高くなるなら輸入をやめたら良い。
国内生産を目論む方が良いのではないか?
そこに機械を投入。
接客ではなくかつての日本のお国芸だった物作りで。
人はそちらに使ったらいかがでしょ。

イヤイヤながら「オモテナシ」という奴隷状態を作らなくてもねぇ。
良いように思う。

では、

そもそも所得税を控除することで仕事をさせる仕組みなわけでしょ。
それをもっと仕事をさせるという方向に向いてるのでしょ。
それを考える対象は学生と主婦層。

学生が学業に専念できない環境から考えた方が良さそうにも思いますな。
仕事をしたいのならば仕事を専業することもできます。
そのついでに専門知識や資格を取ってる人もいる。

仕事をたくさんできる様にするのが目的ならば、むしろ学業より仕事を専業でさたらいい様にも思います。
それと逆に、一人の人の一日にできる仕事の時間を制限してるというのもなんだか不思議な印象を持ちます。
元気なら一日に八時間と言わず、もっと仕事させたらダメなのですかね。

労働市場は労働者が欲しいのでは?
ならば何をどうしたいのか?
そして学生は何がしたいのか?

就職してから儲けてから学校に入ったらダメなのですか?
先に学校に通ってる間にまた就職難になるかもしれないし。
失われた時代になって失望する若者が増える様なことがなければいいな、と思いますがね。

それと家庭の中で専業主婦で子育てや家事に専念してる奥様方も「もっと働け」とばかりに控除という言葉で仕事をさせようとしてる気がします。

家事は楽なのか?
育児は軽視してて良いのか?
出産は簡単な行為なのか?

家庭を放置することは子育てや出産にも影響するでしょ。
今は仕事が最優先の時代なのか?
だから出産はしないで働く女性が増えたらいいという時代のかな?
子供の出生率は下がってますよね。

女性を仕事の現場に引っ張り出して出産をおろそかにする行為になりませんか?
或いは「仕事をしながら出産もする」という過激なタスクを押し付けようとしてませんか?
出産を「はいどうぞ」でポンと子供ができると思ってませんか?
そういう認識は男性とか出産経験のない人の想像な気がします。

このままの所得控除廃止の方向では少子化は歯止めどころかどんどんと推進させることになる気がします。

出産率を高めるには
「女性は望まない人以外は、或いは希望すれば」
社会で働かなくて良いから「出産、家事、子育て」に専念してください、という方向で考える方が良いような気がします。
それで出産して成人したら年金を出すくらいでも良いようにも思います。

そう簡単な話ではないけれど、そのくらいやらないと子孫は増えない気がしますな。

そこまで考えると、既に「正反対の目標」に整合性を考えずにただ目先のポピュリズムに囚われた政策だけをしてる人の国になったなぁ、と思うのであります。
やらないといけない事は全く逆のことを同時に考えないといけないのに、目先の考えだけでは解決しない。

政治家や学者がバカになってるんでしょうか?
或いは私の方があさはかなんでしょうか?
まぁ、どちらにしても、既に私は関係ないところに生きてる。
寧ろ、老人は死なずただ消え去るのみ、か。

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