2023年4月10日午前1時31分、母が鬼籍に入った。
満94歳である。
今年6月で満95歳になる少し前だった。
元々、4月10日は姉と母の入院している病院に面会に行く予定をしていた。
我が住処と母の病院とは450kmほどの距離がある。
短時間では着かない。
前日の夜に体調が悪化したとの連絡があり、姉と新幹線の時間を早めようということになった。
既に肺に水が溜まりだしたので時間の問題、病院からは最善を尽くして延命をしているとのこと。
日にちを超えて午前1時半過ぎに臨終の連絡があった。
1日置いて12日に葬儀。
11日の午後6時から通夜だった。
通夜と言うのは今生のお別れを夜通しで共に過ごすことだと認識していた。
なので、葬儀の前日に経を読んでご苦労さんと言うのはどうにも理解に苦しむ。
ただ単に「やりました感」だけが残る。
葬儀は家族葬。
喪主の兄の手配。
香典も弔電も不要とのこと。
なので、何も持っていかなかった。
ただ、お供えとしての手土産だけで持っていった。
娘と奥様と3人で車で450キロの旅。
最寄りの新幹線の駅から近く、300mくらいの距離にある葬儀場だった。
葬儀も母の子供だけという事で、孫たちは来なくていいとも言っていた。
葬儀には姉夫婦とその息子2人が来た。
ウチからは息子も娘も来たので計4人。
喪主の兄夫婦とその息子。
その11人と常に懇意にしていた母の甥夫婦、それと生前に面倒を見て頂いていた近所の親戚夫婦。
総勢15名だった。
家族葬という事なので10名以下で考えていたらしいが、兄の予定していた人数より多かったのでは無いか、と思う。
しかしそれはそれでいい。
棺の中の母の寝顔は別人のように浮腫んでいた。
さぞかし手術後の痛みで痛かったのではないかと思う。
大腿骨の骨折で緊急手術。
心臓疾患のせいで、術後の痛み止め薬が使えず、痛くても耐えるしかない状況だったらしい。
そもそも、その元凶は心臓の手術が発端。
11年も前のことだ。
心臓手術の人工弁(生体弁)は耐性期限が10年だった。
母の心臓弁は術後、既に11年以上経過していた。
放っておいても必ず期限が来る。
それが今日か明日かの状況でここまで来た。
その心臓手術も本来は助からないものだった。
11年前。
母は一人で暮らしていた。
深夜の突然の胸の苦しみ。
そこは田舎の家だ。
田舎にある緊急連絡電話で伝えた苦しみ。
それを近所で世話になってる親戚が受けて救急車をすぐに呼んだ。
既に心臓弁が壊れていた。
救急車で運ばれた市民病院で緊急処置、それで判った心房の血の逆流。
もう無理かと思われた時に、市民病院の判断は、大学病院での緊急手術。
再度、救急車で大学病院に運ばれた。
緊急に緊急を重ねて、ラッキーだった判断の連続。
運が良かった。
11年前に死にかけた命を繋いだ。
それは運というよりも自力で生き延びたんだと私には感じる。
約二ヶ月程度の入院。
母はその後、田舎に戻り一人で暮らした。
兄とその長男がほぼ毎週、どちらかが田舎に戻り畑仕事や、田んぼの仕事や家の世話をしていた。
感謝である。
特に兄の長男には頭が上がらない。
生前の母もそう言っていた。
「よく仕事をする孫だ」と。
葬儀の時に再開した甥は、顔だちがしっかりした大人の良い青年の顔になっていた。
そもそも、亡き父の考えでは、田舎の我が家は、私が農業の後継として考えていた様だった。
父は30年前に、実家の隣に自分の大きな二階建ての家を建ててくれていた。
父の思惑が変化したのは自分が28年前に仕事の関係で九州に転勤してから。
その頃は自分も三ヶ月で戻ると言って出て行った。
それが既に28年も経った。
長い旅だ。
結局は戻れなかった。
いや、戻らなかった。
ダウンタウンブギウギバンドの「裏切り者の旅」という歌がある。
それを思い出す。
家はそのままだ。
住む事がなかった新築の家は既に30年経った。
全てのモノが自分を待ちくたびれていた。
しかし、そろそろ潮時だろう。
もう戻れない。
そして、戻る目的も亡くなった。
母の死は自分にとっては、凧揚げの糸が切れたようなもの。
あとは、どこかへ飛んでいくだけ。
風に吹かれて流されて、目的地のない旅がただ続くだけになった。
母の棺は丘の上の火葬場で骨になった。
約1時間半、焼かれて真っ白になった骨の足の付け根に手術の時に差し込まれた金具が残っていた。
骨壷は兄が持ち帰り、兄の街の兄の家で49日まで喪に服す。
49日は実家に戻り行う予定。
その時集まるのは子供達だけかな。
今後のことも話し合うんだろう。
一家の終焉をどうするのか。
兄は「自分の目の黒いうちはこのまま田舎の家や田畑や山は残すつもりだ」と言っているが、その後はどうなるのだろう。
そういう意味ではこれも一つの歴史なんだろうな。
今週末。
49日でまた田舎に戻る。
納骨である。
もうそんなに経過したのだな、と時間の流れを感じる。
なんだか自分の時間もあと、あまり残ってない気がする。