犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

あわいに立つ力

2016-11-19 00:16:59 | 日記

安田登さんの著書『あわいの力』(ミシマ社)は、安田さん自身の生い立ちから能楽師になるまでの経緯も含めて、能の話にとどまらない興味の尽きない記述に満ちてます。

安田さんは「心」というものが生まれたのが、せいぜい三千年程前であると言います。文字が出現することによって、今さらどうしようもない過去について思い煩ったり、制御することのできない未来について恐れたり、といった「時間」を前提とした「心」の働きが生まれます。「今、ここ」以外の時空間を「文字」が現前させることで、心のマイナスの働きが立ち現れることになります。

安田さんの思索は、心の働きを整えることによって、心そのものが生み出す問題を解決することには、もう無理があるのではないかという疑問から出発します。そして安田さんはその具体的な対案を提示するのではなく、「文字」が生まれた瞬間を、例えば甲骨文字や楔形文字の出現の瞬間をたどることで追体験し、そこに脱出の糸口を見出そうと提案します。
文字が生まれたこと、心に振り回されることが、ある自然誌的な出来事であるならば、その次の人間の進むべき別のありようもあるのではないか、というのです。
めまいのするような大きなデザインです。松岡正剛さんをして「この十年で出会った最も驚くべき異才」と評せしめるスケールの大きさがここにあります。

想像力を刺激させられる記述の中で、特に印象に残るものとして「見たてる」ことに対する評価があります。
見たてに対置されるのが「信じる」であって、目に見えないものを意思の力で「あるがごとく感じる」ことを指します。「見たて」は、そうではなく現に目の前にあるかのように「見えてしまう」ことを言います。そして、これは意思の力ではなく訓練によって身につけるしかないものなのです。
例えば、本駒込の六義園には和歌などの古典を連想させる文字の刻まれた石柱が随所に置かれています。ここを訪れる武士はこのような仕掛けによって、夕暮れの若の浦や、鶴の羽ばたく様子を眼前に再現させる訓練をしていたというのです。
安田さんは、幕末に欧米列強の侵略を阻止しえた陰には、列強どうしを牽制させあうほどの老獪な幕閣の知恵があったと言います。そこに「見たてる」力があったのだと。

対象と自己とのあいだに明確な線を引いて、対象との距離を測ったり、流れる時間を均等な目盛で区分したりしない、「あわい」に立つことのできる力がそこにあります。
能の舞台において、漂泊の旅人などを演じる「ワキ方」である安田さんは、まさに「あわい」に立つ存在を演じることで、その可能性を実感しているのだと述べています。

コメント (3)
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