犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

情熱の連鎖

2017-07-31 00:07:06 | 日記

 藤井聡太四段の公式戦29連勝は、大きな夢を与えてくれただけではなく、将棋に関わる人たちがいかに魅力的かということも教えてくれました。
 勝っても驕らない控えめな態度や、中学生とは思えないほど落ち着いた対応は、将棋ファンならずとも人を引き付けます。そして師匠である杉本昌隆七段の弟子に向ける優しいまなざしも心温まるものでした。
 杉本七段は、二年前のインタビューで、「彼(藤井)がもし棋士になれなかったら、私は責任をとって引退しなければ」と漏らすほど、弟子の育成に全力を挙げて取り組んでいました。わたしは、この弟子思いの師匠の「棋士」としての夢や志にも興味を持ちます。
 杉本七段の語るところによると、自身にとってのライバルは、故・村山聖九段です。杉本七段は「村山聖君」と呼び、「きっと向こうも同じように思ってくれてたんじゃないかと思っています」とインタビューのなかで述べています。村山九段が亡くなったのが、1998年の夏ですので、20年近くも昔のライバルの姿を思い描き、杉本七段はライバルとの関係を心のなかで育んでいるのです。

 不世出の天才と認められながら、名人位を手にすることなく29歳で病のために亡くなった村山聖の生涯は『聖の青春』として出版され、映画化もされました。
 ネフローゼを患いながら寿命を削るように将棋を指し、仲間たちと痛飲する姿は、輝かしくも痛々しいものでした。その村山九段にとって最後まで心の支えであり、『聖の青春』のなかでも和らかな光を放つのが、聖の師匠である森信雄七段との師弟愛です。
 ほんの些細な手続き上の行き違いで、村山少年を大人の争いに巻き込んでしまい、奨励会入会を一年遅らせてしまってから、森七段は実の親以上に親身に愛弟子の面倒を見ていました。お互いに破天荒なもの同士、気持ちが通じ合うところがあったのでしょう、『聖の青春』にも仲の良い兄弟がじゃれあうような頬笑ましい場面が登場します。
 その森七段が先日、引退会見を行い「本当は村山君と一緒に引退したかった」と語っていたのが印象的でした。

 森・村山の師弟がそうであったように、杉本・藤井の師弟にも親子以上の深い絆があって、村山・杉本の間にはお互いに認め合うライバル関係があったと考えると、そこに不思議な連鎖を感じます。
   この連鎖を「縁起」と言い換えることができるのではないでしょうか。
   師匠と弟子に受け継がれる知識や技の連鎖、ライバルどうしが切磋琢磨しあって初めて生まれるひらめきといったもの、それらは時間的に前後する「原因」と「結果」の関係でもあるのでしょう。しかし、人と人とが触れ合うことで瞬間的に開かれる関係によって、そこに関わる者たち自身が変容することを、仏教では「縁起」と言います。時間的に前後してみえる「原因」と「結果」は、縁起を抽象的に切り取ってみた、一断面のようなものに過ぎません。
   たんに一人の天才が現れたというのではなく、人と人とが触れ合うことで生じる情熱の連鎖があって、そのなかの連環の輪のひとつとして藤井聡太という少年がいるのだと、わたしには思えるのです。

コメント (1)
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