犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

なぜ困っている人にお金をあげるのか

2021-12-10 18:33:33 | 日記

落語の人情噺には、金を無くして困っているひとに、なけなしの金をポンとあげる噺がいくつかあります。
先日たまたま付けたテレビで、笑福亭学光が「千両の富くじ」を演っていました。金をすられて困っている丁稚のために、貧乏侍が明日の生活のためのなけなしの金をあげてしまいます。残りの金で買った千両富くじで千両を当てたけれども、その後紆余曲折があってという筋書きです。
また、先日読んだ『思いがけず利他』(中島岳志著 ミシマ社)も落語噺「文七元結」に触れています。博打好きのせいで吉原に娘を預けることになった貧乏職人が、出直して娘をとり戻すために借りた金を、商売の金を盗まれて死のうとしている人のためにあげてしまう話です。
人情噺ですので、その後色々な人の善意もあって、どちらの話も大団円を迎えるのですが、「文七元結」について立川談志は、どう解釈してよいのか悩み抜いたのだそうです。

前掲書『思いがけず利他』によると、こうです。
なぜ見知らぬ人に大切なお金をあげてしまうのか、困っている人への共感でもあろうし、江戸っ子の気質でもあるでしょう。三代目古今亭志ん朝は、この両局面を重層的に組み合わせて語りました。ところが立川談志は徹底して困っている人への共感を排除しようとしました。人間の業を描くことを落語の命と考えていた談志にとって、困った人への共感を描いてしまっては「業」が消えてしまうのです。大団円を迎えることは皆承知で、それが聞きたくて噺を聞きに来ているのだとすると、「情けは人のためならず」というセコイ根性につながりかねません。「金をくれてやるのは最後の博打だ」などという露悪的なセリフまで考え出して、談志はこの噺と格闘したのだそうです。

談志は答えを見つけきれないうちに亡くなってしまったようですが、著者は談志の悩みを引き継いで、著者なりの答えを示しています。
詳しくはぜひ同書を読んで確認していただきたいのですが、ひとつだけ要点をお話しすると、利他的な行為や贈与には、「贈り手」と「受け手」に時制のズレが生じるということです。
「利他」が「利他」として、「贈与」が「贈与」として成立するためには、受け取った側が「正しく受け取った」と認識する必要があります。そこがスタート地点です。贈り手は、どうか届きますようにという祈りを込めて「未来へ向けて」贈り物をします。受け手は、そういえばこんな大切なものをもらったとか、こんな大事な言葉をかけてもらったとかを「過去にさかのぼって」はじめて気付くのです。
学校の先生にかけてもらった言葉が、数十年後にかつての生徒の心に響くのを想像してもらえばいいでしょう。

さて、贈り手と受け手の時制がズレることを正しく認識するとどうなるでしょう。
この認識は、贈り手には勇気と辛抱強さとを与えてくれるはずです。今ここでの見返りを求める小心さ、性急さから自由になります。
時制がズレているという認識は、受け手には謙虚さを与えてくれます。今こうしてあることは、偶然の積み重ねであって、自分ひとりの手柄でもなければ、自己責任で割り切れる話でもなくなるのです。
談志が描きたかった人間の「業」は、与える側の祈りによって、受け取る側の驚きによって、業そのままに再現されるはずです。

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