犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

恋は液体、愛は固体なのか

2023-09-19 20:05:07 | 日記

現在上映中の映画『ミステリと言う勿れ』の宣伝で、かつてのテレビシリーズの再放送をしきりにやっています。
最初の放送はコロナ禍の真っ最中で、その影響でお茶の稽古も中止になるような状況でした。その当時本来なら稽古だったはずの時間に、観るともなくテレビをつけていると、このドラマの番組宣伝が目に入りました。福岡地方局の女子アナ3人がそれぞれにとっての「格言」を披露しあうという短いコーナーです。

そこで披露された、格言のなかのひとつがこれ。

「恋は液体、愛は固体」

他の2人から「どうしたの、何かあったの?」と突っ込まれていましたが、言った本人はこう説明していました。

恋している間は、受け取る相手の器の大きさに応じて、与えられるものも「たったこれだけ」だったり「こんなに沢山」だったり、液体のように変化する。

なるほど、それでは愛の固体は、と期待を膨らませて、テレビ画面に思わず向き合ってしまいました。
するとフリップに書いた文字が、「個体」と誤記されていたので、皆で大笑いというオチでコーナーが終わってしまいました。
消化不良も甚だしい終わり方です。
残された格言が、とんでもなく深淵なもののようにも思えてきます。

彼女は何を言おうとしたのだろうと考えて、次のような想像をしました。
相手を愛してしまうと、相手のキャパを考えずに、宅急便を送りつける具合に思いの丈を送ろうとする。つまり送る側の都合によって大きさが決められてしまいます。それは際限のない贈与にもなり得るし、相手の都合を顧みない勝手な贈り物にもなり得る。
そんなところでしょうか。違うような気もします。

さて、固体と液体が出てくれば、「気体」も当然、用意してあげなければなりません。
相手のキャパに左右されず、こちらの都合で大きさを決めることができない、気体のようなものとは何でしょう。

千手観音の手がなぜあのように沢山あるのかという問いに対して、「闇の中、後ろ手で枕を探す」と答える禅問答があるのだそうです。南直哉さんの著書『刺さる言葉』(筑摩選書)に載っていました。
観音様の慈悲とは、救うべき人とその苦悩をあらかじめ熟知していて、超能力で片っ端から片付けていくようなものではなく、闇の中で枕を探すような当てのない行動だというのです。他者の苦悩に導かれて、失敗を繰り返しながら、それでもあきらめずに、その手がようやく苦しみを癒すところにたどり着くのです。

「慈悲は気体」

興ざめでしょうか。

それにしても「愛は固体」は何を意味していたのでしょう、いまでも気になります。
                     (コロナ禍真っ最中のブログへ加筆し一部再録したものです)


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