犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

「ふたつの悲しみ」から

2024-03-27 18:01:01 | 日記

フィリピン基地の特攻隊の整備隊長を務め、機銃の胸部貫通という重傷を負ったある兵士は、帰還して千葉県の厚生省援護局で、元兵士たちの死亡の経緯を留守家族に伝える仕事に当たっていました。
そして、その当時のことを書いた文章を、鶴見俊輔の雑誌『声のなき声のたより 43号 』(1967年)に寄せています。
多くの人に感動を与えた「ふたつの悲しみ」という飾りのない文章は、のちに中学校の国語教科書にも取り上げられるようになりました。作者の名は、杉山龍丸と言います。

杉山の隣席のニューギニア派遣兵士の係に、恰幅のよい紳士が訪ねて来て、息子の戦死を告げられるのを杉山は聞いていました。杉山がその紳士を役所の暗がりで見かけると、彼は白いパナマ帽を顔に当てて壁板にもたれるように立っていました。肩は震えパナマ帽からは涙が滴り落ちていたそうです。

次の日、小学2年生だというおかっぱ頭の少女が、杉山の所に来て、フィリピンに行った父親の消息を教えてくれと言います。祖父母は栄養状態が悪く歩けないので、自分が確かめに来たのです。少女の父が戦死したことを確認した杉山は、そのことを少女に伝えます。
少女は、父親の亡くなった状況を紙に書いてくれと杉山に依頼し、それを受け取ると涙も見せずにポケットにしまい込むのでした。大丈夫かと杉山が尋ねると、母親も死に、妹二人を抱えているので、何があっても泣いてはいけないと、祖父に言われたと答えたそうです。

この「ふたつの悲しみ」に遭遇した杉山は、この文章の中でこう結んでいます。

私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにを考えるべきであろうか。
私たちは何をなすべきであろうか。
声なき声は、そこにあると思う。

杉山龍丸は「私たちは何をなすべきであろうか」というみずからの問いに答えるように、旱魃と飢饉にあえぐインドに向かい、彼の地にユーカリの木を植え、彼の地に適した作物を植えて、インドの緑化に尽力します。一民間人に過ぎない杉山の事業に日本政府からの援助はなく、父の営んでいた福岡の「杉山農園」の広大な敷地を切り売りして、緑化のための資金にしていたのでした。
緑化は着々と成果を上げて、杉山はインドの人々から「緑の父・グリーンファーザー」と慕われるようになりました。

おそらく、杉山龍丸の偉業は多くの日本人には知られていません。

そして、龍丸の父、杉山泰道はペンネームを「夢野久作」と言い、執筆活動を続けながら「杉山農園」を守っていたこと、泰道の父、杉山茂丸は明治維新後の政財界のフィクサーであったことも、ほとんど知られていないでしょう。
アジア諸国が独立したあと、農業指導者が必要だと考えた茂丸は、アジアの若者たちの農業実習の助けになるよう、息子夢野久作に命じて「杉山農園」を拓かせたのでした。

今は絶版になっていますが、龍丸の子息、杉山満丸氏の著書『グリーン・ファーザー』(ひくまの出版)に、これらの経緯が詳細に記されています。彼らの不屈の志が、私はどのようなかたちであれ、長く語り継がれることを切望しています。


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