犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

過去帳を書く

2024-05-19 12:03:03 | 日記

二年前の転居のときに、新居では入りきれない仏壇を買い替え、ついでにまっさらな過去帳を買ったのですが、空白のまま仏壇にしまっていました。
先日、意を決して位牌や法名軸を仏壇からとり出し、年代順に並べかえ、ひとりひとり、先祖の名前を過去帳に納めました。
法名に「泥蓮」の字のついた先祖もあり、よほど苦労を重ねた人だったのだろうと思いました。泥の中からどんな花を咲かせたのだろうとも思いを馳せました。

以前、こんなことを読んだことがあります。
東はインド北部から西は大西洋沿岸に及び、北はスカンジナビアにまで至る広い範囲が、言語学的にはインド・ヨーロッパ語族に属しており、「印欧祖語」という共通語のルーツを持つのだそうです。
サンスクリット語は、この印欧祖語に発しており、もともとインドで唱えられていた仏教の念仏も、英語との相関を見ることができます。

「南無阿弥陀仏」の「南無」は帰依するという意味で、念仏は「阿弥陀仏に帰依します」という意味になるのですが、これを英語に照らし合わせると、次のようになるそうです。
「南無」=“name”は動詞にすると「名付ける」や「名をあげる」となります。念仏の文脈のなかでは「名を唱える」となるのでしょう。
阿弥陀のミダは“meter”すなわちメーター、計ることを意味し、“a”は否定の接頭辞なので、阿弥陀は「計り知れない」となります。中国で「無量」という漢字を当てられたので、もともとの語義が生かされています。
「南無阿弥陀仏」とは、英語の語義から読み直すと「計り知れない仏の名前を唱えます」という意味になります。
いずれにしても、この念仏が、name=「名前」から始まることに、改めて気づきました。

さて、仏となった人たちの「名前」を書き終えると、死者の名前がジャバラ状につながっていました。死者の列がかたちを成しているようにも感じます。

柳田国男に『先祖の話』という著作があります。
そのなかに「自分はそのうちご先祖様になるんだ」と言って、そのことだけを頼りに生きている老人の話が出てきますが、柳田は不思議なことに、その老人を感動して見ているのです。
『先祖の話』が書かれたのは、昭和20年の4月から5月にかけてで、ちょうど東京大空襲の時期と重なります。死者を祀る人々もまた、累々と続く死者の列に加わることを、柳田自身が痛烈に感じていた時期であり、その経験が『先祖の話』を書かせたとも言えるでしょう。

過去帳を記して、昭和20年の切迫さは到底無くとも、いずれこの名前の列に加わるという具体的な感覚は、得ることができたように思います。死者の列に加わることは、同時にまだ見ぬ将来の人々とも繋がることだと感じました。


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