大空を見上げて

日頃感じていること

あこがれの空挺隊員

2008-05-29 | Weblog

 桜満開の時期、神奈川県の横須賀自衛隊武山教育隊に入隊した。
ここで3ヶ月間新隊員(1500名)としての前期基礎訓練受けた。
私達の責任教官は空挺から派遣された30代の名前は確か某3尉(少尉)だったと記憶している。
この時教官から日本で最強で最精鋭部隊が千葉の習志野にあると初めて聞いた。
ある日 隊員食堂で並んでいたら所用で習志野から来たらしく、空挺隊員が2名歩いて来た。
今まで何度も見た一般先輩隊員と違って空挺服を着、すべて折り目があり、空挺靴は(あみあげで最高の皮質)ピカピカである。
首に緑のマフラー、左胸にキラキラ光る空挺徽章と空挺レンジャー徽章、帽子にもクッキリと空挺マーク、鍛えに鍛えた身体らしく姿勢も歩き方も違って、そのかっこう良さに何百人も並んでいた我々新隊員は目が釘づけになり、あこがれと尊敬の目で「ご苦労様です」と全員で敬礼した。
「ご苦労」節度ある答礼に、ますます呆然としていつまでも後ろ姿を見送っていた。
その頃、自衛隊の花と言われ、人気があったのが三つ。パイロット、儀杖隊(国賓の栄誉兵)、空挺隊員である事を教官から知らされた。
どれも非常に難しく、幾つもの試験があり倍率(30人に1人)もすごく高く、希望してなれるものではないと言われた。
しかし私は空挺を第一希望にして後期教育3ヶ月を九州の大分別府で受けた。
この間、空挺志願の受験資格の予備試験(特に体力)があり、300名いた希望隊員は60名になっていた。
後期教育を終了し、いよいよ同年10月千葉県習志野に全国から各地区それぞれの部隊で行われた予備試験を合格した隊員が空挺受験隊員として2,200名集まった。
試験が1週間かけて始まった。健康診断、体力検定10種目、適性検査、又、心臓や呼吸等五次試験まで厳しく行われた。
ニ次三次で落ちた隊員の為夕方「蛍の光」が鳴り他の部隊に行く者、又自衛隊を退職する者が去っていった。
私は五次試験まで残っていた。いよいよ最終発表合格者106名の中に私の名前があった。
私達合格した者はお互い手を取り合って喜んだ。その後試験官長より私以下14名に呼び出しがあった。
この14名は合格を保留するとの事。「何故?」私は落胆し真っ青になり気持ちの動揺が収まらなかった。
一人ずつ順番に呼ばれ、試験官は私が長男なので親の承諾書、特に空挺隊員は常に危険と隣合わせなので家族の了解が必要だと言われた。
私はすぐ父に連絡、父から試験官宛に速達で「息子の人生なので希望どおりお願いします」との返事が来ました。
14人中10人が改めて合格。母子家庭や一人っ子の4人はあきらめて他の部隊に転属したとの事でした。10月10日いよいよ空挺隊員になる為、空挺学生29期生(102名)学生隊として入学しました。そして11月下旬、猛訓練の末5回の落下傘降下を終え無事卒業。空挺団長より胸に一人一人空挺徽章をつけて頂きあこがれの空挺隊員となりました。
空挺隊員になると今までとすべてが変わります。
まず食事は毎日特別に空挺食になり、服装から靴まで空挺の航空服です。
給料も空挺手当があり降下する毎に危険手当がつき、昇級も早いのです。
しかしその分その先の訓練は熾烈で、世界で最も厳しいと言われている地獄の空挺レンジャー訓練、又壮烈250k行軍や豪雪新潟災害派遣を経験しました。
 私の人生で強烈な思い出です。
            
   (写真:私が現役時代胸に付けた、空挺徽章と空挺レンジャー徽章)

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謙虚

2008-05-26 | Weblog
 私達夫婦は日曜日は教会に行きます。私は日曜日はいろいろ忙しいので休む事もあります。
妻は若い頃からクリチャンで、私も43歳の時洗礼を受けました。
各家に訪問して来るエホバの証人や統一教会とはまったく関係ない、東京にある普通の教会に行っています。昨日牧師のメッセージの中で謙虚について語られました。
もちろん私は常に謙虚でありたいと思っています。
でも良く考えると謙虚って何だろう。
昨年の夏の甲子園で優勝した佐賀北高校の代表選手の宣誓は、高校生らしく謙虚にひたむきに白球を追い続ける事を誓いますと言っていた。
何となくわかるような気もするが、正直言って良く分からない。
結論はひかえめでつつやましく、自分の能力、地位等おごることなく素直な態度で接する事かなぁで落ち着いた。最後に私なりに考えて感謝が深くなると謙虚さも深くなると思います。
     (写真:初夏の花)
    
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銃剣道って何?

2008-05-23 | Weblog
銃剣道は国民体育大会の種目になって28年になります。
スポーツをしている方、特に武道をしている方はご存知ですが一般の方は知らない人が多いようです。
銃剣道は日本古来の武道で昔(10世紀)からあり、その後槍術と言って歴史は古く宝蔵院流槍術と上泉伊勢守の新陰流の技法を根幹としています。
明治になって剣術は剣道に、柔術は柔道に、槍術は銃剣術に名前が変わりました。明治、大正、昭和と激動の日本は戦争で度々軍隊の武道として使われた為、現在も銃剣術は戦争をイメージする方が多勢います。
戦後昭和31年に新たに銃剣術を銃剣道に変え、日本武道として又近代スポーツとして県民、全日本、国体等大会が毎年行われています。
近年ではアメリカ、ロシア、ヨーロッパに遠征し、日本古来の礼儀正しさに拍手喝采を受けたそうです。
特にスペインでは4,5千名の観客が集まり、銃剣道の演武と迫力にものすごい歓声で、日本とスペインの友好と親善に役立ったとの事です。

私は銃剣道と言う武道を土台にして自分自身に厳しく他人に優しく規律を守り、礼節を尊び、信義を重んじる社会人になれるようさらに精進しつつ、また青少年に対しても心身ともに健全でマナーを守れる人間形成のために指導、努力したいと思います。
 

 
    教士、七段 範士八段の先生方    向右端、私
高松宮記念杯争奪 第27回全日本銃剣道選手権大会 一本特集 Jukendo 27th All Japan Jukendo Championships Ippon
 

         
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社交ダンス

2008-05-21 | Weblog
 会社のサラリーマンの頃、どうしてもお付き合いでグループの仲間と又会社の旅行等で宴会や飲み会があります。
私は酒も付き合い程度であまり好きではなく、カラオケも音楽音痴で苦手です。
でも若い頃は場が白けるので無理して飲めない酒を飲んで下手な歌を歌っていました。
スポーツや武道しか出来なくてあまりにも芸がない自分に嫌気さして、せめて歌ぐらい歌えるようになりたいと練習しましたが、まったく駄目で諦めました。
40代になって友人から社交ダンスを習いに行かないかと誘われましたが、音楽が駄目なので断りました。とにかく見学だけでもと言う事で見に行くことになり、ダンスの教習場に行きましたが素敵なダンス音楽の中、男女が見事なステップで踊る雰囲気に圧倒され、私には場違いの場所だと思い帰りたくなりました。
友達の手前帰る訳にもいかず部屋の隅にいましたら、50代位の女性がきてせっかくだから踊りましょうと言われ、私の断りなど関係なく手取り足取り指導してくれましたが私は冷や汗でビッショリで本当に疲れました。
その女性は先生で教え方が上手で、すこしやってみようかという気持ちになり、週に2回会社帰りに通い始めました。
その後,途中空間がありますが20年位頑張って続けました。
一通り何でも踊れるようになり,地域の大会に出て賞を貰った事もありますが、まだまだであまり上手ではありません。
この2,3年はダンスはご無沙汰ですが、たまには踊りに行きたいと思うときがあります。
歌の方は又少し練習したのですが妻に言わせると、力が入りすぎてるもっと楽に声をだすようにと注意されます。武道の関係で忘年会や新年会がありますが、家を出る時、妻に必ず、歌だけは歌っては駄目よと言われますが、でも2曲ぐらい何時も歌います。
「写真;市民ダンス大会でワルツを踊る」
       
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富士山

2008-05-17 | Weblog
 昨年9月、社長の操縦で龍ヶ崎からセスナ機に乗せて頂いた。
とても上手で関東上空2時間位楽しんだ。筑波山、東京、横浜を飛行し高度600メートルでしたが絶景で、特に富士山がとても美しく印象深く残っています。
それからも社長と車内でよく富士山の話題になります。
私は今まで単純に富士山を見る度に綺麗だけで終わっていましたが、最近は富士山はいつ頃からこの様な美しい形になったんだろうと興味が湧き調べて見ました。
 1万8千年前噴火をして小富士ができ、その後噴火が続き8千年前にだんだん大きくなり現在の富士山の形に成った様です。

日本のシンボル富士山は、昔の時代から数えきれない多くの人々に感銘を与えてきたことだろう。ところで日本という国「石器時代~縄文~弥生~古墳~奈良時代」は3世紀後半から6世紀中頃に日本国の基礎ができ、その後平安貴族~武家社会そして現在に続いています。
その時代の人達が見た富士山とまったく変わらない富士山を現在の私も見ている事に何とも言えない不思議な感動を覚えます。

 (写真は河口湖から見た富士山)
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雨の朝

2008-05-14 | Weblog
雨の音で目が覚めた。
昨日より少し小雨のようだ。
妻はまだ夢の中、静かに起きて1階に。
洗面をしてTVをつける。中国の地震のニュース死者1万2千、行方不明3万との事、悲惨だ。
親族が生き埋めになってるだろうか、泣き叫ぶ女性の映像、何の前触れもなくいきなり来る地震は本当に恐い。
普通の生活をしてていきなり家が揺れて潰され5分後には死んでしまう。
おそらく中古で買った我が家は一瞬だろうと思いながら家の中を見渡した。
妻が起きてきた。「おはよう」お互いに挨拶を交わしよく寝たかと聞くと、又何時ものように夢の話を始める。
私は聞いているふりして生返事。
終わったので地震のニュースの話題、妻は被害にあった人、気の毒ねぇーと。
もし中国のような地震が来たらこの家はあっと言う間だねーと言うと妻は本当ねーと。
私が生まれは別々だったけど、その時はあきらめて一緒に死のうと言うと妻はイヤダと言う。
何故かって私は貴方より一回り16才も若いとの事。 
なるほど人生はなかなか思うようにいかないが一番難しいのは妻の扱い方だと改めて思った。  (写真は雨上がりの花、三輪草)
       
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恒子叔母さん

2008-05-12 | Weblog
 恒子叔母さんは明治44年生まれで今年97歳。
私の父の弟の奥さんです。
生駒市に住んでいます。
11日午前9時30分頃東生駒駅に着き、徒歩で叔母さんのお宅へ玄関先で私達を待っていました。
97歳とはとても見えないほどお元気で、頭も冴えていて驚くばかりです。
姿勢もよく、杖も使わずしっかりと歩いています。
私達が訪問した事をとても喜んでくれました。
私が4歳の時亡くなった実母と同じ年齢です。
今は週2回デイサービスに行っているとの事ですが、そこで作った陶器の皿や花瓶など見せてもらいました。
何事にも前向きで、常に新しいことにチャレンジする姿勢に教えられました。
パソコンもやりたい気持ちで、「私にできるかしら」と言ってました。
私の叔父であるご主人(検事から裁判官)を59歳で失くし、凡才の私とは違って優秀な二人の息子(同志社大出の銀行員)も9年前(次男60歳)と(国立大出の銀行員)も8年前(長男64歳)続けて失くし、試練の多い人生だったと思います。
でも良きお嫁さん、お孫さんと共に今もお元気で過ごしていて、ほんとに嬉しく安心しました。
私の小さい時の事を詳しく知っている唯一の叔母さんです。
「かっちゃん、ほんとに苦労したね。かわいそうだったね。でも絶対悪く言わず、
偉かったね・・・」の言葉に心から慰められました。
あっという間に時間は過ぎて、午後1時30分になり叔母さんは別れが辛いらしく今晩泊って明日一番に帰ったらと言い悲しそうな顔をしてましたが、仕事ががあるので仕方が無く手を握り顔を撫でてお別れしました。
帰りは優しいお嫁さんのH子さんにバス、電車で途中まで送っていただきました。

京都から新幹線で2時間とちょっとで車内で妻は少し疲れてウトウトしていました。
私は車窓から流れる景色を見ながら昔の叔母さんとの思い出を辿っていました。
叔母さんは若い頃女学校の教師をしてたそうです。
その時の生徒さんから今も便りが来るそうで叔母さんの人柄を表しています。
明治、大正、昭和、平成と人生を歩んで来られ想像を絶する困難、試練にあわれ、しっかりした心の強さに本当に敬服し驚かされます。
私は松田家先祖の長州武士の血をひいた叔父さんのさすが妻だと誇りに思います。もちろん叔母さんが今日あるのも長男のお嫁さんやご家族のしっかりした支えがあったからだと思い心より感謝しています。
(写真:おみやげに妻が編んだ毛糸のケープをかけて喜んでいる叔母)
   

            

            
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奈良へ

2008-05-12 | Weblog
 5月9日金曜日、東京駅八重洲より午後10時発の深夜バスにて夫婦で奈良へ。
目的は97歳の叔母に会う為で2ヶ月前より考えていた。
せっかく奈良まで行くのなら一日早く出て観光できないかと妻の希望でやっと実現した。
深夜バスは私達夫婦には初めての経験で、車内は椅子もユッタリでなかなかですがガタガタ振動がありあまり乗り心地は良くなくイマイチだと思いました。
翌朝7時頃奈良駅に到着、雨が降っていましたが、朝食後、興福寺~奈良国立博物館~春日大社~東大寺・・・と回った。
歴史の古い建造物はさすが素晴らしかった。
まだまだ見たかったが時間がなく、いずれまたゆっくり行きたいと思う。
ちょうど中国の胡錦濤主席が来ていて警官だらけだった。
博物館で2時間ぐらい見学しましたが、ヨーロッパの聖書の旧約時代の歴史又中国から日本の奈良へのつながり等興味深く、ヘッドホーンでくわしく説明を聞きとても勉強になりました。
東大寺では修学旅行の生徒への説明を一緒に聞かせてもらったが、ユニークなガイド(若い男性だったが)で、生徒さんたちと共にずいぶん笑わせてもらった。
私は最初後ろの方で一緒に聞いていましたが、移動する度にいつの間にか一番前にいてうなずきながら夢中で(?)。
気がついて慌てて後ろに下がり生徒さん達に悪かったと反省しています。
          
           
早めにホテルに入りゆっくり休んだ。
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2008-05-06 | Weblog
 5月4~5日の連休を利用して、妻の両親と共に千葉銚子犬吠崎にある京成ホテルに行ってきた。
父は今年10月で82歳、母は80歳。
父は足が弱くなり自分では旅行も行けなくなったので、時々気分転換のため車で連れ出している。
若い時漁師をしていたので特に海が好きだ。
部屋からも露天風呂からも海が一望できて良かった。
義父の背中を洗い流しながら、年齢を重ねてきた重みを感じ心の中で「ご苦労様」と囁いた。
妻は父の足の爪を切ってあげた。ついでに私も切ってもらった。
帰りは水産物卸売りセンター「ウォッセ21」に寄り、それから成田空港はまだ行った事がないというので見学し、場所を変え「さくらの山公園」で飛行機の離発着を間近に見て夕方帰ってきた。
 こどもの日だが良き親孝行ができた。
(写真は京成ホテル内にて)
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背中

2008-05-01 | Weblog
私は昔から人の背中にその人の人生観を感じます。よく顔の皺一本一本にその人のいろいろな人生経験の年輪を感じると言われますが、私はその人の首筋から肩そして背中などに、その人の歩んで来た人生のいろいろな重みを感じると共に、背中の全般的な感じが年齢を増す人ほどそれぞれ違い、とても何とも言えない哀愁や寂しさ等感じ共感を覚えます。

       
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