大空を見上げて

日頃感じていること

残暑

2010-08-30 | Weblog
 初秋の季節が待ち遠しいが、今日も厳しい猛暑である。
年々重ねる年齢の為不安があるが、何とか気持ち的又健康管理に注意している。

7月に行われた会社での健康診断の結果がきた。
血液ペプシノゲン法の判定で胃内視鏡検査をするようにとの事。
その他は異常なしだった。
食欲は妻に止められるくらいあるし、胃が痛いとか調子が悪いとかはないので少し面倒に思う。
しかし検査の結果を健康保険組合に報告しなければならず、涼しくなってからと思っている。
妻との会話で「もし俺に何があっても、すべて満足で思い残す事はないからね!」と言ったら
妻は「自分勝手ね、私に対しての責任を考えて!」と言われた。
昨夜、残暑厳しい熱帯夜でなかなか寝付かれずの中「私のような者に長生きする事を願ってくれている人がいるのか。」と妻の優しい気持ちにちょっと嬉しく思いながら眠りについた。
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そうだったのか!

2010-08-27 | Weblog
 会社で午前中毎日必ず各新聞に目を通す。
仕事上会社のトップと車内という密室に長時間いる為、いろいろな話をする機会が多い。
いろいろ把握してないと的を得たコミュニケーションはとれないし、自分の意見もしっかり持ってないと失礼になる。
以前、車内で会長が車窓からみえる植物をみてその話題になったが、私はまったく応えられなかった。
私は花の種類等まったく苦手で10種類ぐらいしか知らない。
サクラ、チューリップ、菜の花ぐらいでユリの種類等全然分からない。
話相手になれなく申し訳なく恥をかいたことがある。
国家公務員~自動車学校の教官と定年まで勤めたが運転手という仕事は始めてで不安だった。
社長ドライバーというこの仕事について感じた事は、その時々の空気が読める事、秘密厳守、信頼性、好感度、清潔感が第一であると同時に、社会情勢の動静、経済の変化等の知識が必要だと思う。

最近TVで池上彰の学べるニュース「そうだったのか!」を見ている。
池上さんのニュース解説は本当に分かりやすく、自分自身知っているようで知らない事が随分あるのに驚いている。
とにかく年相応に見聞を広め出来るだけ学びたいと思っている。

(写真:池上彰の分かりやすいニュース解説)
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幸せを噛み締めて

2010-08-20 | Weblog
 今朝「行ってきます!」「行ってらっしゃい!」いつもの通り玄関を出ると、今日は先日までの猛暑はなく、久しぶりにとても涼しく快適で気持ちも晴れやか気分である。

電車に乗ると、海外旅行帰りらしく大きなトランク持ったご夫婦が数組見受けられた。
少し疲れた感じだが、おそらく「良き思い出がいっぱいなんだろうなぁー」と感じられた。
座席が空いたのですわり目を瞑って、今迄妻と海外旅行した場所を走馬灯の様に思い出していた。
結婚して最初はアメリカのカリフォルニアのサクラメントに報告の為、姉宅へ
その後アメリカには何度も行き、いろいろなところに連れていってもらった。
その他夫婦でフランス二回、スイス、ドイツ、スペイン、シンガポール、韓国、タイ、香港、マカオ、ハワイ三回、サイパン、グアム、カナダのナイヤガラの滝等考えると随分旅行したと懐かしく思い出される。
一般的にサラリーマンは仕事が大変で休暇が取れないのだが、私の勤務した会社は休暇さえあれば一ヶ月間でも続けてとれたので感謝であった。
最近は妻は友人達とトルコ、イスラエル、と旅行している。
本当に健康でこのような旅の想い出が出来たことに感謝していると、下りる駅に着き「今日もがんばるぞ!」呟きながら幸せを噛み締め会社に向かった。

       (写真:アメリカ「サクラメント」姉宅にて:姉夫婦と妻)


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聖将

2010-08-17 | Weblog

 人間は自分の生まれてくる時代を選ぶことは出来ない。
 然しそれがどんな不幸な時代であっても人間らしく生きることは出来る。

 

第八方面総司令官、今村均陸軍大将の言葉で軍服の左ポケットに聖書を偲ばせていたとの事。
人間の出来る事は少ない。神の教えに従って部下を守らなければと常に考えて行動していた。
爆弾の代わりに野菜の苗を特産し、現地で農業三分、防空壕三分、訓練三分を徹底させラバウル守備兵十万人を餓死させることなく無事帰国させた。
A級戦犯として巣鴨収監されて居る時、マヌス島刑務所に部下のB級戦犯160名を助ける為マッカーサーに部下を励ます為に移動嘆願して移動。
印度、オランダの現地総司令官に「最高責任は私すべて今村にあり、私を絞首刑に!部下に責任はない釈放せよ」と何度も頼み込み戦犯160名を全員無事帰国させたとの事。
敵国であった連合国側は、戦時、戦後の今村大将の行動を聖将と称し減刑され禁固10年とした。
 1954年釈放後、戦争で死なせた部下への罪責の念、自己霊閉を思い自宅の庭に3畳一間の小屋を建て聖書を片手に刑務所と同じ生活をしたとの事。
 1968年10月4日(昭和43年)に82歳で安らかに天国に旅立った。
今村大将の妻、銀子夫人は1927年子供三人を残して30歳の若さで一歩先に天国へ逝ったとの事。
私は社長の奥様は素晴らしい人格者の祖父を持って幸せだなぁーと思う。
          (写真:晩年の今村均陸軍大将)

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昭和のさむらい

2010-08-16 | Weblog

 素晴しき想い出   
私は65歳で自動車学校を定年になり現在同系列会社の社長ドライバーを5年間させて頂いた。
社長と車内で二人の時が多い為、うちとけていろんな話をする事が出来た。
自宅に何度もお送りする事もあり、奥様とも度々お会いしているがとても言葉使いが上品で美人で育ちのいいお嬢さんがそのまま奥様になった様な感じを受けた。
先日、社長から奥様は旧姓今村といって、太平洋戦争であの有名な第八方面司令官の師団長の(ラバウル方面)今村陸軍大将のお孫さんとの事。
私は本当に驚いた。
終戦時、アメリカ連合国司令官大将マッカーサーが、今村均のことを真の日本のさむらいと誉めたと知っていたがそれ以上くわしい事は知らなかった。
その後、今村均戦記に書かれているがジャワの軍政について読ませて頂いた。
太平洋戦争中、現在でも知られるように多くの日本軍人が高圧的な態度で、占領した地域の住民を押さえつけた。
その中で、ほとんど今村一人といっていいくらい、彼だけが住民に対して誠実で、優しく、人心確保に心から努めた。
戦後の戦犯でも彼のこの恩義に感じ入って、多数の現地人が今村に会いに来て、無罪を主張したという。
言わば、この時代に数少ない「男の中の男」だと思う。
太平洋戦争は確かに悲惨で、他国に日本の悪印象を植え付けたが、彼のような立派な軍人がいたというだけでも、わずかながら救いだと思うし、日本人にとってもっと誇っていい人物だと思う。
今村家は信仰心の篤い家系で、大将の息子さんは大学教授を経て現在92歳、奥様によると「父は世田谷区のキリスト教会で自殺志願者の人生相談を担当している」とのこと。
    
(写真:連合国司令官マッカーサーが真の日本の侍と誉めた今村均陸軍大将)

  

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志賀高原

2010-08-16 | Weblog
 今日も朝から温度計32度、玄関先の植木に水をやるだけで汗が出る。
先日までの高原の避暑地が懐かしい。
12日から2泊3日で長野県の志賀高原へ行ってきた。

当日午後2時に宿泊地高原プリンスホテルに着いた。
気温20度くらいで涼しく同じ日本でもこんなに違うのか・・・
部屋から緑の草原が一望、窓を開け涼しい風を入れながら快適さに満足。
もちろんクーラーの設備もないし、夜窓を閉めても掛け布団が必要なぐらいである。
次の日ゴンドラにて標高2千の焼額山へ、遊歩道を歩きながらオオシラピンの林を抜けると、そこには美しい稚児池と高山植物が広がっていた。
午後はホテルの近くに森林の遊歩道があり、妻もまだま元気だったので3時間ほど散歩した。
夕食は広いレストランの中、バイキングで料理も豊富で美味しかった。

帰りはお盆帰りと前橋の花火の為大渋滞で3時間遅れで帰宅は11時半になってしまった。
しかしバスの中は快適で渋滞は覚悟していたので書物を準備、退屈はしなかった。

            (写真:標高2千の焼額山の稚児池)
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グランド・キャニオン

2010-08-11 | Weblog
 昨日のTVや新聞で日本人海外旅行者が事故にあったと報道された。
ネバタ州ラスベカスからグランドキャニオンへ向かう高速道路での交通事故との事。
直線で何もない所で脇に突っ込み、自爆で原因は運転手の居眠りらしく小型バスには14名の日本人が乗っていて死亡3名、重体6名、重症4名、残り2名軽症との事。
私はこのニュースを聞いて、数年前私達も行った時とまったく同じ経路で大変驚いている。

私達もいろいろな旅行会社のツアー客の中からグランド・ドキャニオンを見る希望者は旅行会社指示で、朝早くラスベカスの各ホテルを回る小型バス(15人乗り)に乗った。
グランド・キャニオンへ行く途中は、砂漠の一本道で変わらずの景色に車内は皆コクリコクリと眠っていた。
3~4時間(約400km)ドライブして目的地グランドキャニオンに着いた。
スケールの大きいその圧倒される雄大な景色は今でも目に焼きついている。

今回の事故は午後7時頃らしく、おそらく素晴らしいグランドキャニオンをみて感動してラスベカスに向けての帰り道だと思う。
真直ぐな一本道、あんな道で事故が起きるなんて信じられない。
運転手はガイドを兼ねた26歳の現地日本人との事。
事故現場をTVニュースで見て、ムチャクチャに大破した事故車、車種や外見から見覚えのある私達が乗った時と同じ会社の車だと思った。
運転手に対して腹立たしく、自分の仕事にもっと責任持てと怒鳴ってしまった。
旅行者達は感動の余韻、満足感の中の突然の事故本当に気の毒でやり切れない思いである。

    *明日からバスツアーにて2泊3日で志賀高原へ
       高原の夏景色を見ながら夫婦で歩きたいと思っています。
    
          (写真:雄大なグランド・キャニオン:妻が撮る)
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平和が一番

2010-08-09 | Weblog
今年も猛暑の中終戦75年目の記念日が来た。
毎年この時期になるとTVや新聞で反戦ドラマが放映される。
日本の歴史上過去の戦争の悲惨さ、又人間として命の尊さを次の世代に受け継いでいかなければならないと思う。

私は太平洋戦争開戦時、日本が真珠湾攻撃をした年に外地で生まれた。
その4年後敗戦、引揚者となりボロボロになりながら家財をすべて捨ててリュック一つで、
屋根まで一杯の満員の汽車に何日も揺られ釜山へ。
そして何日も港で待たされ引き揚げ船で長崎の港に帰国した。
敗戦の昭和20年代、日本全国にはアメリカの進駐軍がいて、私の思い出に小学2年のある日、学校からの帰り道アメリカの将校がすごい乗用車(キャデラックのオープンカー)に家族と犬をのせて走行してきた。
その格好良さに私は目を見張った。
ちょうど私の前でスラリとした大型犬シェパードが飛び降り、路地にいた痩せこけた日本犬を吠えながら追っかけ、日本犬はキャンキャン鳴きながら逃げ回っていた。
私はその時幼心に何故か勝者、敗者の違い、戦争に負けた悔しさを強烈に感じ戦争をやるからには絶対に勝たねばならないと思った。

私は今迄何度も書いたが、若い頃10年間、日本の自衛隊で最強の空挺部隊に籍を置き、猛訓練に耐えながら、日本の平和や安全を乱す敵からの攻撃があれば、純粋に命かけて戦うつもりでいたと思う。
厳しい訓練と隊内の厳格の規律の組織のなか10年間。その後退官した時、別世界の一般社会、自由で開放された日々の生活に平和が一番と真っ先に肌で感じた事も思い出す。
現在も、昔の猛訓練で汗を流した仲間と空挺同志会で年一回逢い、酒を飲みながら、訓練で養った戦う為の高度な技術を現実に使わない世の中で、本当に良かったと皆で語りあっている。
最後は肩を組み若い頃大空に花を咲かせた絆を思い出しながら「空の神兵」を歌いながら「乾杯!平和が一番!」「戦争は虚しい」とそれぞれ孫のいる年代、子孫の為にも心より戦争のない日本の平和を願い握手しながらの解散である。

      
         (写真:平和を願う日本最強の空挺部隊)
コメント (2)
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