大空を見上げて

日頃感じていること

逃避行

2015-02-05 | Weblog
 デービス・朝江(実姉)の「海を越えて」の英語本を妻志津子が日本語に翻訳してくれた為、先週は読書に専念。
姉の人生ドラマに心打たれ涙と笑い感動又その凄さに感心しながら読み終えた。

終戦の昭和20年8月、私は満4歳になった。
その2か月後、南朝鮮仁川(現韓国)から日本に帰る為の逃避行が始まった。
その頃の思い出は私は幼かった為ほとんど記憶がないが、断片的には少しその時の状況が頭にある。
苦労した亡父からはあまり聞いていなかったので、この度の姉の本を読んで本当に驚いている。
今日は仁川~京城~釜山港までの、朝鮮人の暴徒及び朝鮮共産軍が日本人を殺せとの危険いっぱいの中、命からがら418km逃避行をした時のことを紹介します。
又それぞれ家族は大きなリュックを背負っているので、幼い私も小さいリュックをしょって歩いたとの事、自分ながら頑張れて良かったと思う。


姉の本より抜粋
 「私たちは出発の準備をし、それぞれが割り当てられ荷物を持って、仁川からプサンまで418kmの長い危険な旅をしました。
そこには皆を日本に運ぶ船が待っていると聞いていました。

しかし、そこに着くために、日本人は今やほとんど汽車やバスに乗ることを禁じられて、全員が歩かなければならないことを私たちは知りました。

 歳をとった祖母とたった4歳の弟がいるのにだれの助けもありませんでした。
私たちはそれぞれ少しの食べ物と水筒を持ちました。父はもちろん日本で埋葬するために母の遺骨を持ちました。加えて、リュックには食べ物を入れ、スーツケースには衣類を入れて運びました。
私のリュックには母が大事にしていた器や高価な着物を入れました。
たくさんの着物は残していかなければなりませんでした。そしてもちろん、2か月前に死んだ弟澄夫の遺骨、食べ物、水筒を運びました。
かわいそうな弟勝義は誰にも助けられず、小さい足で自分で歩かなければならなかったのは言うまでもありません。

 出発する前に、父と叔父が私の安全のためにともう一つの事をしました。
私を座らせて、とても誇りに思っていた黒髪を切ったのです。そして犯されないようにと擦り切れた中国の農民の服を渡しました。私はまるで父親と南に旅行している男の子のように見えました。

12歳の私はまだ強姦の本当の意味を理解してはいませんでしたが、父はナイフを私の軽いジャケットに入れて、強姦されたなら大変な人生を送ることになるともう一度説明しました。

 翌日の早朝、私たちの小さい家族、父41歳、広子9歳、勝義4歳、そして私と祖母と叔父は共にプサンへの貨物列車に間に合って乗れることを願いながらソウルに向かいました。
私たちはすぐに友人たちや近所の人と会って、全部で15人になりました。

 私たちは先頭に立って仁川駅に向かって行きましたが、反共産主義委員会の命令で、もはや汽車は走っていませんでした。私たちが他の方法について話し合っている時、米軍の憲兵が近づいてきました。父は恐れましたが、彼らは子どもたちにチューインガムを配り始めました。私ももらって開いてみると変なものに見えました。他の子どもたちが食べてみると誰も死ななかったので、私も食べてみました。口の中に入れて、3回噛んでから飲み込みました。そして背の高いアメリカ人が首を振って歩いて行くのを見ました。

これが私たちのほとんどがアメリカ人に会った初めでした。そして、父のような年配者は彼らを敵とみなしていたので、子どもたちが何かを受け取ることが心配で、もう二度と何も受け取らないようにと注意しました。

 私達は、朝鮮の一部では汽車が走っていると聞いて、ソウルまでの39kmを歩くことに決めました。「急いで!」と祖母は忠告しました。
 ソウル駅への近道だったので、私たちは小さな川に沿って歩きました。
1時間以上歩いた後で、祖母が突然止まりました。
「シッ!」 祖母は立ち止まったままで「何か聞こえるよ。」とささやきました。

 年寄りには聞こえたのに、私たちには何も聞こえませんでした。
でも、遠くから近づいてくる足音が聞こえてきました。
「早く、野生のアイリスの後ろに隠れなさい!」と父は命じました。
みんな、ざわざわする雑草と小石の急な土手をすべりおりました。
行進する音はだんだん大きくなりました。

私は弟が泣いて、この場所がばれるのではないかと恐れて、弟の近くに行って背中の上に伏せました。
彼らは近づいて来て数分のうちに、20人から30人の朝鮮の兵士だとわかりました。ついさっきまで歩いていた同じ道を行進して来たのです。
父が叔父に「反日共産軍だ」とささやくのを聞きました。
 私たちは彼らが完全に見えなくなるまでもう少し待ってから、ソウル駅へと向かって行きました。
  ついに駅に着いた時、太陽が沈み始め、貨物列車がちょうど駅に入ってくるところでした。すぐにみんなは、普通は動物を市場に運ぶために使われる貨車の中に、苦労しながら入りました。そこは動物の臭いと血の臭いがして、私は鼻と口を押えました。それでも乗ることができたのは喜びでした。

 貨車が動き始めた時、横の板のところを見ると、他にもたくさんの人々がいるのを見ました。主婦たち、小さい子供たち、そして後ろにはゆっくり動いている貨車の壁によじ登ろうとしている赤ちゃんたちもいました。

 一日中歩いた後で、みんなお腹がすいていたのに、だれも食べ物を与えようとしないことに気が付きました。私はリュックを開けて、家を出る前に作った

最後のおにぎりを見つけて、家族に配りました。そして白いご飯に対して小さな赤い梅干しが自分たちの国旗に似ていると気がついて、私は突然泣き始めました。でも暗かったので誰にも気づかれなくてほっとしました。

貨物列車は村から村へとゆっくり進んでいく中で、もっともっとたくさんの人々がよじ登って乗ろうとしてきました。私たちの貨車も満員になり始め、一人の男が外と隔てている横の扉を、少しの隙間をのぞいて閉めてしまうまでは、ぎっしりと混雑しました。ついに、多くの人たちは何時間もの旅で眠りに陥りました。他の人々は狭い所に立ったままでした。私たちの貨車に乗っていたのはほとんど日本人で、お互いに礼儀を正しく守っていました。時代はとても厳しくて、人々は飢えていました。 飢えは人々を変えてしまいます。

 2日後に、たぶん昔、アメリカの爆弾で橋が壊されたままになっていて、列車は止まって進んでいくことができません。目的地まではまだ半分も来ていませんでした。父は、プサンで船がどのくらい待っているか心配していました。
私たちは再び南に向かって歩き始めました。確かな方角もわからない旅でした。
しかしまずは、この小さな川を渡らなければならないのです。

私たちはどの方角に他の人が向かうのか観察し、私たちの小さなグループもついていく決心をしました。
私たちの小グループには頑丈な体つきの男たちがいました。

 私たちは3~4km、大きなグループに続いて行きましたが、その後、川を渡れる場所を見つけようと急な土手を下りました。
そして南へ向かう他の貨物列車に乗れることを願いながら。
私たちが土手を下った時、そんなに深くなく、幅も広くない所を見つけました。
たくさんの高齢者とたくさんの荷物は大きくなっていて、何回かに分けて渡さなければなりません。まず初めに荷物とそれから背中の小さい子どもたちを渡すことに決めました。私たちは向こう側の丈の高い草が生えている小さな原っぱで夜を過ごすことに決めました。野生の草花は小さな川の小石のある土手に育っていました。私たちは川を渡り、そして私は思いました。
もし、母がここにいたら止まってきっと2~3本の花を摘んだだろうなあと。
母は花が好きで、私たちの家にはいつも生け花が飾ってありました。

 夜、落ち着き始めた頃、雨が降り出しました。私たちは風邪を引かないように雨宿りする場所が必要でした。川を渡ったので、ほとんどの人がまだ濡れていて寒かったのです。川から1kmも離れていない場所に、人けがなく、長い間訪れる人もなかったような農民の小屋をすぐに見つけることができました。
たとえ小屋が小さくても、私たちの小グループが入るには充分で安心しました。嵐は一晩中続き、少し寒くなり始めました。着るものも何もありませんでした。
小屋の真ん中に小さな火を燃やす所を見つけて、ついに衣類を乾かすことができました。

 翌朝早く、男たちは外に探検に行って、人参の形をした大根の葉を見つけて帰って来ました。普通、大根の葉は食べられていません。でも汁がいっぱい出て私の口を潤しました。また、私たちの食料はほとんど無くなりかけていて、私たちはみんなとてもお腹がすいていたので、その葉っぱでスープを作ることにしました。スープは美味しくはなかったのですが、温かくいくらかお腹を満たしました。大根スープの朝食のあと、近くの泉で水筒に水を入れて、再びプサンに向かう貨物列車に乗れることを願って、線路を探して歩き始めました。

次の3日間、南に向かって歩きました。すべての村々と町には近づきませんでした。途中で、昨日も日本人の小グループが韓国の強盗団に襲われて、盗まれたり、殺されたりしたと聞きました。わずかな日本人だけが何とか逃げることができたそうです。

 
旅の4日目に、私たちはついに小型の貨物列車が 南に向かう線路にいるのを発見しました。エンジンが煙を出していて、今にも発車しようとしていることがわかり、急いで乗ることに決めました。そこから目的地までどのくらいの距離があるのかわかりませんでした。父が石炭車の近くの横に登って見ると、中には他の日本人が隠れていて、顔と顔を合わせました。
何人かに聞いてみた後、貨車はプサンに向かうことを確認しました。
列車は空っぽで、乗り込むのをだれも管理もしていないけれど、都市や町々を通りぬける時は、誰にも見つからないように、石炭車の上の方に隠れていなければならないと注意されました。

 幸いなことに、みんな次の空っぽの貨車の高い壁を登り始めました。
父は他の人を助けるために自分のリュックを中に放り込みました。
そして手を伸ばして、最初に祖母、広子、勝義を引っ張りました。私は下から押しました。 私は最後でしたが、私は貨車に乗ることができませんでした。

突然汽笛が3回鳴って、貨車はとてもゆっくり動き始めて、私は走ってついて行きました。目から涙が流れて来ました。貨車が速度を上げるとついて行けなくなって、私は取り残されてしまうと知りました。

 貨車が駅の端まで来たとき、突然1分だけ止まりました。父が貨車の横にぶら下がり、叔父がその手をつかんでいました。そしていっぱいに伸ばした私の腕を貨車の方に引っ張りました。腕は抜けそうでした。
なぜ、貨車が突然1分間止まったのかは、私にはまったくわかりませんが、きっと機関士が子どもを見てかわいそうに思い、止めてくれたのではないかと思いたいです。
(多くの年月の後に、たびたびそのぞっとする日を思うと、なぜ取り残されたのだろうと疑問に思うことがあります。私は自分自身に問うてみます。12歳の少女が地面にいて、弟や妹を先に乗せるために押し上げていた。そこには数人の大人もいたのに…。
しかし、すでに答えは知っていました。“弟や妹を無事に乗せてしまうまでは自分は乗るわけにはいかない”という責任感だったことを。)


 石炭車は不潔で、昨晩の雨はその粉を重いペーストにしていましたが、それでも歩くよりはずっとましでした。もう2日間の間、私たちは風が吹き付ける石炭車の内側に乗りました。
そして3日目に、父はちょうどあと2~3分で大邱を通り抜けるところだとわかって、確信を持って力強くみんなに知らせました。 みんな貨車の上の端から背伸びして見ることができ、もちろん私も大邱を見ることができました。

人間は飢えて疲れきっている時は、変な妄想をすると言われますが、私は大邱の家の二度と見ることができない家族のことなどすべて見ていました。
私はここでの最後の時に、母が一緒にいたことを思い出して泣き始めました。
ばからしいことですが、小さい黄色のボールはまだ玄関のドアの近くの下にあるかしら…。私は長い間このボールを持っていていつも友だちとそのボールで遊んでいました。そのボールとも友だちとももう会えません。母にももう決して会うことができません。私はゆっくり静かにまた貨車の中に戻って身を沈めました。もし母がいたら、そのボールを私に送ってくれるだろうか、と愚かなことを考えました。

 私たちは難民センターがあった釜山市にやっと着きました。」 
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