ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

みとちゃんの進出状況(3)

2017-11-30 20:25:46 | 水戸

 みとちゃん応援ソング「もっとmeetみとちゃん」や、みとちゃんダンスも、じわっと広がっているようです。また、おみやげ界でもかなり種類がふえているようです。

 

お誕生会(偕楽園)
  今年の梅まつりイベントの一つとして多くのゆるキャラが集まって行われていました。ちなみに誕生日は、310(みと)の3月10日だそうです。

 

田んぼアート(常澄)
  去年も田んぼアートに登場していましたが、今年はさらにグレードアップしていました。

 

手さげ袋
  なかなか費用のかかっていそうなサービス袋です。

 

切手
  茨城ゆめ国体と茨城ゆめ大会を記念した切手が、今年の水戸市産業祭で売られていました。

 

ボールペン(三浦の文具 南町3-3-47)
  みとちゃんが印籠を持ったタイプと、杖を持ったタイプがあるそうです。「夢結び みとちゃん」ともあります。

 

ドライTシャツ
  今年の水戸まちなかフェスティバルで販売されていました。走るみとちゃんがプリントされています。ランニングウェアやフードスウェットも並んでいました。

みとちゃんの進出状況(2)

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水戸の蛙股(2)

2017-11-29 21:02:45 | 水戸

 中央のスペースに彫刻が施されている蛙股(かえるまた)が結構あります。面白いので、寺社に行ったときに注意して見てください。

 

正覚院位牌堂(開江町393)
  波と千鳥の意匠で、着色されていました。現在本堂新築中で、位牌堂が仮本堂になっているようでした。

 

報仏寺本堂向背(河和田町887)
 真宗大谷派の紋・抱き牡丹が刻まれています。三葉葵紋が刻まれた蛙股のある寺社などもあちこちにあります。正面からよく見えなかったので向背の裏側から写真を撮りました。

 

香積寺本堂(渡里町111)
  ボタンの花でしょう。

 

福徳弁財天拝殿(渋井町)
  弁財天の立像が彫られています。

 

鹿島神社本殿(森戸町546 )
  竹に虎の彫刻でしょう。本殿は、囲いの外からしか写真が撮せませんので、どうしても斜めの姿になっていしまいます。

水戸の蛙股(1)

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水戸の鬼瓦(2)

2017-11-28 21:01:43 | 水戸

 鬼面のない鬼瓦のいくつかです。お寺では主に本山の紋を、神社では巴紋(ともえもん)をつけることが多いようです。鬼瓦の上につく装飾物で、瓦が一本突き出たものを鳥衾(とりぶすま)といい、三本出たものを経の巻(きょうのまき 鬼瓦全体も経の巻といい、かつては宮中で使われていた古い形のようです)というそうです。鬼瓦下側の足元といわれる部分の多くは、波をあらわしているようで、防火を祈念しているのでしょう。

 

光台寺(上水戸3-1-39)
 鬼瓦にだけでなく、巴瓦などにもたくさんの三葉葵紋があり、経の巻もあります。

 

報仏寺(河和田町887)
 真宗大谷派の紋、抱き牡丹紋(だきぼたんもん)がはいり、経の巻があります。

 

妙雲寺(見川2-103)
 日蓮宗の紋、井桁に橘紋(いげたにたちばなもん)がはいり、鳥衾があります。

 

勝幢寺(しょうとうじ 渡里町2800-1)
 宗派を問わず使用されるという卍紋(まんじもん)がはいり、経の巻があります。

 

折居神社(塩崎町1)
 神社に多い三巴紋(みつどもえもん)です。巴は水が渦巻いている様子だそうで、防火の意味もあるのでしょう。神社ですが、経の巻があります。

水戸の鬼瓦(1)

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水戸のハート(3)

2017-11-27 21:10:00 | 水戸

 蛙股(かえるまた 野木神社 元吉田町2574) 伝統の模様、猪目(いのめ)です。

 

 鬼瓦(埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1)  水戸城二の丸隅櫓の鬼瓦だそうです。猪目です。

 

 つくばい(偕楽園好文亭 常磐町1-3-3)  逆さになっていますが、よく見るとハート形です。

 

 照明(五角堂展望台 松本町7-29)  グーグルマップにも載っていました。夜に写すべきでした。

 

 焼き菓子(カフェ202 五軒町1-6-1)  コーヒーについて出てきました。

水戸のハート(2)

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水戸・偕楽園の石碑

2017-11-26 18:47:08 | 水戸

 偕楽園内にはいくつもの碑がありますが、偕楽園の有名度からすると、むしろ少ないような気もします。

 

偕楽園記碑
 人には弛息(ちそく いきぬきといった意味でしょう)が必要で、ちょうど文武の文を学ぶ者が朗吟したり酒を飲んだりするようなものなどといい、そして、徳を修め、業を勤めた(これが大事なのでしょうが)後に、散歩、詩歌、茶、酒など自分の気に入ることに従って精神を弛緩させればよい結果があろう、その場を偕楽園と名付けるなどといったことを書いた、徳川斉昭の文だそうです。(部分です)碑裏には偕楽園での禁条(沈酔謔暴及び俗楽など)が刻まれています。

 

僊湖暮雪碑(せんこぼせつひ)
 中国・湖南省の瀟湘八景を模して、それぞれの地に八景を探すことが昔は大変多かったようです。なぜか、暮雪、夜雨、晩鐘、夕照、秋月、帰帆(外に落雁、晴嵐)など夕方から夜の景色が多くえらばれています。高台の偕楽園から見おろす千波湖の雪景色はきれいでしょう。文字は斉昭の書だそうです。なお、僊湖は千波湖のことです。

 

菁莪遺徳碑(せいがいとくひ)
 菁莪は原市之進の号だそうです。徳川慶喜の目付となり、幕末の政治に参画しましたが、攘夷派によって開港などを推進した奸臣として暗殺されたそうです。碑には、三十八歳にして原が主唱したという開港を、朝廷の考えに戻そうとした三人の士に、理髪をしているときに襲われ、二人は家士に撃たれ、一人は自害したなどとあります。篆額は最後の藩主で、慶喜の弟の徳川昭武が書いています。

 

遺徳之碑
 渡辺徹の後に県令(今の県知事)となった佐賀藩出身の関新平が、水戸城の火災で疑われて捕えられた士族を尽力して釈放させ 、職を失った武士たちのために官林を一戸二町三反借りて牧場の仕事に就かせ、その地は後私有となった、僅かの期間で水戸を去ってしまったのでその徳を頌するなどと刻されています。篆額は徳川昭武だそうです。火災は士族による放火だったそうです。

 

大日本史完成之地碑
 維新後、転々としていた大日本史の編纂所ですが、栗田寛が最後の仕上げに携わり、その死後明治39年に、光圀による編纂開始から約250年たって、この地で完成したそうです。

 

二名匠碑
 二人は温良淳厚で酒を愛し風雅を尊んだ、しかしその技術は異なり、萩谷勝平は古法を守り気韻があり意匠は多く、海野義盛は必ずしも古風にかかわらず、綿密で美しい、二人は烈公の名で赤銅の薬盒(薬入れ)をつくり幕府に献上したなどとあります。

 

子規句碑
 崖急に 梅こと/\(ごと)く 斜(ななめ)なり 明治22年、正岡子規が東大時代に、水戸の学友・菊池謙二郎を訪ねたときの風景を詠んだ句だそうです。昭和28年に水戸の俳人達によって建てらてたそうです。

 

観梅碑
 医師で書家でもあった名古屋の人、永阪周の漢詩だそうです。賢侯や志士の名は永く遠くまで建物や高台に残っていて、景色を眺めると胸が一杯になるといったところで終わっています。長坂周は花王石鹸の商標を書いた人だそうです。

 

茨城百景偕楽園碑

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