ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の地蔵(5)

2019-06-30 20:32:18 | 水戸

  年代の分かる古い地蔵です。これらは、墓(童子と刻まれたものが多いので、幼くして死んだ子供の供養塔のようです)や、講のメンバーによって建てられた石像のようです。

 

水戸八幡(八幡町8-54)
 享保2年(1717)とあります。宝永6年(1709)に水戸八幡が今の地に移ってきてそう遠くない時期に建てられた像のようです。境内にある稲荷神社の裏あたりにあります。

 

円通寺(千波町1227)
 享保2年(1717)とあります。山門をくぐってすぐある、身代わり地蔵などがある石仏群の中にあります。

 

愛宕神社(愛宕町10-5)
 享和3年(1718)とあります。愛宕神社の鳥居近くにある石造物群の中にあります。

 

笠原山不動院墓地(米沢町)
 元文6年(1741)とあります。県道50号線から笠原水源に向かう途中の墓地入口付近にある無縁供養塔がある石造物群の中にあります。

 

東蔵寺共同墓地(平戸町)
 宝暦9年(1759)とあります。平戸区民館(平戸町395-1)の近くにある共同墓地にある石造物群の中にあります。

水戸の地蔵(4)

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ぶらっと歩きの風景(33)

2019-06-29 19:47:34 | 水戸

カルガモの親子(偕楽園公園センター(見川1-1251)近く)
 この写真では子ガモたちはみんな一緒ですが、一番左の子はやんちゃなようで、このあと一羽勝手に泳ぎまわっていました。

 

ミツバチ(常磐共有墓地  松本町13-34)
 常磐共同墓地には蜜蜂の巣箱が置かれています。その内の一つの箱で、新しい群れができるという分封なのでしょうか、小さな集団が巣箱の外にできていました。

 

運動(徳川ミュージアム(見川1-1215-1)脇階段)
 徳川ミュージアム脇から偕楽園公園に降りる108段の階段は、絶好の訓練場のようでした。

 

水を抜いた池の割れ目(逆川緑地 千波町)
 木道を作り直すために池の水が抜かれているようで、深い割れ目だできた水底があらわれていました。

 

ポスト(水戸市役所 中央1-4-1)
 今年秋に開催される、ゆめ国体、大会の認知を広めようとする、イバラッキーが描かれたポストが市役所にありました。中央郵便局にもありました。

ぶらっと歩きの風景(32)

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水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(2)

2019-06-28 19:00:03 | 水戸

 

  写真は東照宮にある頼房奉納の灯籠に刻まれた名前です。

 

 慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際、尾張・駿河・水戸の当主が対面し、頼房が「今日の戦いで先手をいいつけられず、戦うことができなかったことが残念だった」と涙を流したのを、徳川家康の家臣が「頼房はまだ若いのでこれからも機会はあるだろう」となぐさめたところ、その家臣をにらみつけて、「自分の12歳という年がまだあるというのか」と一喝したそうで、家康はうれしく思ったそうです。

 

 頼房は、正妻を迎えることはなかったそうです。頼房が幼少の頃、将軍・徳川秀忠の正妻が、あのようないたずら者をだれが聟にするのか」と目の前で言われたことによるという説があるそうです。ただし、11男、15女の父にはなったそうで、光圀はその3男だそうです。

 

 将軍・徳川家光とともに江戸・板橋で狩りをしたとき、猪3頭を射止め、家光に「水戸殿は今能州(いまのうしゅう)だ」といわせたそうです。能州は平清盛の甥の教経(のりつね)という弓に秀でた武者のことで、屋島や壇之浦では源氏を相手に大暴れしたそうです。また、尾張藩主の倒しきれなかった猪を鉄砲の柄で打ち倒したこともあったそうで、その鉄砲は弓のように曲がってしまっていたそうです。

 

 明暦3年(1657)におこった江戸・振り袖火事のとき、火中の水戸藩邸に飛び込んで書物を取り出して火から守った臣下を、家老達が賞しようとしたそうです。頼房は、そういうことをすると今後また火事があると家財のために命を損ずる者が出てくかもしれないからと、適当に家老がほめる程度にしておくようにといって、恩賞は下さなかったそうです。

 

 寛文元年(1661)に頼房が死去するとき、枕もとにあととりの光圀を呼んで、殉死の風習を固く禁じて、それに背く者は君臣の義と断つと遺言したそうです。まだ戦国時代から遠くなかったこの頃は、主人の死に臣下などがそれに殉じて死ぬことがよくあったそうです。光圀は遺言をまもり、それは、幕府による武家諸法度の殉死禁止令(寛文令(寛文3年(1663))では口頭伝達され、天和令(天和3年(1683))で文章化されることにつながったそうです。

水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(1)

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水戸のタイムカプセル(2)

2019-06-27 20:27:39 | 水戸

緑岡中学校(見川町2563-81)
 眠れる獅子と彫られ、ふせた獅子の彫刻が乗ったタイムカプセルです。昭和53年(1953)に創立30周年としてつくられて、50周年の平成9年(1997)に開かれたようです。あとはそのままに保存されているようです。

 

旧山根小学校(全隈町253-1)
 明治22年(1889)開校の山根小学校は、平成23年(2011)に双葉台小学校に併合されて閉校し、今はリリー文科学園がヤマネ&リリー・コミュニティ・スクエアという施設にして引き継いでいるようです。今年の4月に寄ったときは工事中で、ただ写真を撮ってきただけですが、ここでもすでにカプセルは平成20年(2008)に開かれていて、それを記念した碑がたっているようです。タイムカプセルは小学校創立100周年と幼稚園10周年を記念してつくられたようです。

 

酒門小学校(酒門町1445-1)
 平成4年(1992)に創立100周年を記念してつくられ、ここも平成25年(2012)に開封されたようです。これはその時の記念として建てられた碑のようです。

 

茨城県庁(笠原町978-6)
 前庭の芝生部分に、「県人口300万人記念到達記念タイムカプセル」がありました。平成11年(1999)にたてられ、令和7年(2025)に開かれるようです。その時、どれくらい人口は減少しているでしょう。

 

五軒小学校(金町3-2-25)
 平成24年度の卒業生が平成25年(2013)にたてたようで、来年の令和2年(2020)に開くことになっているようです。ここにはもう一つ古いタイムカプセルがあります。

水戸のタイムカプセル(1)

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水戸の懸魚(5)

2019-06-26 20:55:37 | 水戸

  今回は蕪懸魚(かぶらげぎょ)の色々です。下の部分の微妙な違いがほとんどですが、見ていると面白さを感じます。

 

山王神社(岩根町750-2)
 拝殿の懸魚です。これあたりが典型的な形のように見えます。

 

本法寺別院(河和田町4382−100)
 下の部分も巻いています。本堂の懸魚ですが、両側のひれの彫刻がこっています。

 

定善寺(酒門町363)
 下の部分が二重になっています。

 

護国寺(見川1-1190)
 本堂の懸魚です。下の部分が彫りこまれていて、影ができてきれいです。

 

杉崎八幡(杉崎町1600)
 拝殿の懸魚ですが、上の部分が、下の3つの部分と同じ形になっています。下が1つや2つという形の懸魚もあります。

 

稲荷神社(大串町2251)
 本殿の懸魚ですが、下の部分が上にいって猪の目(いのめ)の穴になるという形になっています。

水戸の懸魚(4)

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