ワッフルな気分

朝の光につつまれて、
甘い香りのワッフルに苺をそえていただきます。

日本の古い冷蔵

2011-04-09 08:15:42 | 暮らし

 

                                  

この冷蔵庫には、「器蔵冷本日」「京東」「BETSUSEI」「 Korukuiri 」(コルク入り)と書いてあります。

この時代の日本語は右から左に読むようになってます。アメリカのあの冷蔵庫が使われていた時代より
後になるのか日本で使われていた冷蔵庫・・・

鉄のかたまりで電気をつかっていたアメリカに対して
木枠でつくり氷を入れて使う冷蔵庫、すごい差がある時代だったんだと思わされます。

                

3丁目の夕日の映画の一作目では、東京タワーが出来上がっていく時代の東京
次第にテレビが入り洗濯機に電気冷蔵庫に移り変わっていく時代背景でした。
この木枠で氷で冷やして使われていた冷蔵庫時代、氷屋さんが氷を売りに来ていたシーンがあり、

その後電気冷蔵庫がその家に置かれこの木枠で氷で冷やして使われていた冷蔵庫が捨てられ
それを氷屋さんが見つめるシーンが映画の中にあるのです。
なんかものさみしいシーン・・・

今、自立型塔としては世界1のスカイツリーが東京に作られる時代に私たちは何を思い何を願うのか
低い地に咲く野の花にも神様は目をとめて下さっています。

この古い冷蔵庫の木に油を塗って綺麗にしたのですが
すごいいい感じの木目と古さが心地良い風合いをだしてくれています。
中にはずっと何も入っていません~何入れましょ(^^)

 


斉藤和義 ずっとウソだった

2011-04-08 08:37:27 | ワッフル旦那のあれこれ

反骨魂的メッセージを伝えるものとして

ロックンロールが有名ですが、ピカソの絵とか芸術家は思いをストレートに伝える事も一つの価値であると思います。

斉藤和義 ずっとウソだった

http://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=Br-oNM2xu5U

は彼本人が.youtubeに掲載したものの

あっというまに強制終了にされられましたが、保存してくれた人もいて以下で見れます(こちらも消される可能性大ですが)、

”ちょっと好きだったんだぜ”って言いたくなりました。(事務所とか大変だろうな~)

 

 

 


旦那のあかし3

2011-04-08 07:29:04 | ワッフル旦那のあれこれ

以下2からのつづきです。

それからの世界は全く違った様に見えた。神はまるで隠れておられる様に見えるけど、事を探るのは王の誉ってある通り王なるイエスが明らかにしてくださるのだ。
彼を通して見ると全ての物に「Made of God」と小さく書かれてあるではないか。なんという自己主張のある不思議なお方。
全てに造り主の御手が感じられた。普通の杉並木も虹色にキラキラ輝いて見えた。
見るもの目に入るモノ全て、「ここにもあなたが造られたものがあります。」と実感した。
風や波や小鳥のサエズリ全てに喜びと感動があった。「ここにもあなたは働いておられますねー」って
会う人あう人「ねえ、人はどうして人なのか知ってますか。」が口癖になった。
ちょっとビビられたり「あんたはそんなの信じるのは弱いからだ」と言われたりしたが喜びがまさっていた。
聖書を読むことが楽しくて読むたび発見があった。信じてからはことばがグイグイと入ってくる。
救われてから2か月程で通読して意外と早く読めるんだと発見。しかも以前とは何だか全く違ってることばが生きている!

その中で気になった言葉があった。「教会」ということばで「礼拝」、とか「交わり」とも関係があるようだ。
私の生まれた地方には「教会」と言われる建物が無かった、もちろんクリスチャンという人にあったことも無い(引っ越していった宣教師は別として)
行ってみたいなよその国~では無いが教会という所に興味がすごく出てきた。
その気持ちに答えてくれたのか、当時の私の電気屋として働く次の現場名に「○○クリスチャンセンター」と書いてあった。
と言う事はおそらくそこの住人又は管理人はクリスチャンだろうと推測し完成引き渡し時にお会いさせてもらい。
「ここは教会ですか。」と聞いた。どうやらそのようだった。向こうから「貴方がクリスチャンである証明をしてください。」と言うので
自分の身に起きた事を話すと一番偉そうな方が「わかりました。」とローマ人の手紙のある所を示して私がそうであると証明して下さった。
「ここでは礼拝をしていますか」と聞くと当たり前だ、みたいな感じで毎日曜日欠かさずやっているとの事。
嬉しくなって「電気の仕事は会社や工場が休みの時しか出来ない時もあり年に何度か出れない時がありますが、後は参加したいのです。私も来てもいいですか。」とお願いした。
すると一番偉そうな方が「それは出来ません。」と答えた。「礼拝はクリスチャンの義務です。来ない時もあると他の人たちのつまずきにもなります。」との事。

その時は、そうなんだ難しいものだなーと思ったがしょうがないと受け取りまた一人聖書を読み進めていた。
でもひと月もするとどうしても「交わり」というのだろうか、神がいる事を話すのはいいのだが、神を知っている人と話がしたくて仕方がなくなってきた。
どうすればいいんじゃと思っていたら聖書の中にヒントがあった。どうやら祈りという方法でほとんど何でも神が叶えてくれるらしいと気づき祈ってみた。
「どうぞクリスチャンという人と出会わせて話をさせて下さい。」と夜に祈った。
次の日、電気の工事写真の現像の為、町唯一のカメラ屋にフィルムを持って行った。(時代を感じさせるな~)
行くと店は開いていたが店の人は誰もいない、ちょっと前からいない様で、すでに先客が一人待っている。(田舎だ)
私は彼の横に座りいつもの話を切り出した。「一体、人はどの様にして人になったんでしょうかね。」と
すると「天地を造った神が人を造られた。」と答えるではないか、「もしや、あなたはクリスチャン?」と聞くと
そうだという「では日曜日とか、教会という所に行っているのか」と聞くと行っているという。
「では、次の日曜、行っても良いか」と聞くと「来てください」とのこと場所は前に断られた集まりとは逆の方にある場所にあるらしく家内の生まれた町だった。

家内に聞くと「そういえばあったみたい」という(早く教えてよ)。田舎は集落が違うと言葉も違うほど文化が守られている。(逆に考えると閉鎖的)

私と家内の町までにはコトバ4つ程離れていた。
次の日曜日教会なる所を子供たちと家内も連れて参加した。
はじめての讃美歌みたいなモノを聞いた「童謡みたいだな」と思った。随分と年寄りばかり5名ほどいた。みんな聖書はボロボロで赤線が引いてある読み込んでるなーって感じがした。
初めてのメッセージも聞いた。何と彼は牧師だったのだ。その後洗礼式もあって、よくわからんが、これはこれでなんかいい。
「来週も来てもいいか」と彼に聞くと「それは出来ません」という。何でって聞くと「実は今日が此処の教会の最後の礼拝なのです」という。
じゃあ、来週から私がするかと思ったが、いろいろ資格(?)などもあって無理らしい(そうなの?)

どうゆうことよ。と神に文句を言うと端折って書くが神は仰せられた「長野へ行け」、、、マジ、、、。
神はマジだった。だから私もその声を聴いてすぐ会社に退職の話をして退園願いを出し、住民票を移転する手続きをして身重の家内と二人の子供を連れて住む当てもなく長野に向かった。
今、振り返ってみて、神は本当にいつも良くしてくださったと感謝する。本家の跡取りの私だったから家族だけでなく親戚も皆集まって反対した。
母などは家内に「こんなアホな男とは、離婚しなさい。」と言ったほどで父に「二度と家の敷居を跨ぐな」と勘当されたが、捨てる父あれば拾う父ありで、車一台で来た私達だが今では車に積めないほど豊かに施して下さった。長野に来て生まれた次女を合わせ3人の子供たちのお蔭もあり孫好きな実父との関係も修復してくださった。
今は下の娘も20才になりこの6月には長女の結婚式でのエスコートを私の父がしてくれる事になった。ヨブは「主は与え主は取られる」と告白している。神とヨブとの関係がそのことばに見える。
聖書の言葉を変えるつもりもないが、個人的には「主は取られ、主は与えられる」とも感じている。
父なる神の一人子イエスキリスト、この方こそ誠の神、私たちの唯一の救い主なのです。


旦那のあかし2

2011-04-07 06:49:15 | ワッフル旦那のあれこれ

 

                                

昨日は本当に春が来たんだと思う小春日和だった。
午後からは家内が「暑い、半そでになろうとTシャツに着替えてきた(写真ではペイントが付くので割烹着を羽織ってますが、、)。以前森の中に暮らしていた時は6年程殆んど見る事の無かったからなんだかとても嬉しい。
さて1からの続きです。

一通り聖書を読んでみたが良くわからない。
思えば中学の時、聖書なるモノがあると知って町唯一の本屋に「聖書」ありますかと聞いて「無い」と言われ「どこに行けばあるんですか」
と聞いて「隣の町の図書館くらいにはあるんじゃないか」と自転車で山を越え借りに行った事があった。返却期限は2週間だったので「えらい、ぶ厚いなー」とは思ったが、本を読むには自信もあったので、これくらい読めるだろうと思って借りた。
が、旧約の前半で時間切れという苦い思い出があった。特にこのナザレの「イエスキリスト」という男がわかんない。
そこで、一通り読んだとは言っても、今の疑問はきっとイエスが何者か考え吟味しながら最初から最後まで一語一句見逃さずに読んだらわかるんじゃないかと思って。
創世記1章1節からまた2年近くかけて黙示録の最後まで読んでみた。
読んでみた愕然とした。わからなかった。「なんでや、なんでわからんの」
もう一度読んでみようかなと思った。でももう一度読んでわからないならどうしよう。なんだか何度読んでもわからない様な気がした。
そのうち年をとって神を知ることなく死んだり明日事故で命を落としたりしたら俺、地獄ですか?って不安になった。
以前は地獄などあるとも思ってなかった。でも神がいるって知った今では地獄の様な「消える事のない火が燃えている所」があると知った。

ちょっとまってよー。なんで、私には神が誰なのかわからないのだろうと考えた。
俺ってそんなバカ?いえいえ結構いいですよ。勉強はしませんでしたが成績も悪くなかったよ。まあどう見ても中の上、いや上の中?
ではなんで、こんなに知りたいのにわかんないのー
俺ってそんなに悪い奴?神を知る事も出来ないほどに悪人なのか、考えた。
いやいや、そりゃ嘘言った事無い訳でもないが昼ドラみたいに、人を貶める程の嘘はついたこと無いし、どちらかといえば良い方じゃないの。
じゃなんで、なんなのさー、いったい神は誰なんや、ホントにー。
そう考えると、なんだか永遠に知る事が出来ないような気がしてきた。

俺はなんて哀れな人間なんだろうと悲しくなってきた。俺は知りたいんだ。ただそれだけですよ。
あんたの書いたという聖書の中に書いてあるやろ。「探しなさい、そうすれば見つかります。」って「真実を求める者にはこたえてくださる」って
「私はあなたに見つけられる」って書いてあるやろ。そりゃ、私はアンタほど賢くないし、悪い事もしたでも知りたいんだ。教えてくれたら死んでもいいから。
何にもいらないからホントの事教えて下さい。って、多分だけどわかんなかったけど初めて祈りみたいな事を使って神に語りかけた。
するとものすごく静かな中に何かが降りてきた感じですごくホッとした。
どれくらいたったのだろう。ふと枕元にあった聖書に目が行った。
「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
マジで目からパラパラと透明な何かが落ちた感じがした。そしてそのことばが生きたことばとして私の心に飛び込んできた。
ものすごい喜びがあふれていた。書いてあるじゃないか、ここに。はっきりとここに。
私は子供の横で絵寝ている家内を起こして「ここに書いてあるよ。イエスは神だと書いてある。」とそれを伝えた。家内はキョトンとしていた。
私はついに知ったのだ。いや教えてもらったのだ。あの方にイエスキリストに。私はクリスチャンになれたのだ。
私が信じる神ではなく、私に信仰を与えて下さる神だったのだ。(3につづく)


旦那のあかし1

2011-04-06 09:54:05 | ワッフル旦那のあれこれ

 

                 雪が解け、ふきのとうも顔をだしました。

 

実はいわゆるキリスト教的な証というちょっと添加物の入った話(特に自分でする事)は好きではないがある方のブログを読んで書いてみる気になったので3つ程に分けて掲載することさせて頂きます。もちろん私の個人的な経験ですが私がこのような事をしてきたと言うのではなく神が私にこのような事をして下さったというイエスの証です。

それはまだ私が神様を信じて無かった頃、私は電気屋をしていた。
たまたま人に勧められ一日バイトで雇った男にランチタイム「どうしてまた、猿が人になったんだろうね」
と、聞くと聞いたことも無い答えが返ってきた。
「神が、人は人として造った。」と言う。(私は、初めて聞いた)
おいおい、20世紀にもなってそんな神話みたいな事を信じている人がいるのかと、驚いたより呆れた。
サンタクロース信じてるよりめでたいだろ、後日、友人にその話をした。
当然「ウケル~、ありえない。」となると思っていたら
「そうですよ。あたりまえじゃないですか。」って
なんだか世界中が私をドッキリカメラに貶めようとしているんじゃないかと疑った、、。

それからは、彼らに会うたびに、如何に私の信じている事が正しくて彼らの信じている事が間違っているかを説明し続けた。
そのたんびに、自分の主張する考えの最も大事な証拠が欠けている事にイライラしたり不思議な感じがした。
ある時、一人で考えた、まあ常識で考えて有りえない事だけど、でも仮に「神」なんでいう存在がいると思ってこの世とか考えたらどうなんだろうって考えてみた。
すると、びっくり頭の中でパズルが10倍速でハマっていくように全ての疑問がぴったりハマるではないか。
それには本当に仰天した。そして出来たパズルには「神は、いる」と書かれてあった。
ものすごい発見をしたと思ったのもつかの間、すぐにものすごい嫌ーな気分になった。
「知らなければ、よかった。」と、なぜなら神がいるという事実は私より上に絶対的にかなわない存在がいると言う事。
これは不味い、どうしよう。神がいるとわかっても私はその神が何処の誰で何者かも知らないし、コンタクトを取ってないし取り方も知らない訳で、、。
正直、愕然とした。

その神って奴は何もんなんだと昨日まで神などいないと思っていたクセに「ちくしょー一体何処にいるんだ。」と神探しの人生が始まってしまった。
神と付けば何でも行って聞いてみた。取り敢えず「違うんじゃないか」と思っても神主さんや寺の坊主にまで聞きに行った。
多分向こうも驚いただろうと今は思う。アポなしにやってきた男が「私を造ったのはこちらの神ですか」って真っ先に聞くわけですから、、。
すると「実は私も知らんげけど。あんたの答えは教会って所にあるんじゃないかなー」って言うんです。
実は薄々私をも造った神って聖書の神じゃないかとは疑っていた。
最初に会ったバイトの彼は知らなかったが後で聞いたら歴史の教科書でならったザビエルと同じ職業だったし、
友人はいつの間にか、エホバの証人になっていたのだ。
ただ同じ聖書を使っていても彼らの神は違うようだし、どういうこっちゃ、どっちがホントそれともどっちも偽物?って思った。
そのうち宣教師の彼は長野に引っ越して彼からもらった”聖書”だけが手元に残った。(私は買うって言ったんだけどね)
それからはもう、調べて調べてその「神」って奴が誰なのかを追求する日々が続いた。
でも探しても探してもどうもわからない。聖書には例えばこう書いてあってもそれが本当なのかどうか確信が持てない。
以前間違った考えを信じていた自分としては、今度は間違えたくない。
もし私が間違って入信すれば家族も巻き込むことになるだろう。だからどれだけ本当の様に見えても、ぜったいホントだって確信するまでは信じないぞと思った。(2に続く)


電子レンジ

2011-04-04 14:04:04 | 暮らし

家でご飯を圧力鍋で焚くようになってかれこれ4年近くたつかな
丁度電気炊飯器でご飯を炊いていたのですが古くなったせいか

美味しくないと感じ始めていた時圧力鍋で白米や玄米を焚いている人と知り合いになり、
圧力鍋で焚いたご飯をいただいたりしてその美味しさに電気炊飯器から圧力鍋に切り替えました。

           

慣れるまではちょっといろいろご飯が柔らかくなったり固くなったりしましたが、自分の圧力鍋の使い方になれてくると
野菜も柔らかくなるのも早くさつま芋や煮物のジャガイモがほっくり、お豆もなんとかうまくいくようになりました。

           玄米です~

 圧力鍋でご飯を炊くと、暖め機能がないのでご飯が冷えます。

圧力鍋で焚いたご飯は冷えても美味しいのですが、つい最近まで電子レンジでチンと温めていたのです。
が、この電子レンジの速さとその電磁波はどうなのということで蒸かして温めています。するとまたご飯が美味しいのです。

主人が電子レンジが回っているのでみてると「回ってるのじーっと見ちゃいけないぞー白内障になるから」と
からなず注意されていましたので私も子供たちに同じように注意するようになりました。

最近は水蒸気で焼いたり温めたりする機能があるものがでているので
それはいいかもしれないと言っていたのですがお値段も高く、結局電子レンジのようにチンという速さはないとのこと
それならガスで鍋を使って蒸かしたらいいねっとなったのでした。

旦那の補足
電子レンジで白内障になる理屈は
卵を”チン”した時に白身が白く固まるのと同じ原理です。
人の体の他の部分も同じ影響がありますが、血が流れているので熱が溜まらないので問題になりにくいです。
男性の場合は睾丸も!メーカーは「人体には影響はありません。」と言ってますが個人差があり、知り合いの離れに住んでいる人などは電磁波のある所に住めない人なので電子レンジなどは殺人マシーンと言っても良いほどです。多分10年とか20年経つと日本でも社会的問題のなるかなと思うのですが(多分携帯で)、日本人は電磁波に強いとの報告もあったりします。うちではただ便利なだけで使っていただけで、不自然なモノは出来たら使わない方が良いかな、って程度で使わないだけですので、ちなみに携帯は頭から7cm離して使う事がメーカーの基準でCMでもだから話す時離してます。
でも都会だと難しいし、あまり気にしすぎるとそちらが問題だからでもそういう私もつい耳を付けて聞いてしまいますがハハ

情報の一つくらいで。。


旦那の脳

2011-04-03 08:06:00 | ワッフル旦那のあれこれ

 

         

自分って実に不思議だと思う。子供に頃なんで自分は自分なのだろうと思ったことがある。
私は一体なんでここで生まれどこに行くのか、私を私たらしめているモノは何なのかと星を見上げた。

最近、脳科学の本を読んでいて面白いと思ったのは、自分が自分を管理している訳ではないと言う話。
どうゆう事?と言うとそれはまるで、以前聞いたオーケストラの指揮者の話にちょっと似ている。
指揮者がタクトを振る前に実は演奏者は音を出している、でないと音が間に合わないからです。
だったら指揮者はいらないんじゃないかと思うのだが、いた方が都合がいいからいるわけです。

例えば私がコップを持とうとする時、まず脳からコップを持つ指令が出てその後私がそれを決める。

それだと実際に私の意志とずれるのだが、実際に腕が動くまでには時間もかかり、

それを脳の中で私がさもやったように調整するという。(クオリオという)

私の体の中で私は独裁者として君臨し支配しているのではなく、

脳の中で様々な声がある中で多数派や声の大きい意見などで民主主義で決められた事を私が宣言するのだけだという。
そう考えると、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。

善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」とパウロが書いた事が良くわかります。

コーヒーか紅茶にしようか私が選べないくらいならまだいいのですが、私の救いを私が選べないって問題なんです。
だからこそ「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」とある通りです。
ただそれだと救われなかった方々には自分の責任が無い、だって自分で選べないのだから、という問題が生まれる。
もちろん神は全ての人にチャンスを与えていると私は思っている。

だからこそどんなに神を冒涜しても赦されますが聖霊を認めないなら赦される事が無いという意味も少し見えてくる。
また、自分で選べないからといって自分に責任が無い訳でもない。
例えばロトはソドムに住んでいて何も神を喜ばす選択は出来なかったのですが、

悪に心から同意する事無く心を痛めていたからこそ義人のリストに彼があるわけだと思う。
この事は私を楽にさせてくれる。何故ならどうせ私は自分で決められないのだから、それをうじうじ悩むことも無い。
だから今、私は私で出来るだけ能天気に楽しく過ごさせてもらっているのだ。
そして神が働かれる所では私を動かす肉の命令を私が死んだと同じように無視するだけでいいのだ。
今までは肉の命令にしてやられていたのですが、これからは脳の命令に対して「ノゥ」と無視すればいいのです。

実に素晴らしい話ですよ。なぜなら私が何もしなければイエスが私の代わりに私の体を自由に使ってくれて

しかも後で私がやった事としてご褒美もしてくださるのだ。
かくして「いつ私がその様な事をしましたっけ」と神に私が答える聖書の話が現実になる。

実にハレルヤなのです。クリスチャン人生はとっても素晴らしいのだ。


福寿草とホットケーキ

2011-04-02 08:37:56 | スイーツ

 

               

 

             昨日は暖かな日になりました。

              戸隠の雪が解けたら最初に咲く花

              福寿草
                  鮮やかな黄色がきらきら光っています。

 

そして今日の朝はホットケーキを焼く

             ヨーグルトといちごのジャムを添えてほっとする。


また旦那ですが、、

2011-04-01 07:58:39 | ワッフル旦那のあれこれ

ニュースも地震、津波、原発が多いですが、、、すみません。もう少し気になった事を書かせていただきます、、
現在原発のメーカーはアレヴァ-三菱、東芝(WH)、GE-日立の3グループしかありませんから、世界のどの原発にも日本がかかわっていないモノは無いと言っていい程です。
日本人は原発の被害者では無く世界に対しては加害者だという事を私たちは知らなければなりません。
日本は世界中に原発を「国は栄え電気代はタダになる」と以前日本国民にも言った事と似た言い方で売り込んで商売をしているのです。
今回の様な災害が無くとも原発があればその国は爆弾を抱えさせられているのと同じです。急ブレーキをかけても止るまで1年もかかるモノ誰が欲しいですか。
私がもしテロリストなら憎ぶべき国のビルを壊すより原発を壊します。北のミサイルでも十分狙えます。
アレヴァのスペシャリストが「我々は今まで原発のあらゆる事故と危険を経験してきた。」と言ってますが、どんだけ危険なん原発。
以前から計画停電は原発促進のプロバガンダと思ってましたが、小海の方にも了解を頂きましたので掲載させていただきます。

http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110331#c

ある学校の校長は、地震後「高台まで逃げろ」と言って蜘蛛の子を散らすように避難させ学校にいた全員がたすかり
またある学校ではマニュアル通りに地震後校庭に集合させ点呼している最中にツナミが、、、約3/4の生徒が亡くなりました。
「てんでばらばら」という言葉も有名になりましたが海沿いに育った私も家内も地震よりツナミの恐れが染み着いてます。
ある村は先祖の言いつけを守って60mの高台にある石碑より下に家を建てて住んではならないとの言いつけを守って全ての家屋が守れたとニュースで聞きました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm

 

          

何を言いたいかといえば、自分の身に関係する全ては自分の責任で考えないといけないと言う事かも知れない。
誰かが守ってくれるという考え方には問題があると思います。
安全な食品を食べたいなら、自分で作る事が一番だと思うし、電気が無いのは不便だが不幸では無い。それどころかもっと人間らしい生活が出来ると思う。
集団行動が今、最も大事なのか何が正しくてどれが間違っているのか自分で考え選ぶ必要があると思います。
少なくとも私は小学生の時からそんな子供だった。地震が来て机の下に隠れるのは天井のボードが落ちてくる程度しか守ってくれない。
それなら天井を貼らず露出工事で仕上げる事が安全な事はみんなわかるだろう。
文句は誰でもいえるのですが、自分にしか出来ない事はせめて人任せで無く自分でやりたいもの。
自分はどの様に生きてどの様に死んでいくかは、他の誰でもなく自分が決めるべき事。
自分の人生なのだから、誰かのせいにせず、全ては自分の責任で、そして自分で出来ない事や持ちきれないものは神様に持っていただく、
私は長野に来るとき父に「あなたの息子は死んだ、と思ってください。」と言ったのは当時、父が理解できないだろうからと思って私なりに出来るだけ優しく言ったものでした。
本当は、「あなたの一人息子は、キリストと共に死にました。だからこれから私はキリストにあって生きていきます。」という事。

事実を受け入れるのは辛い事もありますが、与えられた時間の中で今日を大切に選んで行けたれらと願っています。