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訃報>平和構築の功労者か、社会主義の破壊者か ゴルバチョフ元ソ連大統領

2023年10月29日 03時03分22秒 | 訃報のこと
ゴルバチョフ氏は、ソ連で展開された「共産党独裁・指令型計画経済国家」というシステムが、社会の発展を促すものではなく、人々の生活を豊かにするものでもなかったことは理解していた。


8・31・2022



20世紀最大の出来事は、その膨大な死傷者と破壊力から、2度にわたる「世界大戦」だったと指摘する人は多いと思う。しかし、それにも劣らず、世界的に歴史に残る大きな事件だったのは、「ソ連崩壊」なのかもしれない。そして、その立役者が、ゴルバチョフ元ソ連大統領(元ソ連共産党書記長)だった。


 【2022年に亡くなった方々】海部俊樹さん、水島新司さん  多分、ゴルバチョフ氏を抜きにしてソ連崩壊は語れないし、ソ連崩壊とともに崩れた米ソ冷戦構造、社会主義国家体制、さらには社会主義思想そのものを総括することができないと思われる。  

なぜ、ソ連は崩壊したのか? そもそも、ソ連という国家は何だったのか? そして、ゴルバチョフ氏は何を考えていたのか?――という疑問は、実は、今もきちんとした説明がない。その理解は、人によって、国によって、そして、その世界観によって違う。 

 一般的に、ソ連と対立した西側諸国のゴルバチョフ観は、「無神論独裁国家にリベラルな欧米思想を導入し、破壊へと導いた功労者」ということで、肯定的で親近感を持ち、評価は高いと思う。「ともかく、米ソの“第三次世界大戦”の恐怖だけは遠のいた。ゴルバチョフにはその功績があった」ということにもなる。 

 しかしロシア国内では、ソ連崩壊により、ロシアは世界から孤立し、その自負も誇りもズタズタにされたと感じている人は多い。その後に「自由と民主主義」という名のもとに実現されるはずだった「市場経済」の導入は、一部の人々に富が集中する「経済格差」の正当化でしかなかった。未曽有の混乱と不公平と、悲惨な生活をもたらしたというのが実感だった。 

 ゴルバチョフ氏は、ソ連で展開された「共産党独裁・指令型計画経済国家」というシステムが、社会の発展を促すものではなく、人々の生活を豊かにするものでもなかったことは理解していた。また、事実上ソ連の支配下にあった東欧などの社会主義国家群の国家運営も行き詰まり、未来への見通しがないことも理解していた。すべて解放せねばならないとも思っていたと思う。

  だから、「ペレストロイカ(立て直し)」という社会主義体制の改革に、おずおずと乗り出した。しかし、その行動は中途半端で、最後まで共産党独裁体制から抜け出ることができなかった。1991年夏のクーデター未遂事件で、予期しなかった部下の“反乱”に動揺し、軟禁先のクリミア保養地から戻ったゴルバチョフ氏は、「別の国から帰ってきた大統領」と皮肉られることにもなった。 

 事件後、ゴルバチョフ氏は、エリツィン・ロシア共和国大統領(当時、後のロシア大統領)に権力を奪われ、公式の場での活躍はなくなった。それでも、ゴルバチョフ氏は「社会主義の夢」にこだわり、語り続けた。過去のソ連の歴史の「負の遺産」を振り返ると、それは、まったくドン・キホーテのような世界でもあった。人々の心はゴルバチョフ氏を離れ、理解をしてくれるような状況ではなくなっていった。 

 ソ連崩壊後、「社会主義」は没落し、「身分・経済格差」を認める「新自由主義思想」が一時的に世界を席巻した。しかし現在、再び「不平等・不公平」の問題が、大きく立ち上がっている。

  多分、ゴルバチョフ氏は、その現実を見ながら、解決できずにこの世を去っていくことに、無念の思いがあったと思う。 

 ゴルバチョフ氏の歴史的評価が、どこに落ち着くか。まだ、答えは出ていない。

【石郷岡建(元毎日新聞モスクワ支局長)】


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【訃報】財津一郎さんが慢性心不全で急逝、愛孫・財津優太郎出演の『下剋上球児』放送直前だった

2023年10月19日 14時03分53秒 | 訃報のこと
【速報】財津一郎さんが慢性心不全で急逝、愛孫・財津優太郎出演の『下剋上球児』放送直前だった(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース 


【速報】財津一郎さんが慢性心不全で急逝、愛孫・財津優太郎出演の『下剋上球児』放送直前だった
10/19(木) 13:02配信


週刊女性PRIME
亡くなった財津一郎さん


「ピアノ売ってちょうだ~い」


 財津一郎さんが歌いながら呼びかける『タケモトピアノ』のテレビCM。20年以上にわたって放送され、誰もが1度は目にしたことがあるはずだ。赤ちゃんがピタリと泣き止むCMとして、バラエティー番組『探偵ナイトスクープ』で取り上げられ“伝説の放送回”と話題になったことも。


【写真】『下剋上野球部』にも出演中、財津一郎さんの孫でイケメン俳優の優太郎


 その財津さんが人知れず亡くなっていたことが週刊女性PRIMEの取材でわかった。89歳だった。


 財津さんの知人が明かす。


「10月14日に亡くなりました。18日に通夜、19日に告別式が執り行われました」


 財津さんは1962年から1968年にかけて放送されたコメディー番組『てなもんや三度笠』に出演し、藤田まことさんや白木みのるさんと共演。「キビシーッ!」「~してチョーダイ!」が口グセの浪人役で、お茶の間に笑いを届けていた。同番組は、関西地区で最高視聴率64・8%を出したこともある人気番組で、財津さん演じるセリフは、流行語にもなったほど。


 その後、財津さんは俳優としても活躍。1969年公開の映画『男はつらいよ』シリーズに出演したほか、1978年に放送された松本清張ドラマシリーズや、1979年から放送された『3年B組金八先生』シリーズに出演した。


 しかし、2011年放送のスペシャルドラマ『3年B組金八先生ファイナル』の出演を最後に、ここ10年ほどは病に見舞われて仕事を断っていた。


最愛妻の他界を境に体調も悪くなり…
『週刊文春』に掲載された2019年のインタビューでは、肺の前がん病変であったことや、心臓に水がたまる病気だったと明かしていた。体調が回復すると、2019年の秋に4歳年上の妻・ミドリさんが自宅内で転倒し、右手首を骨折。財津さんが家事を一手に引き受けて、妻をお風呂に入れることまで担っていたという。老々介護の実情を明かした財津さんは、同インタビューで、


《何十年もお世話になったままへの恩返し。人生最後のご奉公のつもりなんだ》


 と語っていたが、2020年2月にミドリさんが息を引き取った。一時は気落ちしたこともあったが「絶対に暗くならない」をモットーに前を向き始めていた。


 そんな財津さんの様子を、取材に応じた息子が明かしてくれた。


「母を支えることが父の活力でしたから、母が亡くなってから元気がなくなったのは確かです。母の死後は、体調が悪くなることもありましたが、大好きなゴルフを楽しむため、リハビリを頑張っていました。高齢で危ないので、運転免許の返納をお願いしていましたが、ゴルフをしたいから頑として首を縦に振らなくて……。なので、僕がゴルフ場に送って一緒にプレーすることを条件に免許の返納をしてもらいました。ゴルフの腕前はなかなかで、今年は自身の年齢以下でホールアウトするエージシュートを出したんです。89歳にして、スコアは87でした」(財津さんの息子、以下同)

2023年6月までは毎月、親子で一緒にゴルフを楽しんでいたという。しかし、


「8月ごろ、血液を全身に送り出す心臓の力が弱まってきたんです。“入院だけはしない”とする本人の意思を尊重し、自宅療養を続けていました。何でも人に頼らず“自分でやる”という人でしたが、10月の初旬からは歩くのも困難になっていき……14日に息を引き取りました。死因は慢性心不全でした」


 財津さんは、最後まで自宅で過ごすことにこだわり続けた。それは、妻・ミドリさんと過ごした、たくさんの思い出が詰まった家だったから。その思いは、こんなエピソードからも感じられる。


俳優孫の活躍を楽しみにしていた
「ゴルフ場でコースを回るときは、母のドライバーを使うこともあったんですよ。もちろん身体の大きさが違うからサイズも違いますし、いつも使っていたわけではありません。だけど、ゴルフのときは常に持ち歩いていたんです。ここぞという場面では“ママのやつでいくよ”とキャリーさんに伝えていました」


 また、俳優として芸能活動をスタートしたばかりの孫・財津優太郎の活躍も楽しみのひとつだった。


 優太郎は2022年4月、山下智久が主演を務めたNHKの連続ドラマ『正直不動産』でドラマデビューした。


「優太郎が活躍する姿を見て、嬉しそうにしていました」


 10月15日に第1話が放送されたTBS系日曜劇場『下剋上球児』に出演中の優太郎だが、実は主演の鈴木亮平も財津とは縁がある。


 2010年に公開された映画『ふたたび swing me again』で、主演の財津さんの孫役で鈴木が出演していた。今度は、実孫の優太郎と鈴木が、日曜劇場で教師と生徒役で共演。そんな“2人の孫の共演”を財津さんも楽しみにしていたが、放送の前日に息を引き取った。さぞ心残りではあっただろうが、天国では孫たちに向けて「頑張ってチョーダイッ!」と応援しているに違いない。




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【訃報】タレントのりゅうちぇるさんが死亡、自殺とみられる

2023年07月14日 23時03分46秒 | 訃報のこと
【訃報】タレントのりゅうちぇるさんが死亡、自殺とみられる


ryuchellさん死去 27歳 事務所で死亡している状態で発見(日刊スポーツ)|dメニューニュース(NTTドコモ) (docomo.ne.jp) 

7/12(水) 18:56日刊スポーツ

タレントのryuchell(りゅうちぇる)さんが12日、亡くなったことがわかった。27歳だった。12日午後5時半ごろ東京・渋谷区の所属事務所で死亡している状態で発見された。関係者によると、数日前まで通常通り仕事に励んでいたという。

ryuchellさんはモデルのpeco(ぺこ=27)と2016年12月31日に結婚を発表し、18年7月に第1子となる男児が誕生したが、22年8月に離婚を発表していた。

続きは↓




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【訃報】坂本龍一さん死去、71歳 「YMO」「世界のサカモト」がん闘病力尽く ラストエンペラーで日本人初快挙

2023年04月04日 20時03分15秒 | 訃報のこと


【訃報】坂本龍一さん死去、71歳 「YMO」「世界のサカモト」がん闘病力尽く ラストエンペラーで日本人初快挙 

4/2/2023



「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、死去した。71歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで営まれた。

 スポニチ本紙の取材では都内の病院で亡くなった。日本における坂本さんのマネジメント会社「キャブ」も「坂本龍一が去る2023年3月28日71歳にて永眠いたしましたした」と発表した。20年6月に直腸がんと診断され、両肺などにも転移しステージ4と公表していた。「キャブ」は「癌の治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした」とした。

 1980年代に3人組バンド「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)で世界的ヒット曲を生み出した。映画音楽でも知られ、88年には米映画「ラストエンペラー」で米アカデミー作曲賞を日本人で初めて受賞した。晩年はがん闘病が続いたが、最後まで音楽作りに情熱を注いだ。

 昨年12月11日に全世界配信されたピアノのソロコンサートが、最後の公の場になった。同9月中旬に事前収録。体力面を考慮し1日数曲ずつ演奏し、数日かけてコンサートに仕立てた。今年1月に「YMO」で共に活躍した高橋幸宏さん(享年71)が死去した直後には、SNSにグレーの画像を1枚投稿。コメントはなく、それが逆に悲痛な思いをうかがわせた。

 3月初旬には、東京・明治神宮外苑の再開発見直しを求め、東京都の小池百合子知事らに手紙を送った。3月29日に配信された共同通信の書面インタビューでは「音楽制作も難しいほど気力・体力ともに減衰しています」と現状を明かしていた。坂本さんは同28日に死去しており、その翌日にインタビューが配信された形になった。

 続きはソース元にて 


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【速報】幸福の科学・創始者で総裁の大川隆法氏(66)が死去 都内の自宅で倒れる

2023年03月03日 10時03分33秒 | 訃報のこと


【速報】幸福の科学・創始者で総裁の大川隆法氏(66)が死去 都内の自宅で倒れる(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース 



【速報】幸福の科学・創始者で総裁の大川隆法氏(66)が死去 都内の自宅で倒れる

3/2(木) 14:22配信
77コメント77件

FNNプライムオンライン

新興宗教団体「幸福の科学」の創始者で総裁の大川隆法氏が死去したことが分かった。66歳だった。 関係者によると、大川隆法氏は、おととい、東京・港区の自宅で倒れ、病院に搬送されたものの、きょう午前、死亡が確認されたという。死因は分かっていない。 取材に対して、教団側は、「大川総裁の現在の状況についてはコメントを差し控える」としている。




コメント (2)
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