渋沢栄一の時勢をとらえて決断する「変わり身テクニック」、ブレても問題なし
人生のターニングポイントでいかに決断するか
4/2/2021
幕末の動乱を経て、新しい明治時代の幕が開けたとき、一人の実業家が躍動した。男の名は、渋沢栄一。500社もの会社設立に携わり、「資本主義の父」と呼ばれた。渋沢は、相手の主張をいったん受け止めてからひっくり返す「説得テクニック」を用いて、数々の局面を乗り越えてきた。
【参考記事】⇒渋沢栄一に学ぶ、相手を説得するテクニック。
「いや」「でも」と否定しない だが、ビジネスパーソンが渋沢から学ぶべきことは、ほかにもまだある。
それは、渋沢の「決断力」である。もし、渋沢が決断力に欠けていたならば、実業家として名を残すことも、大蔵省で活躍することもなかっただろう。いや、それどころか、おそらく幕末期に命を落としていたに違いない。 ビジネスパーソンには欠かせない局面局面での「決断力」を、渋沢はいかに発揮したのか。そこには、時勢をとらえた「変わり身テクニック」があった。
マシュー・ペリー率いる黒船が来航して江戸が大混乱に陥るなか、青年時代の渋沢は、尊王攘夷の思想に傾倒していた。尊敬する10歳年上の従兄弟、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)の影響である。
※写真はイメージです(以下同)
勇気ある撤退で「損切り」を
また惇忠の弟、長七郎が江戸帰りだったため、時事に精通しており、渋沢に今の日本の状況を話して聞かせた。22歳になった渋沢は、江戸に初めて遊学。幕府は危機的な状況にあると、あちこちで聞くうちに、こんな決意を固めた。 「ここは一つ派手に血祭りとなって、世間に騒動を起こす踏み台となろう」
渋沢と師の尾高惇忠、そして、もう一人の渋沢の従弟である喜作の3人が中心となり、「高崎城を乗っ取って、横浜の外国人商館を襲撃する」という計画を立てる。
あまりにも現実味がなかったが、本人たちは大真面目だ。渋沢は実行前に、父に打ち明けて、勘当されている。つまり、家族との縁を切られたのである。計画実行後に実家に迷惑をかけないようにと、渋沢がそれを望み、父がそれを受け入れた格好となった。
70人のメンバーを集めて、武器となる刀も調達して準備万端。あとは決行日を待つのみだ。渋沢は京にいる長七郎に飛脚を飛ばして、計画を知らせている。
思えば、実際に見聞きした江戸の状況を、自分に教えてくれたのは長七郎である。そのおかげで、こうして危機感を持つことができた。長七郎が今回の計画をどれだけ喜び、また、どんな反応をするか、渋沢は楽しみだったに違いない。 だが、長七郎は慌てて飛んできては、いきなりこう言った。
「暴挙を起こす計画は大間違いだ!」
まさかの長七郎の大反対にメンバーたちは唖然としたことだろう。だが、長七郎は「すでに攘夷の実行があちこちで失敗に終わっている」と説明し、計画を必死に止めようとした。
想像してほしい。もし、自分が渋沢の立場だったら、どんな決断をするだろうか。
実家と縁を切ってまで、これまで進めてきた計画である。かけてきた時間や費用、そして、なによりも注いできた情熱を思えば、何としてでも実行したいという思いに駆られることだろう。
しかし、渋沢は3昼夜にわたって激論した結果、こう結論を出している。 「犬死にするかもしれない。なるほど長七郎の説が道理にかなっている」 放送中の渋沢を主役としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢の強情さがうまく描写されている。だが、渋沢はそんな強情さとともに、「相手が自分より優れた見識を持っている」と思えば、素直に意見に従うところもあった。
このときもまさにそうであり、渋沢よりも長七郎のほうが明らかに新しい情報を豊富に持っている。ならば、長七郎の考えのほうが、自分より上であると、合理的に認めてしまうのが、渋沢の強みだった。
計画にかけた時間と費用は無駄になってしまったが、もし決行していたならば、幕府に捕らえられて、処刑されていてもおかしくはない。傷が浅いうちに撤退する「損切り」を、渋沢は冷静に決断することができたのだ。
名」より「実」をとった
そこで渋沢は一橋家の家臣、平岡円四郎のもとを訪ねている。そして、喜作とともに、一橋家の家臣として生きる道を選ぶこととなった。
もともと、平岡から誘われていたのがきっかけだったが、それにしても大胆な決断である。なにしろ攘夷という名のもと、幕府へのテロ行為を企んでいたのだ。その幕府に極めて近い一橋家の家臣になるなど、「みっともない」と考えてしまいそうなものだ。
現に、同行者で従兄弟の喜作は一橋家に仕官することに反対。こう抵抗している。 「これまで幕府を潰すことを目的に奔走してきたのに、我が心に恥ずかしく思わないではいられないではないか」
渋沢の活躍を知っている身からすれば、喜作の心配はいかにもスケールが小さいように思ってしまう。しかし、実際には、「ブレていると思われなくない」という恐れから、この喜作ように考えて、自分の行動を縛ってしまいがちである。
だが、渋沢は、周囲からどう見られているかを気にしなかった。「ただの浪人よりも、一橋家の家臣のほうが社会に対して影響力を持てる」という極めて合理的かつ、シンプルな考えで、軽やかに決断を下している。 この変わり身の速さこそが、渋沢の真骨頂といえるだろう。
渋沢は喜作の説得に成功すると(前回記事参照)、一橋家の家臣となり、財政の立て直しのために次々と施策を実行する。いったん、この道と決めたならば、後ろを振り返ることなく、突き進むのも渋沢の特性である。
時代の変化に応じた決断を下す
その手腕を認められ、のちに第15代将軍となる徳川慶喜に推薦され、パリ留学を果たした渋沢。ところが、渋沢はパリの地で、慶喜が大政奉還したことを知る。渋沢が帰国したときには、すでに明治維新は成し遂げられていた。そのときの心情をこう書き記している。
「主家がひっくり返ってしまった次第であるから、江戸が東京となったばかりでなく、すべての変革は誠に意外でした」
そう驚くのも無理もないが、さらに意外なことが渋沢の身に降りかかる。税務の担当として大蔵省の官僚に抜擢されたのである。
蟄居した慶喜とともに駿河で一生を過ごすつもりだった渋沢は、これを固辞。静岡藩の体制の立て直しに専念したいと理由を述べた。だが、大隈からこんなふうに言われてしまう。
「われわれがこれからやろうという仕事は、そんな小さなものではない。日本という一国を料理するきわめて大きな仕事である」
税務の知識もないだけに渋沢は戸惑いながらも、大蔵省に入所することを決意。かつて自分よりも長七郎のほうに知見があると見るや、攘夷の計画を中止したように、このときも、大隈のほうが明らかに広い視野を持っていると気づいたのだろう。このときも渋沢は相手の意見に従っている。
大蔵省のキャリアになった渋沢は、アメリカ式会計法を導入するなど、一橋家と同様に改革を進めていく。まだ何もかもが手探りの明治政府にとって、渋沢のように海外の事情を知る人材は貴重だったようだ。
しかしながら、大蔵卿の大久保利通と反りが合わずに対立を深める。その溝が埋まることなく、渋沢は大蔵省を辞して、実業家への転身を果たす。
実行家として独り立ちした渋沢は、日本で初となる銀行を設立。その後、あらゆる分野での起業に携わり、日本を近代国家に生まれ変わらせる先導役となった。
ビジネスパーソンこそ変幻自在であれ
目まぐるしい転身は、まるで軸がない生き方のようにも見えるかもしれない。特に日本では「一つのことに打ち込んで極める」「一所懸命に働いて、筋を通す」ことが美徳とされがちである。
もちろん、一本筋の通った生き方は尊敬に値するべきものだが、ビジネスの世界では、その方法だけだと壁にぶつかることも多い。なにしろ時代や社内外の変化に応じて、消費者や働き手の価値観が変わり、技術も革新していく。
むしろ、渋沢のように変幻自在に自分の立場を変えながら、それでも自分を失わない生き方を模索したほうが、ビジネスパーソンとしては、充実した人生を過ごせるのではないだろうか。
自分自身のなかにある声によく耳を傾けながら、時代をつかむ。そのうえで、変節もまた一興と、受け入れてしまう。そんな渋沢の、時勢をとらえた「変わり身テクニック」を、ビジネスの世界でぜひ生かしてみてほしい。
人生は、自分が思っている以上に自由に生きられるのだから。
<文/真山知幸>
参考文献】 渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書) 渋沢栄一『青淵論叢道徳経済合一説』(講談社学術文庫) 幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫) 木村昌人『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書) 橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書) 鹿島茂『渋沢栄一(上・下)』(文春文庫) 渋澤健『渋沢栄一100の訓言』(日経ビジネス人文庫) 岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)