ニュースなはなし

気になるニュースをとりあげます

渋沢栄一の「変わり身テクニック」 ブレても問題なし>時勢をとらえて決断する

2024年05月14日 22時05分07秒 | 歴史的なできごと

渋沢栄一の時勢をとらえて決断する「変わり身テクニック」、ブレても問題なし


人生のターニングポイントでいかに決断するか



4/2/2021

幕末の動乱を経て、新しい明治時代の幕が開けたとき、一人の実業家が躍動した。男の名は、渋沢栄一。500社もの会社設立に携わり、「資本主義の父」と呼ばれた。渋沢は、相手の主張をいったん受け止めてからひっくり返す「説得テクニック」を用いて、数々の局面を乗り越えてきた。



【参考記事】⇒渋沢栄一に学ぶ、相手を説得するテクニック。
「いや」「でも」と否定しない  だが、ビジネスパーソンが渋沢から学ぶべきことは、ほかにもまだある。
※写真はイメージです(以下同)


 それは、渋沢の「決断力」である。もし、渋沢が決断力に欠けていたならば、実業家として名を残すことも、大蔵省で活躍することもなかっただろう。いや、それどころか、おそらく幕末期に命を落としていたに違いない。  ビジネスパーソンには欠かせない局面局面での「決断力」を、渋沢はいかに発揮したのか。そこには、時勢をとらえた「変わり身テクニック」があった。 
   

勇気ある撤退で「損切り」を


 マシュー・ペリー率いる黒船が来航して江戸が大混乱に陥るなか、青年時代の渋沢は、尊王攘夷の思想に傾倒していた。尊敬する10歳年上の従兄弟、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)の影響である。

  また惇忠の弟、長七郎が江戸帰りだったため、時事に精通しており、渋沢に今の日本の状況を話して聞かせた。22歳になった渋沢は、江戸に初めて遊学。幕府は危機的な状況にあると、あちこちで聞くうちに、こんな決意を固めた。 「ここは一つ派手に血祭りとなって、世間に騒動を起こす踏み台となろう」  

渋沢と師の尾高惇忠、そして、もう一人の渋沢の従弟である喜作の3人が中心となり、「高崎城を乗っ取って、横浜の外国人商館を襲撃する」という計画を立てる。 

 あまりにも現実味がなかったが、本人たちは大真面目だ。渋沢は実行前に、父に打ち明けて、勘当されている。つまり、家族との縁を切られたのである。計画実行後に実家に迷惑をかけないようにと、渋沢がそれを望み、父がそれを受け入れた格好となった。


  70人のメンバーを集めて、武器となる刀も調達して準備万端。あとは決行日を待つのみだ。渋沢は京にいる長七郎に飛脚を飛ばして、計画を知らせている。  

思えば、実際に見聞きした江戸の状況を、自分に教えてくれたのは長七郎である。そのおかげで、こうして危機感を持つことができた。長七郎が今回の計画をどれだけ喜び、また、どんな反応をするか、渋沢は楽しみだったに違いない。  だが、長七郎は慌てて飛んできては、いきなりこう言った。

 「暴挙を起こす計画は大間違いだ!」  

まさかの長七郎の大反対にメンバーたちは唖然としたことだろう。だが、長七郎は「すでに攘夷の実行があちこちで失敗に終わっている」と説明し、計画を必死に止めようとした。  

想像してほしい。もし、自分が渋沢の立場だったら、どんな決断をするだろうか。 

 実家と縁を切ってまで、これまで進めてきた計画である。かけてきた時間や費用、そして、なによりも注いできた情熱を思えば、何としてでも実行したいという思いに駆られることだろう。 

 しかし、渋沢は3昼夜にわたって激論した結果、こう結論を出している。 「犬死にするかもしれない。なるほど長七郎の説が道理にかなっている」  放送中の渋沢を主役としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢の強情さがうまく描写されている。だが、渋沢はそんな強情さとともに、「相手が自分より優れた見識を持っている」と思えば、素直に意見に従うところもあった。

 このときもまさにそうであり、渋沢よりも長七郎のほうが明らかに新しい情報を豊富に持っている。ならば、長七郎の考えのほうが、自分より上であると、合理的に認めてしまうのが、渋沢の強みだった。 

 計画にかけた時間と費用は無駄になってしまったが、もし決行していたならば、幕府に捕らえられて、処刑されていてもおかしくはない。傷が浅いうちに撤退する「損切り」を、渋沢は冷静に決断することができたのだ。 



名」より「実」をとった


  さて、問題はそのあとである。計画を断念したのはよいが、実家も捨ててしまったし、行くあてもない。故郷を追われた渋沢は、同じ状況にある喜作とともに、いったん江戸に出て、さらに京都へ向かう。  

そこで渋沢は一橋家の家臣、平岡円四郎のもとを訪ねている。そして、喜作とともに、一橋家の家臣として生きる道を選ぶこととなった。

 もともと、平岡から誘われていたのがきっかけだったが、それにしても大胆な決断である。なにしろ攘夷という名のもと、幕府へのテロ行為を企んでいたのだ。その幕府に極めて近い一橋家の家臣になるなど、「みっともない」と考えてしまいそうなものだ。  

現に、同行者で従兄弟の喜作は一橋家に仕官することに反対。こう抵抗している。 「これまで幕府を潰すことを目的に奔走してきたのに、我が心に恥ずかしく思わないではいられないではないか」 

 渋沢の活躍を知っている身からすれば、喜作の心配はいかにもスケールが小さいように思ってしまう。しかし、実際には、「ブレていると思われなくない」という恐れから、この喜作ように考えて、自分の行動を縛ってしまいがちである。 

 だが、渋沢は、周囲からどう見られているかを気にしなかった。「ただの浪人よりも、一橋家の家臣のほうが社会に対して影響力を持てる」という極めて合理的かつ、シンプルな考えで、軽やかに決断を下している。  この変わり身の速さこそが、渋沢の真骨頂といえるだろう。 
   

時代の変化に応じた決断を下す


  渋沢は喜作の説得に成功すると(前回記事参照)、一橋家の家臣となり、財政の立て直しのために次々と施策を実行する。いったん、この道と決めたならば、後ろを振り返ることなく、突き進むのも渋沢の特性である。 

 その手腕を認められ、のちに第15代将軍となる徳川慶喜に推薦され、パリ留学を果たした渋沢。ところが、渋沢はパリの地で、慶喜が大政奉還したことを知る。渋沢が帰国したときには、すでに明治維新は成し遂げられていた。そのときの心情をこう書き記している。

「主家がひっくり返ってしまった次第であるから、江戸が東京となったばかりでなく、すべての変革は誠に意外でした」 

 そう驚くのも無理もないが、さらに意外なことが渋沢の身に降りかかる。税務の担当として大蔵省の官僚に抜擢されたのである。 

 蟄居した慶喜とともに駿河で一生を過ごすつもりだった渋沢は、これを固辞。静岡藩の体制の立て直しに専念したいと理由を述べた。だが、大隈からこんなふうに言われてしまう。

「われわれがこれからやろうという仕事は、そんな小さなものではない。日本という一国を料理するきわめて大きな仕事である」

 税務の知識もないだけに渋沢は戸惑いながらも、大蔵省に入所することを決意。かつて自分よりも長七郎のほうに知見があると見るや、攘夷の計画を中止したように、このときも、大隈のほうが明らかに広い視野を持っていると気づいたのだろう。このときも渋沢は相手の意見に従っている。 

 大蔵省のキャリアになった渋沢は、アメリカ式会計法を導入するなど、一橋家と同様に改革を進めていく。まだ何もかもが手探りの明治政府にとって、渋沢のように海外の事情を知る人材は貴重だったようだ。 

 しかしながら、大蔵卿の大久保利通と反りが合わずに対立を深める。その溝が埋まることなく、渋沢は大蔵省を辞して、実業家への転身を果たす。

 実行家として独り立ちした渋沢は、日本で初となる銀行を設立。その後、あらゆる分野での起業に携わり、日本を近代国家に生まれ変わらせる先導役となった。 

ビジネスパーソンこそ変幻自在であれ


  尊王攘夷の志士から一橋家の家臣へ。そして、一橋家の家臣から大蔵省へ。さらに、大蔵省から実務家へ……。  


目まぐるしい転身は、まるで軸がない生き方のようにも見えるかもしれない。特に日本では「一つのことに打ち込んで極める」「一所懸命に働いて、筋を通す」ことが美徳とされがちである。

  もちろん、一本筋の通った生き方は尊敬に値するべきものだが、ビジネスの世界では、その方法だけだと壁にぶつかることも多い。なにしろ時代や社内外の変化に応じて、消費者や働き手の価値観が変わり、技術も革新していく。

  むしろ、渋沢のように変幻自在に自分の立場を変えながら、それでも自分を失わない生き方を模索したほうが、ビジネスパーソンとしては、充実した人生を過ごせるのではないだろうか。

  自分自身のなかにある声によく耳を傾けながら、時代をつかむ。そのうえで、変節もまた一興と、受け入れてしまう。そんな渋沢の、時勢をとらえた「変わり身テクニック」を、ビジネスの世界でぜひ生かしてみてほしい。

  人生は、自分が思っている以上に自由に生きられるのだから。


<文/真山知幸> 

参考文献】 渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書) 渋沢栄一『青淵論叢道徳経済合一説』(講談社学術文庫) 幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫) 木村昌人『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書) 橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書) 鹿島茂『渋沢栄一(上・下)』(文春文庫) 渋澤健『渋沢栄一100の訓言』(日経ビジネス人文庫) 岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナチス・ドイツの蛮行「アーリア人増殖計画」被害者の思いに迫る>選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」

2024年05月13日 13時05分01秒 | 歴史的なできごと
ナチス・ドイツは「優良なドイツ民族」を人為的に増やそうと、自国や占領国の選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」を推進した。生まれた子を収容した施設は「レーベンスボルン」という。このレーベンスボルンで生まれ、波乱の人生を送った女性、カーリ・ロースヴァルさん(79)がこのほど来日し

ナチス・ドイツの蛮行「アーリア人増殖計画」被害者の思いに迫る (msn.com)



Fullscreen button

「今年で80歳だけど気持ちは20歳よ。あなたたちのことは忘れない」。取材終了後、キャンパる編集部員らにチャーミングな笑顔をみせてくれたカーリさん(中央)=毎日新聞東京本社で
「今年で80歳だけど気持ちは20歳よ。あなたたちのことは忘れない」。取材終了後、キャンパる編集部員らにチャーミングな笑顔をみせてくれたカーリさん(中央)=毎日新聞東京本社で

© 毎日新聞 提供

 第二次世界大戦下の欧州で、ナチス・ドイツは「優良なドイツ民族」を人為的に増やそうと、自国や占領国の選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」を推進した。生まれた子を収容した施設は「レーベンスボルン」という。このレーベンスボルンで生まれ、波乱の人生を送った女性、カーリ・ロースヴァルさん(79)がこのほど来日し、キャンパる編集部の学生たちに、自らの経験と未来に託す思いを語ってくれた。【まとめ、日本大・田野皓大】


64歳で知った「レーベンスボルン生まれ」の過去


 ――カーリさんは、ご自身の出生の真実をつづった本を出版されました。その経緯を教えてください。


 ◆私がレーベンスボルンで生まれたという自分の過去を知ったのは64歳の時でした。私が今暮らすアイルランドで、自分の経験を学校などいろいろな場所で話していると、反響が広がり、テレビ局で私に関するドキュメンタリー番組やラジオが放送されたのです。次第に、多くの人から「本を出さないのか」と言われるようになりました。そして以前、ラジオ番組でインタビューをしてくれたジャーナリストと協力して本を出すことになったのです。
 ――本の作成は大変だったのでしょうね。


 ◆一つの章を仕上げるのに3カ月かかりました。私が語ったことをジャーナリストが文字に起こしていく作業です。笑ったり、泣いたり、感動したり、時にはお茶を飲んだりしながらね。今までほとんど忘れていたいろいろな思い出がよみがえってきました。


 ――読者からどんな反響が届きましたか?


 ◆たくさんの人に「ありがとう」と言われました。アイルランドには、私のように戦争の影響で自分がどこから来たか分からないまま養子になった人がたくさんいるのです。そのような人たちに自分のことを伝え、思いを共有することができました。


今は理解できる実母の気持ち


 ――ノルウェーで生まれ、親と引き離されてドイツに送られた後、孤児になったそうですが、幼少期の思い出を教えてください。


 ◆私は、幸運なことにスウェーデンの農家に養子として引き取られ、何もかもが幸せでした。しかし、7歳で初めて学校に行った際に「この子は何人なんだろう」と、校長先生などの大人からのいじめに遭ったのです。そのことを養父母に言ったら、自分が養子であることを教えてくれました。養父母は、私がどこから来たかを知りませんでしたが、優しく育ててくれました。その一方で、私のパスポートの国籍欄には国籍不明と記されていました。もし、自分がどこで生まれたのか分からなかったら、皆さんはどのように感じるでしょうか。


 ――そして、実の母を探し当て、会いに行ったのですね。


 ◆20歳の時、赤十字に情報を提供してもらい、母に会いました。とても、緊張しましたね。それ以上の感情は当時ありませんでした。母は、レーベンスボルンのことはもちろん親戚のことも、私に兄がいることも話してくれませんでした。今思うと、母は戦争の犠牲者で大変な思いをしています。私の生後10日には、私を取り上げられてしまいました。私が本当は何者だったのか、彼女が私に言えなかった気持ちは分かります。もし、今会えたらいろんなことを聞きたいです。


 ――ご自身がレーベンスボルン生まれだと知った時、どう思いましたか?


 ◆隠されていた大量の古い書類が見つかり、自分の生い立ちを知った時は、本当に自分に起きたことなのか信じられませんでした。


 ――向き合うのは、さぞ大変だったでしょう。


 ◆書類は、スウェーデン政府が非公開にしていたのです。書類は非常に膨大でした。それを一つ一つ読んでみて、感情的になることもありました。精神的につらくて読めないという時は、また翌日に読むこともありましたね。ともに日本に来て、今、私の隣にいる夫のスヴェンは、非常に支えになりました。夫は、書類の内容を一つ一つパソコンに記録していってくれたのです。大人であれば子どもを守ろうと思うことは当然だと思います。しかし、当時の人はなぜ子どもに対してこのようなひどいことができるのかと思いました。


 ――実の父についての情報もあったのですね。


 ◆父はドイツ兵であることは分かりましたが、詳しいことは分かりませんでした。なので、自分の半分が失われている気持ちです。


なぜ戦争の歴史から学ばないのか


 ――なぜ、レーベンスボルンの問題はあまり歴史として認識されてこなかったのでしょうか?


 ◆戦後、誰もその話題に触れたくなかったからです。そして第二次世界大戦では、多くのユダヤ人を虐殺したホロコーストや原爆投下など、他にもさまざまな悲劇があったからでしょう。


 ――今回日本に来られて、日本の若い世代に何を伝えたいですか?


 ◆一番伝えたいことは、絶対にいじめをしないでください、ということ。学校でも社会に出てもいじめは絶対にしないでください。そして、絶対に戦争をしてはいけないということです。


 ――戦争、そしてナチスのような民族差別や選別は今も絶えません。今の不安定な世界情勢についてどう思いますか?


 ◆なぜ、人々は戦争の歴史から学ばないのかと思っています。特に、女性や子どもが痛めつけられていることに、本当に胸が痛くなります。戦争は敵、味方関係なく皆が被害者です。


 ――大学の講演なども行われたそうですが、日本の若者の印象について教えてください。


 ◆私が会った日本の若者には、とても良い印象を受けています。自分が若い時よりも皆さんしっかりしていて、真剣に話を聞いてくれました。彼らを見ていると未来に希望を感じました。


未来を楽しみに、今を生きて


 ――戦争をしないために今、私たちのすべきことはなんでしょう。


 ◆大切なことは歴史について、戦争がいかにひどかったのかを繰り返し話すことです。そしてお互い助け合いをしようとすることです。暴力にはノーを、抱き合うことにはイエスを。みんなそうしてくれれば戦争はなくなっていきます。


 ――世界平和という目的のために自身の経験をシェアしているのですか?


 ◆はい。自分の経験を語ることで世界の一人でも多くの人を戦争から助けることができたらと思っています。だから、私にとってはとてもつらい思い出でも、皆さんに語っているのです。ですが、まだ平和は実現されていません。そう考えると私の試みは、まだ道半ばですね。


 ――戦争経験で苦しい思いをしている人にどのような言葉をかけたいですか?


 ◆起こってしまったことは過去のことなので、未来を楽しみにしてください。今を生きてください。私も今は夫のスヴェンと息子のローゲル、最愛の2人と一緒に歩んでいます。


レーベンスボルンとは


 レーベンスボルン(直訳すると「命の泉」)は、1935年、ナチス・ドイツが「血統的に優れた民族」と見なす「アーリア人」の増殖を目的として開設した施設を指す。レーベンスボルンは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)と表裏をなす、ナチスのゆがんだ優生思想に基づく蛮行として知られている。


 ナチスはドイツ兵に、アーリア人の特徴であるとする「金髪、青い目」の女性と関係を持つことを推奨し、生まれた子どもをレーベンスボルンに隔離し教育していた。同施設は、当時ドイツの占領下にあったノルウェーにも多数設置された。


 また同施設は、人種的特徴を満たすとされる子どもを占領国から拉致し、ドイツ人として教育を施す場としても使われた。


 こうして強制的に集められた子どもらだが、「優良なドイツ民族」にふさわしくないと判断されると、強制収容所に送られたり、殺害されたりすることもあったという。


 第二次世界大戦終了後も悲劇は続いた。ノルウェーなどでは反ナチス感情の高まりを背景に、レーベンスボルンが解体された後も、収容されていた子どもや、ドイツ兵との間に子をもうけた女性は差別的な扱いを受けた。【法政大・園田恭佳】


カーリさんの横顔


 カーリ・ロースヴァルさんは1944年、ノルウェーの首都、オスロにナチス・ドイツが設置した「レーベンスボルン」で生まれた。母はノルウェー人、父はドイツの軍人だった。生後すぐにドイツの同施設に移された後、同国敗戦を機にスウェーデンの孤児院に送られ、そこで出会った夫婦に養子として引き取られる。自身が養子である事実を知らされるが、出生の詳細については分からずじまいだった。


 次第に実親への思いは募り、就職後に実母を探し当てることに成功した。しかし念願の再会を果たした実母は過去の忌まわしい記憶を語ることはなかった。


 その後、結婚や出産などを経てさまざまな人々と関わっていく中、偶然知り合った歴史研究家の手助けを得て、出生の秘密を知ることになる。64歳の時だった。


 ナチスの狂気と戦争の深い闇に翻弄(ほんろう)されたカーリさんだが、安住の地のアイルランドでその経験を話したことが反響を呼び、2015年に半生記を出版した。同書は21年に邦題「私はカーリ、64歳で生まれた」(海象社)として日本でも発刊された。カーリさんは今も自身の経験や平和への思いを多くの人々に伝え続けている。【法政大・園田恭佳



 



レーベンスボルン - Wikipedia 




レーベンスボルン



ツール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





レーベンスボルンの誕生の家(1943年、上部は親衛隊の旗)


レーベンスボルンで生まれた子供の洗礼の様子
レーベンスボルン(ドイツ語: Lebensborn)は、ナチ親衛隊(SS)がドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目的として設立した女性福祉施設。一般的に「生命の泉」または「生命の泉協会」と翻訳されることが多い。ユダヤ人絶滅のための強制収容所と対照をなす、アーリア人増殖のための施設である[1]。未婚女性がアーリア人の子を出産することを支援し、養子仲介なども行なっていた。


レーベンスボルン設立に至るまでの経緯
ドイツでは、第一次世界大戦で多数の兵士が死亡したため、男性が不足しており、第一次世界大戦終戦時は25歳から30歳の女性4人に対して、男性は1人しかしないという状況であった[2]。そして、ハイパーインフレや世界恐慌などにより、出生率は下がっていた(詳細はドイツの人口統計参照)[2]。1933年、政権を獲得したナチス党は、その状況を打破するために、子供を増やすための政策を次々に施行していった[2]。具体には、当時、社会進出が進みつつあった女性を家庭(育児)に戻す政策や、多産を実現するため避妊具の広告を禁止、堕胎を行った場合は厳罰処分を科すなどと言ったものがあった[3]。堕胎については、ヴァイマル共和政時代でも違法とされ、罰金処分が科せられていたが、ナチス・ドイツ時代には長期の懲役刑が科せられるようになった[3]。また、厳格にするだけでなく、多産した母親に対しては、母親十字章(英語版)を授与するなどしていた[4]。しかし、一方でアドルフ・ヒトラーは、ナチス党の集会や自著の我が闘争などで、ドイツ人の優越性、血の純血や劣等人種を除去することで、ドイツ民族は強化されると主張し、断種法を制定。遺伝性疾患が認められる女性についての医師の申告義務を制定し、優生裁判所をドイツ各地に設置し、民族的基準を満たしていないものは去勢するなどし、第二次世界大戦が開戦するまでに、32万人が断種させられた[5] [6] [7]。1931年12月31日には、親衛隊人種及び移住本部(通称・RuSHA)が設立され、後のレーベンスボルンはRuSHAが管理することになる[8] [9]




レーベンスボルン設立
SS長官兼ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーは、婚外子を身ごもった女性は、不利益を被ることが多く、それら女性に対しての保護と出産後の扶助をすべきと考え、それら女性の出産施設として、1935年12月12日、レーベンスボルン(別名:生命の泉協会)を設立した[10] [11]。1936年8月15日、レーベンスボルンは最初の施設「高地荘」をバイエルン州エーベルスベルク郡シュタインヘーリンクに開設した。


ただし、レーベンスボルンは、当初は出産を控えたSS隊員や警察組織の妻の出産施設であった[11]。設立間もない時点での会員数は約1万人で9つの支部から構成されていた[12]。しかし、レーベンスボルンでの出産にあたっては、ドイツ人の中でも選ばれた者のみが出産ができ、希望者100人中50人以上がSSの容姿や体形などが基準を満たさない女性であるとして、受け入れを拒否されていた[13]。


親衛隊の長官であるハインリヒ・ヒムラーは、1936年9月の回覧文書で、SSの隊員は4人の子供を設けることを命じ、そのためにはこれまでの慣習に囚われないことを表明し[* 1]、もしも子供に恵まれないSS隊員がいれば、彼らにレーベンスボルンで出産した子供を養子縁組することを保証していた[15] [16] [17][18][15][19]。


レーベンスボルンの運営費用については、様々な資金源があり、入会会員(SS隊員)からの会費、ユダヤ人の没収財産、またSSに対しての大企業の寄付金の割り当てなどがあった[12][20] [21] [22]。ユダヤ人の没収財産については、約9300万ライヒスマルクを没収し、それらもレーベンスボルンに割り当てられていたとされている[21]。SS隊員の会費については、独身であるSS隊員は年齢に応じて高くなるようになっていた[17] [22]。


レーベンスボルンの施設は、退去させたユダヤ人や、逮捕したヒトラーの政敵の住宅を使用しており、ミュンヘンのレーベンスボルンの施設は、作家トーマス・マンの自宅であった[23]。戦後、ニュルンベルク継続裁判で被告となったマックス・ゾルマン(ドイツ語版)は、レーベンスボルンの施設は、空き家になっていた家を使用したと主張した[24]。また、(ゲットー蜂起によって実現には至らなかったが)ワルシャワ・ゲットーから医療設備や、家具を収奪する計画があったことから、収奪物によって施設の運営を行なっていたことが常態化していたといえる[25]。


レーベンスボルン加入にあたっては、当初は、SSの高級将校に加入資格があったが、1942年からは、SS隊員は加入が義務付けられ、女性の加入については、アーリア人としての特徴が祖父母の代まで遡及して認められた者に加入資格があったが、これも後に基準が緩和され、ドイツ人でなくても基準を満たせば加入が認められた[12]。レーベンスボルンの女性は、第二次世界大戦中であっても、豪華な食事を摂ることができ、週に1度はチョコレート、紅茶、コーヒーを提供されていた[26][27][28]。しかし、一方で、レーベンスボルンの女性への食生活には、様々なルールがあり、良質な子供を産むために、ビタミンの摂取量や野菜の摂取方法などが厳守させられていた[28]。


第二次世界大戦勃発後の、1939年10月28日、ヒムラーは、親衛隊に対してある命令を発出した[29]。その命令は、婚外子であっても、子供を産むことを奨励するもので、これについては国防軍だけでなく、ナチス党内からも異論が噴出した[29]。ヒムラーはこの異論を受けて、1939年12月のフェルキッシャー・ベオバハターに掲載された、副総統ルドルフ・ヘスの未婚の母親についての見解を持ち出し[* 2]、反対派の意見を封じた[30]。


ヒムラーはドイツ国内とナチス・ドイツが占領した国に合計20か所以上のレーベンスボルンの施設を創設した[31]。


しかし、多数のレーベンスボルンを作るなどして、多産を実現しようとしたヒムラーの努力は報われなかった[16][32]。レーベンスボルン主任医官のグレゴル・エーブネル(英語版)は、レーベンスボルンの施設での幼児死亡率については、当時のドイツの平均値である6%よりも2%低い4%であると主張していたが、これについてはSS内部でも虚偽であるという指摘がなされ、実際には8%の死亡率であったと指摘されている[33][34]。そして、1939年12月31日の統計では、SS隊員の平均出生人数は、当時のドイツ国民の人数とさほど変わらず、ヒムラーがSS隊員に対して求めていた、1人のSS隊員に対して4人の子供をもうけることはかなわなかった[16]。また、そうこうしている内に、戦争によって人的被害が出ていたこと、時間がかかりすぎることもあり、ヒムラーは別の手段を考える[35][36]。


ヒムラーは、1941年6月の回覧文書で、基準を満たすポーランド人の子供は、我々(ドイツ)の手で育てるべきだという、拉致を容認するような発言内容を提出し、同年冬には、SSに対して、ポーランド人の子供の内、人種的価値を満たす子供を拉致する命令を発出した[37][38]。拉致は、まずは同盟国であったルーマニアから25人の子供を拉致し始めたことを皮切りに、ナチス・ドイツが占領した様々な国から拉致を行ない、その国には、ポーランド、ユーゴスラビア、チェコスロヴァキア、ベラルーシ、ノルウェー、ベルギー、デンマーク、フランス、オランダ、ルクセンブルク、ウクライナ、ハンガリーがあった[39] [40]。拉致してきた人数については、全体では数十万人以上で、国別ではポーランドは20万人以上、ウクライナとハンガリーの両国を合わせて5万人以上とされている[41] [42] [43] [39]。拉致した子供は、ドイツ語で話すことを強要され、子供の名前も、身元の特定を困難にするために元の名前の発音に近い名前をドイツ語風にした名前に変更するか、一般的なドイツ人の名前が付けられた[44][45] [43]。レーベンスボルンは、拉致した子供を懐柔するために(子供に対して)元々の生活環境は悪く、両親もアルコール中毒など余り良からぬ理由で死亡したと伝え、これによって(子供は)劣悪な環境からナチス・ドイツは救ってくれたという刷り込みを行っていた[46]。


拉致した子供の中には、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺後の報復によって虐殺されたリディツェの子供もおり、ゲルマン化が望めない子供は殺害された[* 3][47][48][49]。


拉致を行なった組織は、親衛隊のみならず、国防軍など複数の組織が関与しており、拉致した子供の移送はドイツ赤十字が担当していた[50] [51]。


こうして、拉致された子供は、ドイツ人家庭に養子又は里子として提供された[38]。


ヒムラーは、レーベンスボルンで生まれた子供の名付け親になるなど、同協会の活動に力を入れ、ヒムラーの想定では、1980年までには、北方人種の人口は1億2000万人に到達する想定だった[52] [41]


戦後
第二次世界大戦終盤にもなると、レーベンスボルンは、拉致の証拠書類や、戸籍に関する書類は焼き捨てるなどしていた[53][54]。レーベンスボルンについては、ニュルンベルク継続裁判の1947年10月の親衛隊人種及び移住本部裁判(英語版)で取り上げられた[55]。当該裁判の訴訟の対象となった組織は、ドイツ民族性強化国家委員本部、 親衛隊人種及び移住本部などがあり、14人が被告となった[56]。レーベンスボルンの被告は、レーベンスボルン代表者、マックス・ゾルマン、主要健康局局長グレゴル・エーブネル、主要法律局局長グンター・テッシュ(ドイツ語版)、唯一の女性被告で主要A局局長代理インゲ・フィルメッツ(英語版)が被告[56]。起訴理由は、ドイツの強化と敵国の弱体化を図り、ポーランド、ユーゴスラビア、チェコスロヴァキア、ノルウェーなどから、子供を拉致し、戸籍を改ざん、強制労働への使役と、ユダヤ人の財産没収が起訴理由としてあげられた[56]。証拠書類は2000件近くにもなり、証人も116人が出廷した[57]。


親衛隊人種及び移住本部裁判の判決は、1948年3月10日に判決が下されたが、レーベンスボルンの被告の判決は、戦争犯罪や人道に対する罪については無罪となり、男性被告は犯罪組織(親衛隊)に所属していた点のみによって、懲役刑となった[58] [56]。唯一の女性被告であったフィルメッツは、親衛隊に所属していなかったため無罪で、マックス・ゾルマンとグレゴル・エーブネルは懲役2年8か月、グンター・テッシュは懲役2年10か月の短期の懲役刑で、懲役の日付の起算日は、逮捕から判決の日までとなっていたため、判決後は即釈放された[56]。また、レーベンスボルンは裁判では社会福祉施設として判断され、拉致してきた子供を手厚く保護していたのも、減軽の決め手となった[59] [56]。その他、レーベンスホルンの活動については、ナチス・ドイツが多数の子供を拉致していたことは証拠から立証されたものの、レーベンスボルンが拉致に積極的に関与した証拠がなく立証されず、拉致した子供については極僅かな比率でしかレーベンスボルンに割り当てられなかったことや、レーベンスボルンが、子供の選別にかかわったことは立証されなかった[59]。


ただし、1950年2月13日にも、ミュンヘンで裁判が行われ、この時は前述のゾルマン、エーブネル、フィルメッツ3人の被告に加え、ゾルマンの助手を務めていた4人の合計7人が被告となり、この時は全員有罪となった[60]。


レーベンスボルンの子供のその後
レーベンスボルンによって、戦時中ドイツ人家庭に養子縁組をされた拉致児童は、戦後様々な運命をたどった。自身がドイツ人でないことを知って実の親元へと帰った者、成長するにつれ実の子供でないことを察知して、養親に問い詰めて真実を知って実の親を探す者、親(と思っていた人物)が死去後に、自身の身の上を調査した結果、真実を知った者など、様々な者がいた[61] [62] [63] [64] [64]。また、仮に出身国に帰国したとしても、母国語を忘れてしまっているという問題も発生していた[65] [66]。


終戦後、子供を拉致された実の親や拉致された子供の出身国は、座視せずに子供の捜索に乗り出し、比較的年上の子供については容易に見つけられたものの、幼児であった子供については、ナチス・ドイツが戸籍を改ざんするなどしたため、見つけることは困難であった[67]。


連合国は、拉致された子供の取り扱いについては、仮に(子供を)出身国に帰還させたとしても、親がいない可能性があるため、そのままドイツに残すという方針をとった[61]。


拉致された元・子供は、自分の身元を探す際に国際追跡サービスという公文書館を頼ったが、1955年のパリ協定の発効協定の条項には、ナチス・ドイツの被害者とその家族を傷つける恐れのある情報についての公開を禁止する条項が含まれていた[68]。これにより、レーベンスボルンで生まれた子供についての情報を得られなくなってしまう[68]。これらの情報が完全公開されたのは2007年のことだった[68]。


ノルウェーについて
ナチスは、ノルウェーを金髪碧眼が多い理想的な北方人種と見なしており、20数か所あるレーベンスボルンの施設の内、9か所ないし11か所がノルウェーに集中していた[69][70][31]。そして、ヒムラーは親衛隊員や国防軍軍人に対して、ノルウェー人女性との 密通を奨励するなどしていた[69]。ノルウェーのレーベンスボルンで生まれた子供の数については、ノルウェーではなく、ドイツで出産されたケースもあり、その人数についてはかなりばらつきはあるが、6000名や、8000名から1万2000人とされる[71][70][60]。第二次世界大戦時のノルウェーでは、ドイツ敗戦までドイツ軍が駐留していたことや、レーベンスボルンの施設の数も多かったため、証拠書類の焼却が間に合わず、ドイツ人と関係を持ったノルウェー人女性及び出産した子供の身元を特定することができた[69]。こうして、ドイツ人と関係を持ったノルウェー人女性は逮捕され、その数3000人から5000人が捕虜収容所へと送還された[69]。ノルウェーの精神科医は、ドイツ人と関係を持った女性には精神障害があり、その子供も8割が知的障害であると断じ、レーベンスボルンで生まれた子供たちは差別され、ノルウェー政府はレーベンスボルンで生まれた子供をドイツで引き取ってもらうことを検討したが、戦後間もないドイツではそのような余裕はなく、オーストラリアへの移住を計画するも実現に至らず、一部は精神病院や養護施設に隔離、一部はスウェーデン政府が救済活動を行ない、スウェーデンへと移住させた[72][71][73]。なお、ノルウェーのレーベンスボルンで生まれ、迫害に遭った子供については、2010年にノルウェー政府が元・子供に1人あたり3万4000ユーロを支払った[71]。


スウェーデンのポップグループABBAのメンバーだったアンニ=フリッド・リングスタッドも、ドイツ人ナチ党員の父とノルウェー人の母の間に生まれた子であった。彼女はノルウェーでナチス・ドイツ崩壊直後に生まれたが、ナチ残党への追及を避けるため母と共にスウェーデンへ逃れ、そこで成長したため知的障害者施設への収容は免れた。彼女もまた、実の父が存命中にもかかわらず、父は死んだものと聞かされて育てられていた[74]。


レーベンスボルンで出産された子供と拉致された子供について
ヒムラーの肝いりで創設されたレーベンスボルンであったが、レーベンスボルンで生まれた子供は、エリートたる存在になったかというと、そうとも限らず、3歳になっても歩けない子供や、しゃべられない子供がいた[75]。拉致してきた子供については、子供時代の立派な金髪碧眼も、成長すると色が変わった子もいたり、容姿も北方人種の理想とは程遠くなった子供もいた[65]。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ今ヒトラーなのか?意外と知らない…文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生した「本当の理由」

2024年05月13日 00時05分53秒 | 歴史的なできごと
>第一次大戦後のヴァイマル体制の混乱から生まれ出てきたアドルフ・ヒトラー。旧ソ連崩壊の後のペレストロイカの停滞から現れたウラジーミル・プーチン。世界はいま再び、恐ろしい独裁者がもたらす未曽有の危機に直面している。いまこそヒトラーとナチスの時代を振り返ることが求められているのだ。



意外と知らない…文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生した「本当の理由」

なぜ現代人は「ナチ・ドイツ」に注目するのか


写真提供: 現代ビジネス

 プーチンが支配するロシアのウクライナ侵攻は、独裁者を戴く権威主義国家の恐ろしさをあらためて世界に知らしめることとなった。

【図解】プーチンが核で狙いうる「日本の都市」の全実名

5・20・2022

 しかし曲がりなりにも民主主義下にあって、国民たちはなぜ独裁者を自分たちの代表として選び、支持し、そして従うのだろうか。

 20世紀初頭、世界でもっとも先進的といわれたヴァイマル憲法下のドイツ国民は、なぜアドルフ・ヒトラーに魅せられていったのか? 

 ナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)の党首、アドルフ・ヒトラーが政権の座にあった1933年から1945年までの12年間は、ドイツでは「ナチ時代」(Nazi-Zeit)と呼ばれる。この時代は第二次世界大戦の敗北とともに終わり、それからすでに70年以上が経過した。それでも、この時代の出来事はいまなおドイツの、そして世界の人びとの強い関心を集めている。

 21世紀に生きる私たちの視線が「ナチ・ドイツ」、すなわちナチ時代のドイツに注がれるのはなぜか。ひとつには、人権と民主主義という近代世界の普遍的な価値と制度がそこで徹底的に蹂躙され破壊されたからである。

 20世紀初頭、ドイツはすでに欧州随一の文化大国・経済大国として、日本をはじめ世界各国から数多くの留学生を受け入れ、西欧文明をリードする立場にあった。そのドイツで、民主主義を公然と否定し、ユダヤ人憎悪を激しく煽るヒトラーとナチ党が大衆の支持を得て台頭し、ついに政権の座に就くなど、誰が予想しえたであろうか。

 ナチ時代のドイツで国家的原理となったレイシズムと反ユダヤ主義は、やがて第二次世界大戦のもとでユダヤ人大虐殺(ホロコースト)など未曾有の大規模ジェノサイドを引き起こし、「文明の断絶」ともいわれる「アウシュヴィッツ」へと帰着した。

ヒトラーとナチ体制の「魅力」

写真提供: 現代ビジネス

 なぜこのような事態が生じたのか。どうしてドイツの人びとは、あるいは国際社会は、この動きを未然に防ぐことができなかったのだろうか。

 21世紀の今日、人権と民主主義が人類にとって最も尊重・擁護されるべき普遍的な価値・制度であるとすれば、それらが容赦なく粉砕された近過去の事例に目を向けることは大きな意義があるだろう。

 ナチ時代のドイツを考えるうえで見落としてはならないもうひとつの論点は、ヒトラーとナチ体制が人びとを惹きつけた「魅力」についてである。ヒトラーのカリスマ的支配の拠り所がその国民的な高い人気にあったことは、よく知られている。だがそれは、どのように生み出されたのだろうか。

 ナチ体制は、「民族共同体」という情緒的な概念を用いて「絆」を創り出そうとしただけでなく、国民の歓心を買うべく経済的・社会的な実利を提供した。その意味で、ナチ体制は単なる暴力的な専制統治ではなく、多くの人びとを体制の受益者、積極的な担い手とする一種の「合意独裁」をめざした。このもとで大規模な人権侵害が惹起され、戦争とホロコーストへ向かう条件がつくられていったのである。

 ヒトラーとナチズム、そしてホロコーストに関する歴史研究は、冷戦が終結した1990年代になって一気に進展した。

 それは、旧ソ連・東欧圏の文書館史料が閲覧可能となり、長らく不明とされた歴史の細部に光があてられるようになったこと、またそれまで自国の負の歴史の解明に必ずしも熱心でなかったドイツの歴史学が、研究者の世代交代もあいまって、若手を中心に積極的に取り組むようになったことに負っている。

 ナチ時代、ドイツは第一次世界大戦に敗れた屈辱感と長引く経済危機からようやく抜け出し、再び大国への道を歩み出した。若き指導者ヒトラーのもとで「民族共同体」の理念が揚され、国民統合も加速した。その陰で民主主義の価値と制度は破壊され、特定の少数派集団の人権が徹底的に踏みにじられたのだ。

 ***

 第一次大戦後のヴァイマル体制の混乱から生まれ出てきたアドルフ・ヒトラー。旧ソ連崩壊の後のペレストロイカの停滞から現れたウラジーミル・プーチン。世界はいま再び、恐ろしい独裁者がもたらす未曽有の危機に直面している。いまこそヒトラーとナチスの時代を振り返ることが求められているのだ。
現代新書編集部


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ今、『特高』特別高等警察なのか?

2024年05月11日 13時05分41秒 | 歴史的なできごと
世の中の混乱に乗じて、為政者が企図したくなる組織ですね☆

特別高等警察

特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ、英語: Special Higher Police, SHP)[1]は、国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者・共産主義者・社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的[2][3]とした日本の秘密警察である。

内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県[注釈 1]に設置されたが、その後、1928年に全国一律に未設置県にも設置された[4]。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言い、構成員を指しても言う[5]。第二次世界大戦後の1945年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示により廃止された。



警視庁特別高等部検閲課による検閲事務の様子(1938年(昭和13年))

特別高等警察は、高等警察の機能を持つ組織である。高等警察とは、「国家組織の根本を危うくする行為を除去するための警察作用」と定義される[3]。いわゆる政治警察や思想警察のことである。戦前の日本では、治安警察法、出版法、新聞紙法などに基づいて、この種の警察作用が行われた。特別高等警察では、このうち特に、社会主義運動、労働運動、農民運動などの左翼の政治運動や、右翼の国家主義運動などを取り締まった[3]。 

逸話[編集]
「票読み一つ誤らない」と恐れられた緻密さを持ち、ことに戦中は、「銭湯の冗談も筒抜けになる」とまで言われた。戦後、日本共産党が機関紙『赤旗』(せっき)を復刻しようとしたが、26号までは散逸してしまったため、やむなく「特別高等警察資料」[リンク切れ]に全文収録されていたものを使ったという[14]。 第二次世界大戦前や戦中は「特高の持つ警察手帳は赤色である」という噂があったが、実際は一般の警察官と同様に黒色であった。なお、過去に実際に赤色系の手帳を持っていた公務員は麻薬取締官、麻薬取締員で、これは戦前も内務省衛生局の下にあり、色も同様であった。 




注釈[編集]
[脚注の使い方]
  1. ^ 北海道庁警察部、警視庁、神奈川県警察部、長野県警察部、愛知県警察部、京都府警察部、大阪府警察部、兵庫県警察部、山口県警察部、福岡県警察部 
  2. ^ 1946年の2月~3月にかけて「公安課」に改称されている。 
  3. ^ 警察庁警備局の源流に当たる。 
出典[編集]
[脚注の使い方]
  1. ^ Christopher Aldous 『The Police In Occupation Japan: Control, Corruption and Resistance to Reform (Routledge Studies in the Modern History of Asia) 』 Routledge p.309 
  2. ^ 荻野 2012, p.16 
  3. ^ a b c 金子宏、新堂幸司、平井宜雄 『法律学小辞典』(第4版補訂版) 有斐閣、2008年。 ISBN 9784641000278。  
  4. ^ 荻野 2012, p.27 
  5. ^ “特高”.   コトバンク. 2014年5月14日閲覧。 
  6. ^ 内務省警保局保安課長ヨリ警察部長宛暗号電報訳文 八月十一日十時十分受領 
  7. ^ a b 大日方純夫 『天皇制警察と民衆』 日本評論社 p.256~259 
  8. ^ a b c 荻野富士夫 『特高警察体制史 社会運動抑圧取締の構造と実態』 せきた書房 p.444 
  9. ^ 荻野富士夫 『戦後治安体制の確立』 岩波書店 p.138~139 
  10. ^ 柳河瀬精 『告発! 戦後の特高官僚』 日本機関誌出版センター p.155 
  11. ^ a b 荻野 2012, p.26 
  12. ^ 荻野 2012, p.40 
  13. ^ 荻野 2012, p.41 
  14. ^ 奥原紀晴 (2008年1月27日). “ジャーナリズム対談/報道写真家・石川文洋さん/赤旗編集局長・奥原紀晴”. しんぶん赤旗 (日本共産党). http://www.jcp.or.jp/akahata/akahata_80th/200802_80th-taidan1.html 2009年12月17日閲覧。  


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河ドラマ化が切望される、「東京」の地盤を作った武将とは?

2024年05月11日 06時05分09秒 | 歴史的なできごと
東京の町は、徳川家康がこの地に都を開いた際、参謀であった僧・天海の助言もあって守りに風水の理念が取り入れられた。



江戸城の鬼門・裏鬼門・北辰を神社やお寺で守護するように、建設や移転を命じたのである。もちろん神頼みだけでなく、道路や堀・川などを整備し、住みやすい内側と攻撃しにくい外側を物理的にも完成させていたのではあるが。 

 これを考えついたのは家康が最初ではない。江戸城はもともとあった城を拡張したものであるし、今も残る江戸城守護の寺社のいくつかは家康入府の前から鎮座するものだ。これら地盤を作ったのが、戦国時代の武将・太田道灌である。 


●東京の基礎を作った道灌とは  

東京の神社仏閣をめぐっていると、この道灌の名前をよく耳にする。創建者や開基であったり、伽藍や社殿の修復をしていたり、別の神さまを他所から勧請していたりとかなりの数の寺社の歴史にかかわっている人である。

東京の基礎を作った人としてもっと有名になってもいいのではないかと思っているが、実際は都民にさえもほとんど知られていないのが実情だ。歴史は強者によって作られるとはよく言ったもので、太田道灌があまり知られていない理由は、最期があまりに悲惨だったからかもしれない。 

●関東における戦国時代の幕開けとは  

太田道灌は室町時代の中期、鎌倉公方(室町朝廷が関東支配の長として任じた職)の補佐役一族の子として生まれた。戦国時代の幕開けとなった応仁の乱が1467年に起こるが、関東ではすでに1438年に永享の乱が発生、鎌倉公方と補佐役との間で争いが起こっており、各地の勢力が戦さを重ねていた。

やがて、利根川を挟んだ2つの勢力が、約30年弱にも及ぶ戦いを続けるのだが、そんな中、道灌は室町幕府の後ろ盾を得ていた扇谷上杉家の筆頭家臣・太田家の家督を24歳の若さで継ぐのである。 

●江戸城のはじまり  この頃は品川付近に居宅があったようだが、対立勢力が拡大していく中で、河越城、岩槻城などとともに江戸城も築城する。

もともと江戸城は、すでに衰退気味であった江戸氏のものだったが、房総の勢力へ対抗するためにどうしてもこの地へ拠点がほしかった道灌は、江戸氏を口説くためいくつかの奇跡話を用いたとの逸話が残っている。

江戸城を手に入れた道灌は、堅固な城として作り直すのだが、この時鬼門側(北東)に柳森神社、湯島天神などを、裏鬼門側(南西)に日枝神社、平河天満宮、品川神社などを創建・整備・社殿の寄進などをした。

 ●全戦全勝で主家を助ける  

お寺についても鬼門側に、江戸城から出た金印を本尊にした吉祥寺、南西側に道灌が禅の師と仰いでいた雲岡舜徳を招き青松寺を開基している。道灌が成人した時、すでに関東は戦国時代に入っていたわけだが、彼は30年間に戦った30数戦ものいくさを独力で全勝したと言われている。

道灌が参戦するまでの主家(扇谷上杉家)はかなり不利な状況だったらしいのだが、戦況は一転した。戦さ上手だった道灌が戦いの前に必ず戦勝祈願をしたと言われているのが、江戸城の北辰に位置する妙義神社で、創建者である日本武尊とともに社に名前を残している。

また、道灌が唯一負けかけたと言われる文明3(1471)年の戦いの際、一時退避したお寺・自性院(新宿区)には、彼を助けた猫が、「招き猫」の発祥の地として道灌伝説とともに伝わる。この逸話にちなんだ猫像は新宿住友ビル前にも飾られてもいる。


●道灌、54歳の最期  このほかにも関東には道灌についての逸話が各地に残っているが、皇居内の道灌掘、江戸城の出城跡とも言われる道灌山、山吹伝説など挙げればきりがない。日暮里駅前や東京国際フォーラム内、日枝神社内などに太田道灌の銅像が建てられているが、どれほどの人が認知しているだろうか。  

結局、道灌は54歳で主君・扇谷定正の自宅に呼ばれ、風呂から出たところで暗殺されてその一生を終える。

扇谷定正とは、戦さで命を落とした主君の代わりに道灌らが急遽仕立てた後継だった人物だ。この時、道灌の活躍もあって扇谷家は関東一の勢力になっていた。

定正にとって唯一の恐れは道灌だけだったのかもしれない。だまし討ちの末に絶命直前に道灌が放った言葉は「当方滅亡(これで扇谷家は終わりだ)」だったという。 

●道灌の墓は遠く伊勢原の地に  

道灌暗殺の話が伝わると扇谷家に付いていたものたちの多くが対立勢力へと寝返った。収まりかけていた関東の戦国時代は一層泥沼化し、結局、扇谷家だけでなく関東は後北条氏によって駆逐されるという歴史を待つことになる。気の毒な道灌の墓所はなじみのある江戸城や河越城付近でなく、暗殺された伊勢原の地にある。

しかも、大慈寺には首塚が、洞昌院には胴塚と首と胴体が別々に葬られているのである。道灌の死に方を考えれば、しっかりとしたお墓があることだけでも貴重なことなのかもしれない。むしろ、怨霊となって暴れてもよかったくらいの仕打ちなのなだから。  

こんな道灌の一生をNHKの大河ドラマとして取り上げて欲しいという嘆願が出されている。実は、私も、とあるお寺で何度目かの嘆願の折の署名をしたことがある。戦国時代は関西付近の話だけでないし、東京の神社仏閣には道灌に関する資料が多く残されているので面白いドラマになる気がするのだが。  

さて明日、7月26日(旧暦/新暦では8月25日)は、そんな道灌が暗殺された日である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする