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女子高校生誘拐容疑で28歳男を送検 暴行や脅迫、監禁なく単独犯行か 約1か月男の家に 父母同居か【長野】

2023年10月31日 15時03分43秒 | 事件と事故



女子高校生誘拐容疑で28歳男を送検 暴行や脅迫、監禁なく単独犯行か 約1か月男の家に 父母同居か【長野】


女子高校生誘拐容疑で28歳男を送検 暴行や脅迫、監禁なく単独犯行か 約1か月男の家に 父母同居か【長野】
 
10/30(月) 16:59配信


テレビ信州
テレビ信州

見つかったのは自宅から300㌔以上離れた場所でした。


今年8月から行方不明となっていた大町市の16歳の女子高校生が29日、宮城県・仙台市で保護されました。県警は一緒にいた岩手県の28歳の男を未成年者誘拐の疑いで逮捕し30日、長野地検松本支部に身柄を送りました。


未成年者誘拐の疑いで30日、送検されたのは岩手県奥州市の派遣社員、千葉裕生容疑者28歳です。


未成年であると知りながら、大町市に住む女子高校生を親権者に無断で連れ去り、9月30日までのおよそ1か月間自宅で寝食させるなどして誘拐した疑いがもたれています。


女子高校生は8月29日の夜、自宅にいたのを最後に行方が分からなくなっていましたが29日、300キロ以上離れた宮城県・仙台市内で県警が女子高校生を発見し保護。けがなどはなかったということです。その際、千葉容疑者が一緒にいたといい仙台市内の警察署で逮捕。


県警は捜査に支障があるとして、認否を明らかにしていません。


近所の人によりますと千葉容疑者の自宅には父と母が暮らしていて先月も変わった様子はなかったということです。


また、県警によりますと女子高校生に対する暴行や脅迫、監禁などはなかったとみられるということです。


警察は単独犯とみて経緯などを詳しく調べています。

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【自民党と創価学会】自公関係の本質は「連立」ではなく「選挙協力」 野中広務・幹事長が見いだした「自創連携」という計略

2023年10月31日 09時03分50秒 | 政治のこと
【自民党と創価学会】自公関係の本質は「連立」ではなく「選挙協力」 野中広務・幹事長が見いだした「自創連携」という計略


【自民党と創価学会】自公関係の本質は「連立」ではなく「選挙協力」 野中広務・幹事長が見いだした「自創連携」という計略
10/31(火) 6:58配信

〈今、公明党は新進党として、自民党と対立していますが、私は公明党は自民党と組むべきだと思っているのです。戦後五十数年、外国からも侵略されず、国内の内戦がなかった日本は稀有の国です。それは保守たる自由民主党のおかげです。でも現在、自民党は制度疲労をおこしています。公明党というより、支援母体の創価学会には、池田先生が手塩にかけて育てた青年部がおります。また、何よりも平和を願う健全な婦人部がおります。この創価学会の青年部・婦人部と手を組んで、政局を安定させ、難局を乗り越えようではありませんか〉


NEWSポストセブン
自公連立を推し進めた小渕恵三内閣の野中広務・官房長官(時事通信フォト)


 公称会員827万世帯を誇る創価学会──政権運営に多大な影響を及ぼしながら、これまで公明党という緩衝材のおかげで、自民党との関係性は表に見えてこなかった。支持率低下にあえぐ岸田政権の生殺与奪権をも握る「最強集票組織」の正体に迫る──。


【表】公明政治連盟結成(1961年)、池田大作会長が佐藤栄作首相の別荘訪問(1966年)…これまでの自・公・創を巡る流れ 【写真】池田大作・創価学会名誉会長なども


 自公ではなく「自創」という連立政権の核心を知り得る者は、永田町にも数少ない。長年その関係を取材し、創価学会との太いパイプがあることで知られる菅義偉・前首相のもとで首相補佐官を務めた帝京大学教授の柿崎明二氏がその内幕を描く。【全3回の第2回。第1回から読む】


 * * *
 メディアは自公関係を「連立」と称する。しかし、これでは野党時代を説明できない。本質は選挙協力にある。2009年に下野した直後、公明党は関係見直しを模索したが、2010年の参院選でも地域ごとの協力は維持され、非改選も含めて民主党を参院過半数割れに追い込んだ。2012年、衆院選では選挙協力をほぼ復活させ圧勝、政権に復帰した。


 本来、野党が連立政権の樹立、あるいは連立与党がその維持を前提に国会対策や選挙で協力することは「政党連合」と定義される。野党時代を含めると自公は政党連合なのだ。だが、メディアが閣僚人事など与党時の派手なニュースに目を奪われているせいか、政党連合には目が向けられない。


野中広務が明かしたこと
 選挙協力が重要であることを見抜いていたのが、自公連立を推し進めた小渕恵三内閣の野中広務・官房長官だ。


 野中氏の政務秘書官だった加藤芳輝氏は生前、私に「野中氏は1998年に官房長官に就任する前から旧知の創価学会関係者に連絡して感触を探り、連立も可能と踏んでいた」と語っている。


 野中氏も自身の回顧録で〈いきなり自民と手を組んだのでは、支持者にとても説明できない。ワンクッションおいてもらわなければ〉(『野中広務 全回顧録 老兵は死なず』文藝春秋)と新進党分裂を経て再結党した公明党から要求があったことを明かしている。その意向を踏まえ、まず、小沢一郎党首率いる自由党を引き込み、公明党の求める政策を実現するなど環境整備に努めた。そして、翌1999年10月、公明党は自自連立内閣に参加した。


 野中氏が感触を探った創価学会関係者とは、創価学会本部青年部副男子部長などを務めた竹岡誠治氏だろう。竹岡氏の著書『サンロータスの旅人』(蜜書房)の発刊への寄稿文で野中氏はこう振り返っている。


〈初めてお会いしたのは、山梨だった。私が自由民主党の総務局長在任中であった。仲介者は佐々木ベジ氏。(中略)そのころ山梨では、金丸信氏のスキャンダルで、知事選で金丸系が落選し、次いで(1992年の)参議院の選挙区も厳しい状況であった〉


 会った席で野中氏は竹岡氏に公明党の支援を要請、〈おかげで選挙は、勝利することができた〉という。その後紆余曲折を経て、急速に両氏は親しくなり、野中氏は次のように呼びかけられる


〈今、公明党は新進党として、自民党と対立していますが、私は公明党は自民党と組むべきだと思っているのです。戦後五十数年、外国からも侵略されず、国内の内戦がなかった日本は稀有の国です。それは保守たる自由民主党のおかげです。でも現在、自民党は制度疲労をおこしています。公明党というより、支援母体の創価学会には、池田先生が手塩にかけて育てた青年部がおります。また、何よりも平和を願う健全な婦人部がおります。この創価学会の青年部・婦人部と手を組んで、政局を安定させ、難局を乗り越えようではありませんか〉(前掲の寄稿文より)


 自公連携というよりも「自創連携」だ。一連の経緯は野中氏の回想録などではあいまいにされており、関係者の間でも知る人はほとんどいない秘話である。


選挙区は自民、比例は公明
 官房長官から自民党幹事長代理(のち幹事長)に転じた野中氏は党内外の反発を抑えながら選挙協力体制の構築を推し進めた。当時、公明党との選挙協力を強引に進める意味を尋ねた記者時代の私に、野中氏は「公明党は独自政策を実現できればいい。いずれ衆院から撤退するだろう」と答えている。本当にそうなると思っていたのか分からないが、2009年に下野した直後、公明党の「小選挙区撤退論」が浮上した時は、野中氏の言葉がよみがえった。


 政党連合では内閣を共にすることがもっとも接着力を持つと説明されるが、当落を重視する国会議員の心理を熟知する野中氏にしてみれば選挙協力が影響力を持つと考えたのだろう。


 さらに自公の選挙協力は極めて特殊だ。衆院選では自民党の小選挙区候補者を公明党が支援し、見返りに自民党候補が支持者に比例代表は公明党と書くよう求めるバーターが行なわれている。野中氏は、自著『聞き書 野中広務回顧録』(岩波書店)の中では〈そうでないと、一回きりの選挙で、長続きしないから〉と語り、自身がやり始めたことを明らかにしている。


 自民党の小選挙区候補者から見れば公明票が、公明党から見れば比例代表票に自民票がそれぞれ組み込まれている。いびつではあるが、小選挙区を握りたい自民党と比例代表に活路を見出したい公明党が現行の選挙制度に最適化しているともいえる。所属議員単位でみれば一種の融合状態にある。


 2000年当時、「本来投票すべき政党以外に投票するのは制度が形骸化するのではないか」と尋ねた私に野中氏は、創価学会の拡大期である1960年代に入会した一世の会員を念頭に、「もともとは田舎から出てきた人たちで、生まれは自民党支持者と違わない」と説明した。答えにはなっていないのだが、個々の人間、一人一人の国会議員、という政党の下部構造から上部構造を捉えなおす野中氏の視点がうかがえる。


 また、野中氏はやはりこの回顧録の中で、公明党との選挙協力体制を構築するに当たって、創価学会本部の幹部と協議を進めていたことを明らかにしている。


 竹岡氏のエピソードとも合わせ、自公関係が創価学会を軸としていることを認識させるエピソードだ。


(第3回に続く)


【プロフィール】
柿崎明二(かきざき・めいじ)/1961年、秋田県生まれ。早稲田大第一文学部卒。共同通信社政治部記者、編集委員、論説委員などを歴任。2020年10月から2021年10月まで菅義偉内閣の首相補佐官を務めた。2022年4月より帝京大学法学部教授。著書に『検証 安倍イズム─胎動する新国家主義』(岩波新書)などがある。


※週刊ポスト2023年11月10日号



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ソバの群生ですね⭐

2023年10月31日 08時03分34秒 | 日々の出来事
小川の中に咲いています❗



10/21/2023
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「安倍一族」このまま断絶か…後継候補に断られ「事務所閉鎖」「後援会解散」の大ピンチ

2023年10月31日 03時03分51秒 | 政治のこと
「安倍一族」このまま断絶か…後継候補に断られ「事務所閉鎖」「後援会解散」の大ピンチ


9・24・2022

安倍事務所が閉鎖に

photo by gettyimages

 故・安倍晋三元総理の地元、山口県下関市に9月14日、動揺が走った。後援会関係者が語る。



「安倍さんの元有力秘書・鮎川建司さんが、支援者の自宅を回り『12月いっぱいで安倍事務所を閉鎖することになった。後援会も解散します』と伝えたのです。事務所周辺に貼ったままだった安倍さんのポスターも剥がし、来年2月にある下関市議選の候補者のものに貼り替えた。安倍さんに近い人が(山口4区の補選に)出るなら、そのままにするはずなのに」

  本誌が報じてきた通り、安倍氏の死後、妻の昭恵さんや弟・岸信夫前防衛大臣の息子などの名前が後継候補に浮かんでは消えた。安倍氏の元秘書で下関市長の前田晋太郎氏が有力とも言われたが、「『市政を投げ出すわけにはいかない』と固辞した」(山口自民党関係者)。

  政界の「ゴッドマザー」と呼ばれる安倍氏の母・洋子さんのもと、元秘書らが後継者探しに奔走してきたものの、ついに万策尽きたのだ。


安倍家「断絶」の瀬戸際


 「山口でも旧統一教会批判・国葬批判はかなり強まっています。補選は来年4月以降ですが、このまま自民党への逆風が収まらなければ、擁立見送りもあり得る。どのみち次の総選挙で区割りが変更され、現4区は新3区になるわけですし、自民党本部としては新旧候補者同士が対立するような面倒事は避けたいでしょう」(前出・後援会関係者) 

 かくして、安倍家は断絶の瀬戸際に立たされた。早くも動き出したのが、同じ下関を本来の地盤としながら、これまで安倍氏に譲ってきた元ライバル・林芳正外務大臣だ。 

 「9月10日、林さんが夫人と山陽小野田市で国政報告会を開きました。ここは区割り変更後に下関と同じ新3区になる地域で、地盤固めに余念がない。下関の林系自民党支持者の家には、夏まで安倍さんのポスターが貼られていましたが、それも全て剥がされている」(前出・山口自民党関係者) 

 数々の大物政治家を輩出してきた一族は、このまま消えてしまうのか。

  「週刊現代」2022年9月24・10月1日号より
週刊現代(講談社)



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私の家には奴隷がいた

2023年10月30日 23時03分06秒 | 歴史的なできごと
私の家には奴隷がいた>祖父が母親に18歳の少女を贈った日から、彼女は奴隷として一生を過ごすことになった

祖父が母親に18歳の少女を贈った日から、彼女は奴隷として一生を過ごすことになった──。

米「アトランティック」誌が掲載を決めたその日に、57歳の若さで突然死したピュリッツァー賞ジャーナリスト、アレックス・ティゾンが遺した大型手記、驚愕の全訳。

遺灰は、トースターくらいの大きさの箱に収まった。プラスチック製の黒い箱で、重さは1kg半。それをトートバッグに入れてスーツケースにしまい、マニラ行きの飛行機に乗って太平洋を横断したのは2016年7月のことだ。

マニラに降り立つと、車で田舎の村へと向かう。到着したら、私の家で奴隷として56年間を過ごした女性の遺灰を受け渡すことになっている。

彼女の名前は、エウドシア・トマス・プリド。私たちは、彼女を「ロラ」と呼んでいた。背は150cmで、肌はチョコレート色だった。アーモンドの形をしたロラの目が、私の目をのぞきこんでいるのが人生最初の記憶だ。


娘に「奴隷」をプレゼント
マニラに到着して預けた荷物を引き取ると、スーツケースを開き、ちゃんとロラの遺灰があることを確認した。外へ出ると、懐かしい匂いがした。排気ガスやゴミ、海や甘い果物、そして人間の汗が入り混じった濃い匂いだ。


7・1・2017

翌朝早く、私は愛想の良い中年の運転手を見つけて出発した。「ドゥーズ」というニックネームだった。彼のトラックは、車のあいだをすいすいと通り抜けていく。

何度見ても衝撃を受ける光景が広がっていた。おびただしい数の車やバイク、そして乗り合いタクシー。まるで雄大な茶色い川のように、そのあいだをすり抜け、歩道を進む人々。車の横を小走りする裸足の物売りたちが、タバコや咳止めドロップの袋を売り歩く。物乞いの子供たちが、窓に顔を押しつける。

ドゥーズと私が向かっていたのは、ロラの物語が始まったタルラック州だ。また、そこは私の祖父トマス・アスンシオンという陸軍中尉の故郷でもある。家族によれば、土地をたくさん所有していたのにお金はなく、所有地の別々の家に愛人たちをそれぞれ住まわせていた。妻は、初めてのお産で命を落とした。そのときに生まれたのが私の母だ。母は「ウトゥサン」たちに育てられた。要するに、「命令される人々」だ。

フィリピン諸島における奴隷の歴史は長い。スペインに征服される前、島民たちはほかの島から連れてきた人々を奴隷にした。主に戦争の捕虜や犯罪人、債務者などだ。奴隷にはさまざまな形態があった。手柄を挙げれば自由を勝ち取ることができる戦士もいれば、財産として売り買いされたり交換されたりする召使いもいたという。



彼女、つまりロラは承諾した。ただ、死ぬまでずっとだとは思っていなかった。

「彼女はおまえへのプレゼントだ」と、祖父は私の母に告げた。

「いらない」と母は答えた。だが、受け入れるしかないのはわかっていた。やがて陸軍中尉だった祖父は日本との戦いへ赴き、田舎の老朽化した家で、母はロラと2人きりになった。ロラは母に食べさせ、身づくろいをしてやった。市場へ出かけるときは、傘をさして母を太陽から守った。犬にエサをやり、床掃除をして、川で手洗いした洗濯物を畳んだ。そして、夜になると母のベッドの端に座り、眠りにつくまでうちわで扇いだ。

戦争中のある日、帰宅した祖父が、母のついた嘘を問い詰めた。絶対に言葉を交わしてはいけない男の子について、何らかの嘘をついたらしい。激高した祖父は、「テーブルのところに立て」と母に命じた。

 母はロラと一緒に、部屋の隅で縮こまった。そして震える声で、「ロラが代わりに罰を受ける」と父に告げたのだ。ロラはすがるような目で母を見ると、何も言わずにダイニングテーブルへ向かい、その端を握った。祖父はベルトを振り上げ、12発ロラを打った。打ち下ろすたびに、「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」と吠えた。ロラはひとことも発さなかった。


のちに母がこの話をしたとき、あまりの理不尽さを面白がっているようだった。「ねえ、私がそんなことしたなんて信じられる?」とでも言っているようだった。これについてロラに訊くと、彼女は母がどのように語ったのか知りたがった。彼女は目を伏せながらじっと聞き入り、話が終わると悲しそうに私を見てこう言った。

「はい。そういうこともありました」

彼女が「奴隷」だと気づいた日
ロラと出会ってから7年後の1950年、母は父と結婚し、マニラへ引っ越した。その際、ロラも連れていった。祖父は長年のあいだ「悪魔に取り憑かれて」いて、1951年、それを黙らせるために自分のこめかみへ弾丸を打ち込んだ。母がその話をすることはほとんどなかった。

彼女は父親と同じく気分屋で、尊大で、内側には弱さを抱えていた。父の教えはどれも肝に銘じていて、その1つが、田舎の女主人にふさわしい振る舞い方だった。つまり、自分より地位の低い者に対しては、常に上に立つ者として行動する、ということだ。

それは、彼ら自身のためでもあり、家庭のためでもある。彼らは泣いて文句を言うかもしれないが、心の底では感謝しているはずだ。神の御心のままに生きられるよう助けてくれた、と。



1951年に、私の兄アーサーが生まれた。その次が私で、さらに3人が立て続けに生まれた。ロラは、両親に尽くしてきたのと同じように、私たち兄妹にも尽くすことを求められた。ロラが私たちの世話をしているあいだ、両親は学校に通い、「立派な学位はあるけれど仕事がない大勢の人々」の仲間入りをした。

だが、そこへ大きなチャンスが訪れた。父が、外務省でアナリストとして雇ってもらえることになったのだ。給料はわずかだったが、職場は米国だった。米国は、両親が子供の頃から憧れていた国だ。彼らにとって、願っていたことすべてが叶うかもしれない、夢の場所だった。

父は、家族とメイドを1人連れていくことを許された。おそらく共働きになると考えていたので、子供の世話や家事をしてくれるロラが必要だった。母がロラにそのことを告げると、母にとって腹立たしいことに、ロラはすぐには承諾しなかった。

それから何年も経ったあとにロラが当時のことを話してくれたのだが、実は恐ろしかったのだという。

 「あまりに遠くて。あなたのお母さんとお父さんが私を帰らせてくれないんじゃないかと思ったんです」



結局、ロラが納得したのは、米国に行けばいろんなことが変わると、父が約束したからだった。米国でやっていけるようになったら、「おこづかい」をやると父は言った。そうすれば、ロラは両親や村に住む親戚に仕送りができる。

彼女の両親は、地面がむき出しの掘っ立て小屋に暮らしていた。ロラは彼らのためにコンクリートの家を建ててやれるし、そうすれば人生が変わる。ほら、考えてもごらんよ。

1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。ロラが母のところへ来てからすでに21年が経っていた。いろいろな意味で、自分にとっては父や母よりも、ロラのほうが親という感じがしていた。毎朝最初に見るのは彼女の顔だったし、寝る前に最後に見るのも彼女だった。

赤ちゃんの頃、「ママ」や「パパ」と言えるようになるよりずっと前に、ロラの名前を呼んでいた。幼児の頃は、ロラに抱っこしてもらうか、少なくともロラが近くにいないと絶対に眠れなかった。

 家族が渡米したとき、私は4歳だった。まだ幼かったので、ロラが我が家でどういう立場なのかを問うことはできなかった。だが、太平洋のこちら側で育った兄妹や私は、世界を違った目で見るようになっていた。海を越えたことで、意識が変わったのだ。一方で、母と父は意識を変えることができなかった。いや、変えることを拒んでいた。



結局、ロラがおこづかいをもらうことはなかった。米国へ来て数年が経った頃、それとなく両親に訊いてみたことがあるという。当時、ロラの母親は病気で、必要な薬を買うお金がなかった。

「可能でしょうか?」

母はため息をついた。「よくそんなことを言えたもんだ」と父はタガログ語で答えた。

「カネに困っているのはわかってるだろ。恥ずかしいと思わないのか」

 両親は、米国へ移住するために借金をしていて、米国に残るためにさらに借金していた。父は、ロサンゼルスの総領事館からシアトルのフィリピン領事館に異動した。年収5600ドルの仕事だった。収入を補うためにトレーラーの清掃の仕事を始め、それに加えて、借金の取り立てを請け負うようになった。


母は、いくつかの医療研究所で助手の仕事を見つけた。私たちが両親に会えることはほとんどなく、会えたとしても彼らはたいてい疲れ切っていて不機嫌だった。

母は帰宅すると、家がきちんと掃除されていないとか、郵便受けを確認していないなどと言っては、ロラを叱責した。「帰るまでに、ここに郵便を置いておけって言ったでしょ?」と、敵意をむき出しにタガログ語で母は言う。

「難しいことじゃないし、バカでも覚えられるでしょ」

そして父が帰宅すると、今度は彼の番だった。父が声を荒らげると、家中の誰もが縮こまった。ときには、ロラが泣き出すまで2人がかりで怒鳴りつけた。まるで、ロラを泣かせることが目的だったかのように。

 私にはよくわからなかった。両親は子供たちによくしてくれたし、私たちは両親が大好きだった。だが、子供たちに優しくしていたかと思うと、次の瞬間にはロラに悪態をつくのだ。




リングはお腹がすいてないって言ったんだ」と私は言った。

両親が振り返って私を見た。驚いた様子だった。いつも涙がこぼれる前にそうなるように、自分の顔がピクピクしているのを感じた。でも、絶対に泣くまいと思った。母の目には、これまで見たことのないものが浮かんでいた。もしかして、妬みだろうか?

「ロラを守ろうとしているのか」と父は訊いた。「そうなのか?」

「リングはお腹がすいてないって言ったんだ」

 私はすすり泣くように、そう繰り返した。



私は13歳だった。私の世話に日々を費やしていたロラを弁護しようとしたのは、初めてのことだった。いつもタガログ語の子守唄を歌ってくれたし、私が学校に行くようになると、朝には服を着せて朝食を食べさせ、送り迎えをしてくれた。あるときは、長いあいだ病気で弱りきって何も喉を通らなかった私のために食べ物を噛み砕き、小さなかけらにして食べさせてくれたこともあった。

私が両脚にギプスをしていたときは、彼女は手ぬぐいで体を洗ってくれたし、夜中に薬を持ってきてくれたりして、数ヵ月におよぶリハビリを支えてくれた。そのあいだずっと私は不機嫌だった。それでもロラが文句を言ったり、怒ったりすることは1度たりともなかった。

そんな彼女が泣き叫ぶ声を聞いて、頭がおかしくなりそうだったのだ。

祖国フィリピンでは、両親はロラの扱いを隠す必要性を感じなかった。米国では、さらにひどい扱い方をしたが、それを隠すために苦心した。家に客が来れば、彼女を無視するか、何か訊かれたら嘘をついてすぐに話題を変えた。

シアトル北部で暮らしていた5年間、私たちはミスラー家の向かいに住んでいた。ミスラー家は賑やかな8人家族で、サケ釣りやアメリカン・フットボールのテレビ観戦の楽しみを教えてくれた。




テレビ中継を観て応援する私たちのところへ、ロラが食べ物や飲み物を持ってくる。すると両親はほほ笑んで「ありがとう」と言い、ロラはすぐに姿を消す。あるとき、ミスラー家の父が、「キッチンにいるあの小柄な女性は誰?」と尋ねた。「フィリピンの親戚だよ」と父は答えた。「とてもシャイでね」と。

だが、私の親友だったビリー・ミスラーは、そんな話を信じなかった。よくうちに遊びに来ていたし、週末に泊まることもあったので、我が家の秘密を垣間見ていた。

ある日、キッチンから聞こえてくる母の怒鳴り声が気になって、ビリーが見に行ってみると、そこには顔を真っ赤にした母が、隅で震えているロラをにらみつけているのを目にした。私が到着したのは数秒後だった。ビリーは、気まずそうにしつつ、困惑した様子だった。


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