馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

水平線を見詰める少女。

2020-02-23 23:28:17 | 日記

2月22日(土)

AM10時 久しぶりに幕張茜浜までウオーキング。

 

海は荒れていたが風は春の到来を告げる。

凍傷の痛みはない。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/f863d4ab992b1243ae676bc6273bfcf8

 

護岸のテトラポットに、白い波頭が打ちつける。

海原を吹き渡る風に向かって都鳥が飛ぶ。

魚群に向かって急降下するが風に遮られる。

 

ぐるりとマリンスタジアム 幕張メッセ 木更津、

ディズニーランドを見渡す。

大型船が港を出て外海に向かう。

 

何年か前のことだが、護岸に立って水平線を眺めていた。

振り返ると、石の階段に座る少女がいた。

海を見詰めていた。

その面影は愁いの瞳と黒髪が風に揺れ

額と悲し気な目を一瞬覆った。

少女は動かなかった。

暫くして、後ろから黒の装いの中年男女が

少女の背後に立った。

やはり二人は愁いの表情でじっと水平線を見詰めていた。

幕張茜浜

離れて見ていた私は、突然胸が締め付けられる悲しみに。

 

護岸の後ろは海浜霊園。

幕張茜浜海浜霊園

ウミネコ 松風騒ぐ護岸に

悄然と海原を見続けていた。

映画の一シーンを想わせる

とても美しい3人の姿だった。

 

祖父母の墓参りであれば、多数の人がいて話し声もある。

勝手な想像をしたのだ。

もっと、深い肉親の死への追憶なのか。

 

10年前、甥っ子が20歳で自死した。

妻の妹 その夫

妻と私 

沈黙の葬儀をした。

若者の死を4人が受け入れることができなかった。

花々に包まれた棺を見詰めても涙は滲むこともなかった。

霊廟塔の階段を登り、納骨した。

塔を囲む木々からけたたましく蝉が鳴き出し、忽ち連鎖の鳴き蝉。

私達は、それぞれの帰り道で、無言の礼をして別れた。

 

 


 再掲白馬岳遭難 遠くなった苦い思い出!今年暖冬異変

2020-02-23 07:30:40 | 日記

今冬は、コロナウイルス感染で日本列島は大混乱で右往左往。

観光地は、外国人が訪日せず凍えています。

雪不足でスキー場営業出来ません。

 

毎年、寒風吹き荒ぶ漁港を通ると、

凍傷になった右手、右耳 右足に針を刺したような痛みがはしる。

しかし、暖冬で痛みは生じない。

 

52年前の北アルプス白馬岳登頂での傷跡だ。

痛みは肉体が記憶しているのか?

心に刻まれていて呼び覚ますのか?

 

卒業して娑婆に出た。

修羅の下界の方が、余ほど危険なことに気付くのであった。

 

再掲

2012年5月13日 ブログ

5月5日 北アルプス 白馬岳6人遭難死が報道された。

白馬岳

毎年 高齢者登山遭難事故が起きる。

報道によれば年配者だが登山経験は豊富な方々で

海外登山経験者、そして医師仲間。

遭遇した事故死を安易に語れない。

私には白馬岳登山は苦い思い出だけがある。

昭和42年大学1年生12月24日~翌年1月22日まで立山~槍ヶ岳縦走

昭和43年春 北アルプス前穂高北尾根登頂して

順調に冬山経験を積んでいた。

昭和43年12月末 北アルプス白馬岳主稜を登頂目指した。

しかし頂上直下で悪天が続き5日間雪洞でのビバークを余儀なくされた。

4年生2名 3年生2名 私を含めて2年生2名

食料も尽き欠けていた。リーダーの決断で下山を決定した。

雪洞は大波のごとき吹きつける雪で積み量さなり

脱出に3メートル以上も堀上げなればならなかった。

体感温度 マイナス16度の暴風雪を下り白馬大池で幕営した。

テント場で同期と飯作りをしたが右手が痛みだしていた。

上級生が私の右手をみて「やばい!凍傷だ」

その夜、寝袋に包まれ右手を股の間に入れて眠れぬ夜を過ごした。

トランシーバーにて緊急事態を連絡した。

天狗原でスキーリフトに縛りつけられて栂池まで下山。

そのまま、大町の昭和電工病院にて治療を受ける。

翌日 帰京すると慈恵医大病院へ直行。

右手、右足、右耳、飛騨側から吹き付ける凍風で凍傷になった。

それから約4ヶ月間治療を続けた。

幸い、指切断にはならなかったが、後遺症はいまでも残り冬は痛む。

その時 同じ病院で冬山登山により凍傷になり足指4本切断した人がいた。

私がいた山岳部も前年2年生が冬山で指を2本切断していた。

あの時 リーダーの撤退するとした判断は良かった。

4年生の主将として冬山が4年間の登山の集大成であり

白馬登頂はなんとしても完登したかったはずだ。

あのまま登頂を強行すれば遭難死はしないまでも私の指は

凍傷により切断していたに違いない。

その後、厳冬期登山を断念しなけれならない期間があった。

翌年、厳冬期槍ヶ岳北鎌尾根登頂を断念した。

槍ヶ岳北鎌尾根

大学4年秋 再び白馬を厳冬期登頂の偵察を兼ねて

2パーティーにて分かれて登山 白馬大雪渓で合流予定であったが

悪天の為、別パーティーは一時行方が分からない状況となり

翌日、捜索をしてビバーク中を発見した。

白馬冬季登頂は昭和46年1月 大学4年の時だった。

やはり、猛烈なブリザードの中、凍傷の手足を庇いながらの登頂だった。

 

人生も同じ。

経験も積み、装備も万全、それでも予測出来ないアクシデント。

人は思い通りにならないことに怒り、うろたえ他人に当たりちらす。

その結果はますます状況が悪くなる。

人生 焦ってはいけないと肝に命じる。

      

昭和45年3月 北アルプス 蝶ガ岳

両脇の同期はとっくに旅立ってしまった。

合掌。