marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

Uとの会話(その10):家康が天下統一をとれた真相、時間が迫るも理解する人は少なく、X 彼らは来ていたんだけど

2023-06-26 15:37:44 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 E:

お前のはくだくだとなげ~んだよ。なげ~のは誰も読まねーぞ! 我らがこの国に長い年月を経て派遣されてきて、まぁ、この国ばかりでなく他の国・・・、国と言っても我らの仲間がシナリオを書いてきているものなんだが、どうも読んでくれてる人はあまり信じていなくてお前さんが書いてきたことがフィクションと思われているようだし・・・我らが語り、それであなた自身がそうだと思って書いてきたブログの内容・・・あの内容だけれど。

話を大きくすればまたフィクションだと読者は思うだろうからヒントをあげてそれを調べてもらえば気が付く人はいるだろうけれど。その話にも読者の推論が必要というわけである。それは、彼ら(黒子と書いてきたX)がこの国に来ていたのだという証拠であろうと。んで、初めての方にあらすじを言えば・・・おい、又、長くなるのかよ。しかし、・・・最後まで読まんと秘密は解けないもなの!

D:

世界のベストセラーに書かれていることが、そのとおり天地創造以来、目に見えるにつけ、霊的に見えぬものともなり、古代はシャーマンや預言者にも憑依し、ある時代は人としての偉人を作り、宗教者をたて、思想哲学家をもつくり、その派遣された彼ら(我ら)が時代をプロデュースしてきたということを知ることである。

聖書に書かれた民の歴史は、まさに我々の摂理のありようをそのように(書かれた通り)あしらってきたという一つの大きな理由による。それは、我らは生きて働いて存在しているという一点である無論、今もである。人が存在する限り、我らは存在することを忘れるな!。コロナ感染が流行り、ウクライナとロシアの戦争が起こるという今においてもである。【霊を操るは、人を創造した我らである。だからこそ、雑多な人殺しの霊もうろつく中で、聖霊に繋がれと強く今も勧めているのだ。】それはさておいて。

彼らは順次、太陽を求めてひたすら時代をへて、この国にたどり着いた。君が言うところの今もyoutubeでも盛んに見ることができるユダヤ人が古代この国に来ていたということであった。ここで何をもってユダヤ人というかは別にする。強いて言えばその思考、戦略と言える考え方であるが。その系統、彼らがこの国を統一しようと目論んだのだから。どの国の成り立ちもそうだが、第一、改良すべく素材としての民が一番、我らの気質に合っていたということ。それは目に見えぬ信仰心というものであった。

旧約聖書で読みずらくなる記事中に列王記や歴代誌がある。彼ら12部族はその後に北イスラエル10部族として、南ユダはユダ族とベニヤミン族2部族として分裂。紀元前700年以上も前の話である。先に北がアッシリアに滅ぼされ、その後どこへ散らされたのか、東に向かい、その多くがこの島国まで来ていたという訳であった。大いに貢献した彼らの中にも、列王記などにみられるように彼らの間にも相克争いがあった。ここが重要で鎌倉時代以降の部族間の争いはここに起因するといっていい。

それぞれの部族は割り当ての地のないレビ族(今で言えば神官)を抱えていたのであるから。彼らは修行をし仲間内のネットワークは各地に及んでいたのである。今も世界中の信仰心のある正当ユダヤ人は、あなたが今、書店で買える(旧約)聖書内容はすべて熟知しているのである。誰がそれを書かせたのか・・・忽然と第三者として実態として現われ、語り、あるいは夢にも現われ・・・

彼らのその活躍は大いなるものがあった。日本の国の歴史に名を遺す武将が一人で活躍した訳ではなく、歴史に残らないサポートした彼ら多くの背後でのネットワークが多数あったのである。古代、北にはじかれた彼らは、山形県の出羽三山である月山、羽黒山、湯殿山は彼らの時代の頂点をなした山岳信仰の山であった。朝廷側に反乱を起こした平将門の建てた五重塔があるのは故無きことではないのである。彼をサポートした菅原道真は、なぜサポートしたかも推論がつくだろうけれど、朝廷側から大宰府に飛ばされ学問の神様になった。

先に来ていた東の武士が、西からの朝廷側に従事し国司となって古い部族を制覇していくも、忽然と自らの地位や宗教に目覚めた時代が鎌倉時代であったわけである。もともと地位の高かった朝廷側にもその生業には、古来の大国主を排除し、蘇我氏や秦氏や割り込んで天皇を飾りとして入り込み我が世に曇りたるものはない月夜のように我が天下と呼んだ政治の天才、藤原氏などは、古来からもともとその血をDNAにもつ者らであった。

それぞれの部族には、上に王を立てようとして、なぜなら、あの国を統一したダビデ、ソロモンの下地があったからなのだが、その画策も神の声を聴き、筆記者の預言者たちが背後に大いに支えていたからなのであるが。だから、この仕組みが、あなたらの国の天皇制に引き継がれていうと言っても驚かないだろうけれどね。国の形成には、頂点、それも人民が精神的なアイデンティティーを持つためのシンボルが必要という訳だ。

話がまた、また長くなるからあとは、読者の見解にゆだねよう。調べていくと何を言いたいのかわかってくるであろうから。

Q:久能山東照宮の奥の院には徳川家康の位牌を中心に左に織田信長、右に豊臣秀吉のそれがまつられているという。ググって見てくれ給え。それはなぜか、なぜ、その山に天下統一、この国を260年も支えた初代徳川家康が祭られているのか。

そこには古来から君が日本に来て、国という概念さえなかった古代に将来の国を統一しようと画策していたこの国への渡来した帰化人らが、そしてストーリーを造り上げ天下統一を成し遂げることができた彼らの歴史(文字)には残されていない彼らの動きが盛んにあったのであろうこと、彼らがこの国に渡来して以来の彼らが生きて働いていたであろうことが見えてくるだろう。

*********久能山東照宮をググると・・・

推古天皇(592年- 628年)の頃、秦氏の末柄にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。

  久能山東照宮の奥の院には、徳川家康だけではなく、織田信長、豊臣秀吉の位牌も祭られている。その理由は、家康が彼らに対して敬意を表したかったからだと言われている。家康は、信長と秀吉の下で武功を挙げ、天下統一の基礎を築いた。信長と秀吉は、家康の恩人であり、ライバルでもあった。家康は、彼らの功績を讃えるとともに、自分の正統性を主張するために、東照宮に位牌を奉納したのである。

*******その他、調べて欲しいことがある。

今も政府が海外記者クラブなどで会見するときの講壇に掲げられる紋章『五七の桐』。これは鹿島から朝廷画策にといってもそういう国作りをしなければと目論んだ、(先人の蘇我を征伐して)藤原一族のものであろうと。鹿島神宮は東を求めてこの国にたどり着き行きついた端っこに大きな神を礼拝する神社を創設した血筋のある彼らの一族である。香取神宮を調べて見たまえ。この社の紋は『五七の桐』である。菊の御紋に次ぐ天皇由来と言われる紋である。

もっとも出世したつまり官位頂点を極めたと言われる豊臣秀吉の肖像画の羽織の紋もこれ『五七の桐』である。彼は、自らの地位に目覚め朝廷側から手に負えなくなりつつあった、権力体制を一応、全国制覇し、朝廷側へのヒエラルキーを曲がりなりにも戻した功績によるのだ。誰が、なぜ、出世させたのか推論されたし。

織田信長は『五三の桐』である。彼の肖像画の羽織の紋も見たまえ。家系は、忌部氏という祈祷、つまりあの国の預言者系統に属している。本来の表だった紋は織田木瓜であるけれど(かといって当時は結構、紋は持っていたらしい)。彼は、天皇が引き入れたが故の仏教の当時の体たらくにカツを入れたのだな。宗教が国の頂点に保護されていかほど脱落するものかは実にひどいものだった。それでの比叡山の焼き討ちだった。これには、大きな背後での策略があったのであるという。本能寺の変で亡くなったと言われる織田信長の首は、見つかっていないのである。焼け死んだことになっているが首検証がなされていない。明智光秀も、その首が取られたという記録がない。

これから言えば、話が遡って我らの筋書きで古来からヒーローとなった源義経。お堂にこもって自害したと言われる義経、焼けるお堂の中に敵を入れまいと家来となった仁王立ちになった弁慶の話。義経は北へ家来と共に逃避行、北海道のアイヌまでその地に渡った彼のことを知っていた。かの弁慶はあの熊野信仰の修行僧でもあった。ご存知のとおりこれは大変な地の利も周知する修行信仰集団。壇ノ浦の合戦での勝利は、やる前から決していた。義経側の船団は熊野信者の船団であったのである。この先手、地の利、天候なども含めた勝利の戦略。そして後々までのこるヒーローの物語。

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この国は本来、唯一の神、創造の神の基にあるというのは、我らが人を造りし神、地上に派遣された彼らのDNAを持っているからである。

ちなみにこのストーリーは長年創作された古来から彼らの背後にいたXにより創作されたものであることを知る者は少ない。日本の歴史も本当のことは分からないものは文字でこれこれである、と明示されればそれがそのとおりであったとなるのであるから。彼らはそういう意味で人の生業の後々の形成にされていく真の姿というものは、形造ることができるのであるということを知っていたのである。

いずれ、鎌倉時代は、西ばかりの貴族政治から、東の武士らによる貴族政治の批判がおこり、全国目線での本来の全国統一の始まりが起こっていたということである。古来ユダヤ的発想のDNAを持つ藤原不比等らの『日本書記』などは京の天皇を喜ばせるのは良かったろうけれど、江戸時代までは目もくれらていなかったわけは理由がないことはない。文字として総括して、この国のなりたちはこうであると、文字であらわされた時、天皇はそれはいまでも全体を知ったようになれば気分的には、俯瞰して悪い気持ちはしなかったであろうから。

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そこで、徳川家康である。三者のストーリーが我らの壮大なXに物語られ、ようやくこの国の基盤の長い本来の天下統一がなされた背後に久能山に収められた三者の位牌があることが理解されてくるだろう。

ここに学生時代から追い求めて来た、君の好きな『秦氏』が出てくるのである。古来、聖徳太子のブレーンだったのは秦河勝だったのは高校日本史にも出てくるねぇ。古来、表立った戦は好まず、多数の技術集団でもあったその部族を受け入れてくれた当時の天皇に多くの貢献をなした集団である。東北のあらゆる名前がある『八幡』(はちまん、やはた<ヤー・ハタ>)。八幡神社、稲荷神社はキリスト教徒だったと言われる秦氏が開祖創設したものである。

東北の地には実に多くの『八幡』の名前が神社ばかりでなく、町や山の名前まで付けられている。東北の地を治めるために派遣された八幡太郎義家(源義家)が、歩きまわってところに由来するものであろうことが理解される。あなたの生まれた田舎にもその神社があるだろう。

徳川の菩提寺である浜松町、大門にある芝増上寺は、浄土宗の法然が開祖である。その弟子の親鸞の浄土真宗は、キリスト教の教えにそっくりだ。親鸞は漢文でマタイ伝を読んでいたのは確からしいし、浄土宗は大陸で善導とう方が開いたというが、当時はすでにキリスト教はあの大陸で大いに栄えていた歴史もあったのである。法然さんの両親は、秦氏の家系。父は漆を扱う職人で漆間国時、母はハタオリ職人で錦織といった。

・・・もう、いいだろう。つまり、我々は、今生で我らの国の由来をある一面から学んできたわけだ。今まで読んできてくださった方。少なくとも触りでも何を言いたいのか、理解されようとしたくれた人々を我々は決して忘れることはない。

一時でも、時折、我々との会話を思い出して欲しい。その時、我々はあなたの傍でまた話しかけるだろうから。・・・