ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

140. 南蛮船大集合

2017-10-31 | エッセイ

2017年10月7日、今年も帆船がやってきた!

窓からサド湾を眺めていると、大型帆船が姿を表した。真っ白な船体、3本マスト、あれはサグレス号に違いない。その美しい帆船はスルスルと滑る様に進み、サド湾の岸壁に横付けした。ポルトガルの海軍を代表する大型帆船だ。

 

セトゥーバル港のサグレス号。左の建物は魚のセリ市場。

 

その後から4本マストの帆船、その次に2本マストの黒いカラヴェラ船、などと次々に7隻の帆船が入港した。セトゥーバルの港まつりの始まりだ。

その数は去年より3隻も多い。

夜になると、それぞれの帆船のマストにイルミネーションが灯り、我が家の窓から全体が良く見えた。

翌日は土曜日。

セトゥーバルは港に面した岸壁沿いに10数件のレストランが並んでいて、そのどれもが魚の炭火焼きを専門にしている。漁港の真ん前でメルカドもふたつあるので、レストランが出す魚の鮮度は抜群だ。土曜日、日曜日になると、セトゥーバル市内はもちろん、周りの街からも、クルマで詰めかける。だから11時半ごろには店に行かないと、長い行列になる。

私たちもいつものレストランにその頃に着いたのだが、帆船祭りを見に来た人々が多いせいか、既に店の中は空席があまり無い状態だった。

氷をぎっしり詰めたショーケースには今日の魚が並んでいる。その中でひときわ生きの良さそうなのがサルモネッテという魚。今の時期、たくさん獲れるらしく、セトゥーバルでは「サルモネッテ祭り」をやっている。高級魚だがせっかくだから奮発してサルモネッテを注文。それとセトゥーバル名物「ショコフリット」、これは分厚いモンゴイカをぶつ切りにした天ぷら。

 

脂がのって美味しいサルモネッテ。


セトゥーバル名物、ショコフリット

 

食べ終わったのが1時過ぎ。それから岸壁に歩いて行った。

サグレス号を見学する人は多い。でも今年は小学生たちの団体と一緒にならなかったので、ゆっくり見て回れた。急傾斜の階段も去年は目がくらみそうだったが、今回はわりと楽に昇り降りできた。

スペインからも帆船が2隻やってきていた。

 

スペインのセビリアからやって来たカラヴェラ船

 

そのうちの一隻はセビリアからきた黒い帆船。船に上がるのも急だが、船内に降りるのも急で、船員が女性や子供には手を差し伸べて手助けをしてくれた。この帆船はマゼランが香辛料を求めて出港し、途中で大西洋から太平洋に抜ける海峡、後に「マゼラン海峡」と呼ばれるようになった海峡を発見した時に乗っていたカラヴェラ船で、セビリア万博の時に復元された帆船ビクトリア号。

 

ビクトリア号の甲板

 

船の甲板はかまぼこ型に丸く盛り上がり、歩くのに緊張した。湾内に浮かんでいるから良いものの、波の荒い外洋に出たら動くのが大変そう。甲板は丸い上に使い込まれたまな板の様に擦り減り、そして船体は外も内も黒く塗られ、漆黒に輝き、今にもジョニー・デップが帆を伝って上からするする~と降りてきて縁取りした目でニュ~と顔を覗かせ「ハロ~、マダ~ム。ようこそ」とでも言い出しそうな雰囲気だ。

そしてこのカラヴェラ船を造る技術は、ワイン樽を造る技術と風車小屋の帆の技術が生かされていると言うのが納得できる。

マゼランはスペイン人ではなく、ポルトガル人だ。ポルトガルの北部ポンタ・デ・バルカの出身で、ポルトガル名は「マガリャーエス」という。それが英語読みで通称マゼランと言われている。マガリャーエスという名前は今でもその苗字の人がけっこういるので、遠い歴史の彼方にいたマゼランという人物に急に親しみを感じた。

 

ガレアン船とサン・フィリッペ城

遠く大航海時代にはこのようなカラヴェラ船でマゼランの船隊が執念の結果、南アメリカ大陸の南端、マゼラン海峡を発見したということにロマンを感じる。私たちも昔、マゼラン海峡の南に浮かぶフエゴ島のウスアイアに行ったことがあるが、さすがに南極大陸に一番近い島で、4月だというのに雪が舞い降りてとても寒かった。そこに達するまでには、アルゼンチンの東海岸でペンギンの大繁殖地を見学したのも忘れられない体験であったが、マゼラン達はそのペンギンも食料としたのは当然の事だったのだろうと思う。そのペンギンは後にマゼランペンギンと命名されている。

大航海時代、当初の目的は黄金の国ジパングを目指すことにあった。その副産物としてモルッカ諸島などに肉料理には後に欠かせなくなる香辛料、肉荳蔲(ニクズク/ナツメグ)や丁子(クローブ)の発見である。後に、紆余曲折を経て、その肉荳蔲や丁子の調達、半ば独占的に貿易をすることになりポルトガルは富を独り占めにした。

当時の船内は丁子の香りで満ちていたのだろうと想像できる。(我が家でも丁子は欠かしたことがない。食料戸棚を開けると丁子の香りが先ず飛び出してくる。)

海でのイスラムとの闘いもあり、そして行く先々で海賊行為をも行っていた。マゼランは途中で命を絶たれたが、その意思を受け継いだ海の男たちで世界一周を成し遂げたのもこのようなカラヴェラ船やナウ船であった。

 

船の横腹に大砲を積んだガレアン船


ガレアン船に取り付けられた大砲

 

ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブスそしてマゼランばかりではない、その過程には多くの貴族、聖職者、商人、兵士、そして奴隷たちが荒波の中、海の藻屑と消えていった。今も海の底には財宝と共に大航海時代の多くの船が眠っている。

歴史の上では大航海時代として一つの時代が謳われているが、ポルトガルでは突如として大航海時代が始まったわけではない。古代ローマ時代からイワシを獲り、タラを獲り、遠洋まで出かけて、海からの恵みを享受してきた民族なのだ。私もサルモネッテやショコフリットなどと言って舌鼓を打ち鳴らしている場合ではない。

1580年から1640年はスペインがポルトガルを併合した時代だ。レパントの海戦でイスラムの海賊を排除したスペイン、ポルトガルは、香辛料などの貿易独占権を確保するために、次第に力を付けてきていたイギリス、オランダをも排除することに力を注ぎだした。スペインのフェリペ1世は、セトゥーバルに砦を築き、イギリスからの攻撃に備えた。イギリス・オランダの連合艦隊が次第に力を付けつつあることを知ったフェリッペ2世は1587年、イギリスに先制攻撃をするためにスペイン・ポルトガルの無敵艦隊アルマダを編成してリスボン港を出港した。「アルマダの海戦」である。スペインにとっていわゆる「アウェイの戦い」で、大型帆船を主力にした無敵艦隊は、小回りの利く小型の帆船で立ち向かったイギリス・オランダ艦隊を相手に苦戦を強いられて、散々な負け方をした。

セトゥーバルの砦「サン・フェリペ城」が完成したのは、その後の1590年の事だった。イギリス軍を迎え撃つべき大砲は使われることはなかった。

そして大航海時代はスペイン・ポルトガルからイギリス・オランダが主導権を握る時代へと移っていくことになる。

昨年に引き続いてのセトゥーバルの帆船祭り。土曜日の夜は花火大会があり、我が家のキッチンから堪能した。

 

月曜日、サグレス号を先頭に、帆を揚げて引き揚げていく帆船の行列。(台所から撮影)

 

今年は帰国時には宮崎にちょうど日本丸が来ていて、港まで自転車で行って、その帆の上げ下ろしなども見学することができた。このところ帆船づいている。もう少し帆船のことについて調べてみるのも悪くはないのかもしれない。

 

宮崎港の日本丸(2017年5月5日宮崎港埠頭にて)


リスボンにある国立古美術館には狩野派によって描かれた南蛮屏風が数点展示されている。何れにも南蛮船が描かれているが、今回私が乗船したのと殆ど同じような船に違いない。MUZ

 

☆南蛮船

ナウ船 Nau 大航海時代を代表する大型の帆船。船体の長さは30メートルくらいが普通で、大型のものは45メートルくらいのものもあった。マストは5本が普通であった。ナウ船は武装している。

ガレアン船 Galeão 重武装のナウ船。

ナヴィオ船 Navio 小型のナウ船。実際はナヴィオ船からナウ船が発達した。

ガレオタ船 Galeota 重武装のナヴィオ船。

カラヴェラ船 Caravela 3本またはまれに4本のマストを持つ、小型で軽快な帆船。

フスタ船 Fusta 大型のバテルBatel(ボート)で、櫂で漕ぐが、帆走も可能で、小型の火砲を装備することができる。櫂の数は時には30対に達する。

バテル船 Batel いわゆるボート。南のサンゴ礁の島々には大型帆船を停泊できる港は少なく、沖合に錨を下ろし、このバテルで人も物資も陸地と帆船を往復する。難破した時にもバテルに乗り換え櫂で漕ぎ陸地を目指す。(「大航海時代とモルッカ諸島」生田滋著/中央新書)より

©2017 MUZ

 

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S.009. Centaurea calcitrapa 武本睦子絵画作品

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S.008. Cynara humilis 武本睦子絵画作品

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S.007. Halimium halimifolium 武本睦子絵画作品

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S.006. Galactites tomentosa 武本睦子絵画作品

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S.005. Linaria amethystea 武本睦子絵画作品

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S.004. Euphorbia helioscopia 武本睦子絵画作品

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139. ノッサ・セニョーラ・ダ・カーボ・エスピシェル祭り  Festejo em Honra de Nossa Senhora do Cabo Espichel

2017-10-01 | エッセイ

 大西洋に突き出したエスピシェル岬で9月の末に行われるセジンブラの「聖母祭り」があった。

 今年は9月23、24、25日の3日間、行われた。私は「もうそろそろかな」と思っていたが、詳しい日程は知らなかった。土曜日、ちょうど友人がエスピシェル岬に行ってきたと知らせてくれた。祭りは土、日、月曜日にあるという。

 さっそく私たちも日曜日に出かけた。

 

 エスピシェル岬は600年以上も昔、14世紀の中頃、聖母マリア様の像をお守りするために大西洋を見晴らせる断崖絶壁の台地に礼拝堂が作られた。漁師たちが漁の無事を海から祈願するために。そしてそれを拝みに各地から信者たち巡礼者が訪れる様になり、その巡礼者たちを受け入れる荘厳な教会が1715年に建立され、僧房が建てられた。

 

 

エスピシェル岬の聖母教会とテレイロ広場

 

 教会の内壁と天井に施された様々な色大理石を組み合わせた模様は見事なものだ。教会では今も信者たちで人の絶えることはないが、僧房は今では老朽化が進み、窓はモルタルで塞がれたまま。外壁は今にも崩れ落ちそうで、ところどころは『崩壊危険』などと看板が取り付けられている。

 教会の両脇にアーチ柱が続いているのが僧房だが、その僧房に取り囲まれるように細かな砂利が敷かれた広大な広場がある。テレイロと呼ばれる。そこで毎年、この時期に祭りとミサが執り行われる。

 

 

教会でのミサの後、テレイロで行進が始まった。右側のアーチ回廊は元僧房。

 祭りは20数年前に一度見学したことがあったが、今回また出かけてみた。この地は野の花観察にお弁当持参で1か月に1度は訪れる慣れた場所だが、お祭りの日は全く様子が違いクルマと人で溢れていた。いつもなら羊が草を食んでいる牧場はにわか駐車場となり、羊たちはどこへ避難しているのだろう。そして土産物屋や食事を提供する屋台が何軒も出ている。普通は常設のカフェ・レストランが一軒、屋台が一軒しか出ていないが、祭りのために今回は10数軒の屋台や土産物屋が出ている。地元アゾイア村の特産、ハチミツも売っていた。

 

立ち並ぶ屋台

 

炭火焼きと焼き栗

 

アーモンドやカボチャの種などを砂糖で絡めたカラピン屋。

 

行列の先頭。元僧房の窓はモルタルで塞がれている。

 

まず女性信者たちがマリア像を担ぐ。

 

神父たちの後にマリア像。担ぎ手が男性信者たちに代わっている。

 

町のボンベイロ(消防団)のブラスバンド。

 

岬の突端のエルミダ(礼拝堂)でミサ。

 

エルミダを出発。

 

大西洋の荒波を眼下に。

 

向こうに見えるのは灯台。

 

 祭りは3時ごろから教会の中でミサが行われ、近在の人々がひっきりなしに出入りしていた。エルミダへの行列は5時ごろから始まり、辺りが薄暗くなりかけの頃まで続いた。

©2017 MUZ

 

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