ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

156. オートキャンプ場の思い出

2019-09-01 | エッセイ

 セジンブラで蜂蜜祭りが開かれている。セジンブラの蜂蜜メル祭りということで、「ジンブラメル」というらしい。今日は大西洋に突き出たカーボエスピシェルに行く予定で、途中にあるセジンブラにも寄ってみよう。でもどこでやっているのかわからない。走っていて、目に付いたら寄ってみよう。

 ところが直ぐに見つかった。セジンブラのずっと手前にマッサンという村があり、広大な公園が整備されていて、その公園内で『ジンブラメル祭り』は開かれていた。

 そこにはかつてキャンプ場があったのだが、大型テントがびっしりと常設する、まるでスラム街のような雰囲気のオートキャンプ場になってしまって、その後、全面的に取り壊されてしまった。その跡地を市民の憩いの場、公園として改造され、家族連れなどがちらほらと利用している姿を見かけた。

 オートキャンプ場は旅行者には便利なものだが、使用料が安いのでいつのまにか地元の人たちが別荘代わりに陣取り、設置した大型のテントの中にはキッチン設備や寝室が整い、テントの周りには花壇を作っている。まるで第二の家で、週末にはやってきて近所付き合いが忙しいそうだ。そういうキャンプ場はほとんど空きがないから、旅行者の入る隙間がない。

 9月になると暑い日差しもいくぶん和らぎ、各地からの帰省客も出稼ぎ先に帰ってしまって、旅行者のクルマもぐんと減る。そうしたころにフランスやドイツ、北欧などからキャンピングカーを運転して老人たちが押し寄せてくる。オートキャンプ場には入る隙間がないから、彼らは風光明媚な広い空き地にクルマを停めて1週間ほど滞在する。アルガルベのサグレス岬の駐車場はこうしたキャンピングカーでいっぱいだ。クルマの外に椅子を出し、暑い日差しを浴びて日光浴で、気持ち良さそうだ。9月、10月といえば、かれらの本国ではもう雪が降っている日もある寒い季節だ。でもポルトガルは真夏の陽射し。天国だ。キャンピングカーにはキッチンもトイレもシャワーも付いているし、なかにはソーラーパネルを設備しているクルマもある。本国のTV ニュースなどもいつでも見られるのだろう。国道沿いには大型スーパーが幾つもあり、駐車場も広いから乗用車ではなく、キャンピングカーで直接買い物に行ける。そういう所でしばらく過ごし、また別な場所に移動してしばらく過ごす。あっという間に2~3か月が過ぎてしまう。

 実は私たちも20代のころスウェーデンに5年ほど住んでいて、大学の語学コースに入っていたのだが、大学の夏休みや冬休みになるとおんぼろワーゲンマイクロバスを駆り立てて、ヨーロッパ各地に旅行していた。1970年代のころだから、もうずいぶん昔の話だ。ワーゲンのマイクロバスの中を改造して、手作りのベッドや食器棚を備え、ドイツ、ベルギーなどを回り、フランスに到着。パリに3か月滞在。その間、ブローニュの森にあるキャンピング場と、バンサーンの森のキャンピング場と移動してフランス語の学校に通った。オートキャンピング場にはコインを入れるとお湯が出るシャワーがあったが、お湯が出るはずなのだが熱くはない、ぬるい水のようなシャワーで、しかも5分ほどで止まってしまった。そんなシャワーを浴びながら1月、2月、の最高に寒い冬を過ごした。クルマの中は寒かったが、友人夫婦が使っていない石油ストーヴを貸してくれたので暖かく過ごし、夜は布団と羊のアフガンコートを被って寝た。バンサーンのオートキャンプ場には一角にジプシーたちが住んでいたがなんの問題もなく過ごした。

 その後パリを出て、スペインに向かう途中、モンサンミッシェルを訪れた後、ナントの郊外で急に私が病気になった。周りは畑ばかりで、ビトシが探し回って近くの村に医院を見つけたのだが、少し走ったら大きな病院があるので、そこに行けという。その町がアンジェだった。その病院に5日間入院したのだが、病気は一日で回復して退屈だったが念のため検査をすることで引き留められた。その病院は大学病院だったらしく、毎朝10人程の学生を引き連れた教授が回診にやってきた。アンジェに来た時は、私は腹痛で転げまわっていたのだが、退院後に町のお城や美術館を訪ねて驚いた。小さな美術館には膨大な数の浮世絵とその版木までもがたくさん保管されていたのだ。

 ボルドーを経てピレネー山脈を越えてスペインに入ると辺りは春満開。道端には矢車草が咲き乱れていた。花畑の中でイスとテーブルを出して、昼食。爽やかな風と暑い陽射し。凍っていた身体がどんどん軽くなった。ところがキャンプ場が見つからない。ようやく見つけた看板を目指して走るのだが、行けども行けども見つからない。とうとうビーチにたどり着いた。でもそこは料金を取るだけで、なんの設備もなかった。1970年代のころなので、スペインではフランコの時代、キャンピング場などなかったのだ。もちろんポルトガルはサラザールの独裁政権時代。ポルトガルにはビザなしではたったの3日間だけしか滞在できないということで、諦めた。そしてジブラルタル海峡を渡り、スペイン領のセウタからモロッコに行った。

 モロッコのオートキャンプ場は周りを高い塀で囲まれ、銃を持った警備員がガードしている、あとで思うと、まるで刑務所の様なところだったが、安心して眠れた。クルマの保険が切れるというのでモロッコには一週間しか滞在できなかったのが、残念だった。マラケシュのオートキャンプ場では頑丈なジープに乗ったフランス人やオランダ人たちと話をしたが、彼らは山岳地帯まで行って、宝石の原石などを採取したという。私も見つけた。キャンプ場で10センチほどの柱状の結晶を。でもたぶん彼らが捨てて行ったものだから、なんの価値もないのだろうと思ってそのままにしておいた。このごろニュースで、最大のダイヤの結晶が見つかったという。その映像はマラケシュで見たあの結晶とそっくりだ。ひょっとして、あれはみんなが見逃した原石だったのでは?

 

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