おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎十八番うち、『外郎売』。市川海老蔵(現:十三代目 市川團十郎 白猿)、勸玄(現:八代目市川新之助)。

2023-07-04 18:45:07 | 歌舞伎鑑賞教室

歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。

  1. 勧進帳(かんじんちょう)
  2. 助六(すけろく)
  3. 暫(しばらく)
  4. 矢の根(やのね)
  5. 毛抜(けぬき)
  6. 鳴神(なるかみ)
  7. 不動(ふどう)
  8. 外郎売(ういろううり)
  9. 押戻(おしもどし)
  10. 景清(かげきよ)
  11. 解脱(げだつ)
  12. 不破(ふわ)
  13. 象引(ぞうひき)
  14. 七つ面(ななつめん)
  15. 関羽(かんう)
  16. 嫐(うわなり)
  17. 蛇柳(じゃやなぎ)
  18. 鎌髭(かまひげ)

歌舞伎十八番は、7代目市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】によって1832年(天保【てんぽう】3年)に定められました。初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた18の作品を集めたものです。
 その内容は、一番新しい作品でも当時から50年も前に上演されたものでした。そのため、先祖の團十郎が得意にしていたことはわかっていても、作品の中味がはっきりしないものも多く含まれています。例えば、『関羽【かんう】』や『蛇柳【じゃやなぎ】』などです。これらの作品は、後に復活されていきます。
 代々の團十郎は荒事を最も得意としたため、歌舞伎十八番の役はほとんどが荒事です。

歌舞伎十八番が制定されたのは江戸時代の天保3年(1832年)の3月に、七代目市川團十郎によって「歌舞妓狂言組十八番かぶききょうげんぐみじゅうはちばん」(伎ではなく妓)が発表されたことが起源となっています。

当時から江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家ですが、七代目團十郎はさらに権威を高めたいと考えました。

そこで息子に八代目市川團十郎を襲名させるのに合わせて、市川家が代々得意としてきた17の演目に七代目自らが始めた「勧進帳」を加えた18演目を「歌舞妓狂言組十八番」という名称を付けて世間に公表したのです。

これは市川團十郎家が代々演じてきた荒事の「家の芸」というものを改めて世間に認識させ、はっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもありました。そしてその狙いは功を奏し、今では「歌舞伎十八番」という名称で市川團十郎家のお家芸として広く知られるようになりました。

得意なことを「十八番(おはこ)」というのは歌舞伎十八番から?

市川團十郎家にとってなくてはならないお家芸として制定されたのが歌舞伎十八番です。

この18演目は箱に納めて封印され、安易に披露するものではないとされたので、そこから「おはこ」と呼ばれるようになり、後に得意なことを「十八番(おはこ)」と表現するのはこれが起源だという説がありますが、これは間違いです。

この件について演劇評論家の赤坂治績氏は以下のように指摘します。

「おはこ」という読み方は歌舞伎十八番が制定された天保3年(1832年)以前から使われていた。・・・(中略)・・・台本を木の箱に入れて取っていたという説も無意味である。江戸時代は3年に一度くらい大火があった、・・・(中略)・・・火事になれば箱も台本も燃えてしまう。

「おはこ」とは本来は美術品などの鑑定書を、その箱の蓋に貼って本物だと証明していた「箱書付」が略されたものであり、「正しいと認定された」という意味で使われていました。

歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、段々と「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになり、意味も「得意芸」というふうに変わっていったのではないでしょうか。

(この項、「」HPより)

その一つ、外郎売(ういろううり)

外郎売は、実は曽我の五郎時致です。
 大磯の廓で酒宴を張る工藤祐経のもとに、小田原名物の外郎売に身をやつした五郎がやってきます。兄、十郎祐成と共に父の敵である祐経を討とうとつけ狙っていたのです。
 素性を隠して外郎の商いを始めた五郎は、隙をついて祐経を討とうとするものの止められてしまいますが、祐経は曽我兄弟の親を思う気持ちに心打たれ、後日改めて勝負することを約束するのでした。

第一節

拙者親方せっしゃおやかたと申すは、お立会たちあいうちに、御存ごぞんじのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方にじゅうりかみがた相州小田原一色町そうしゅうおだわらいっしきまちをお過ぎなされて、青物町あおものちょうを登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門らんかんばしとらやとうえもん只今ただいま剃髪致ていはついたして、円斉えんさいと名のりまする。

元朝がんちょうより、大晦日おおつごもりまで、お手に入れまする此の薬は、昔ちんの国の唐人とうじん外郎ういろうという人、わがちょうへ来たり、みかど参内さんだいの折りから、この薬を深くめ置き、もちゆる時は一粒いちりゅうずつ、かんむりのすき間より取り出だす。

よってその名を帝より、透頂香とうちんこうたまわる。即文字すなわちもんじには「いただき、く、におい」と書いて「透頂香とうちんこう」と申す。

只今はこの薬、ことほか世上せじょうひろまり、方々ほうぼう偽看板にせかんばんだし、イヤ、小田原おだわらの、灰俵はいだわらの、さんだわらの、炭俵すみだわらのと、いろいろに申せども、平仮名ひらがなをもって「ういろう」と記せしは、親方円斉おやかたえんさいばかり。

もしやお立会いのうち熱海あたみ塔の沢とうのさわへ、湯治とうじにお出なさるるか、または伊勢御参宮いせごさんぐうの折からは、必ず門違かどちがいいなされまするな。

のぼりならば右のかた、おくだりなれば左側、八方はっぽう八つ棟やつむねおもて三つ棟みつむね玉堂造ぎょくどうづくり。

破風はふには菊にきりとう御紋ごもん御赦免ごしゃめんあって、系図けいず正しき薬でござる。

第二節

イヤ最前さいぜんより家名かめい自慢じまんばかり申しても、ご存知ぞんじない方には、正身しょうしん胡椒こしょう丸呑まるのみ、白河夜船しらかわよふね、さらば一粒食いちりゅうたべかけてその気味合きみあいをお目にかけましょう。

先ずこの薬をかように一粒舌いちりゅうしたの上にのせまして、腹内ふくないおさめまするとイヤどうも言えぬは、しんはいかんがすこやかになりて薫風候くんぷうのどより来たり、口中微涼こうちゅうびりょうしょうずるがごとし。

魚鳥ぎょちょうきのこ麺類めんるいの食い合わせ、その外、万病速効まんびょうそっこうある事神ことかみごとし。

さて、この薬、第一の奇妙きみょうには、舌のまわることが、銭独楽ぜにごまがはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢もたてもたまらぬじゃ。

第三節

そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。

アワヤのど、サタラナぜつに、カ歯音しおん、ハマの二つはくちびる軽重けいちょう開合かいごうさわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろお。

一つへぎへぎに へぎほし はじかみ、盆豆ぼんまめ 盆米ぼんごめ ぼんごぼう、摘蓼つみたで 摘豆つみまめ 摘山椒つみさんしょう書写山しょしゃざん社僧正しゃそうじょう粉米こごめ生噛なまがみみ 粉米こごめ生噛なまがみみ こん粉米こごめ小生噛こなまがみ、繻子しゅす緋繻子ひじゅす繻子しゅす繻珍しゅっちん、親も嘉兵衛かへい 子も嘉兵衛かへい、親かへい子かへい 子かへい親かへい、古栗ふるぐりの木の古切口ふるきりぐち雨合羽あまがっぱ番合羽ばんがっぱか、貴様の脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、我等が脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、しっ皮袴かわばかまのしっぽころびを、三針みはりはりながにちょとうて、ぬうてちょとぶんだせ、河原撫子かわらなでしこ 野石竹のせきちく、のら如来にょらい のら如来にょらい のら如来にょらいのら如来にょらい

一寸先いっすんさきのお小仏こぼとけに おけつまずきゃるな、細溝ほそみぞにどじょにょろり。

京の生鱈なまだら 奈良生学鰹ならなままながつお、 ちょと四五貫目しごかんめ、お茶立ちゃたちょ 茶立ちゃたちょ ちゃっとちょ茶立ちゃたちょ、青竹茶筅あおたけちゃせんでおちゃちゃっとちゃ。

第四節

来るは来るは何が来る、高野こうやの山の おこけら小僧こぞう狸百匹たぬきひゃっぴき 箸百膳はしひゃくぜん 天目百杯てんもくひゃっぱい 棒八百本ぼうはっぴゃっぽん

武具ぶぐ馬具ばぐ・ぶぐ・ばぐ・ぶぐばぐ、合わせて武具ぶぐ馬具ばぐぶぐばぐ、きくくり・きく・くり・三菊栗みきくくり、合わせてきくくり六菊栗むきくくりむぎ・ごみ・むぎ・ごみ・むぎごみ、合わせてむぎ・ごみ・むぎごみ。

あの長押なげし長薙刀ながなぎなたは、長薙刀ながなぎなたぞ。

向こうの胡麻ごまがらは 胡麻ごまがらか、真胡麻まごまがらか、あれこそほんとの真胡麻殻まごまがら

がらぴいがらぴい風車かざぐるま、おきゃがれこぼし おきゃがれ小法師こぼうし、ゆんべもこぼして 又こぼした。

たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干いっひだこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食わぬ物は、五徳鉄灸ごとくてっきゅう かな熊童子ぐまどうじに、石熊いしぐま 石持いしもち 虎熊とらぐま とらきす、中にも東寺とうじ羅生門らしょうもんには、茨木童子いばらきどうじがうで栗五合くりごんごうつかんでおしゃる。

頼光らいこう膝元去ひざもとさらず。

第五節

ふな金柑きんかん椎茸しいたけ、さだめて後段ごだんな、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍ぐどん小新発知こしんぼち小棚こだなの、小下こしたの、小桶こおけに、こ味噌みそが、こるぞ、小杓子こじゃくし、こって、こすくって、こよこせ、おっと合点がってんだ、心得こころえたんぼの川崎かわさき神奈川かながわ程ガ谷ほどがや戸塚とつかは、走って行けば、やいとをりむく、三里さんりばかりか、藤沢ふじさわ平塚ひらつか大礒おおいそがしや、小磯こいその宿を七ツ起ななつおきして、早天早々相州小田原そうてんそうそうそうしゅうおだわらとうちんこう、かくれござらぬ貴賎群衆きせんぐんじゅの、花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心を、おやわらぎやという。

産子うぶこう子に玉子まで、外郎ういろう御評判ごひょうばん、ご存知ないとは申されまいまいつぶり。

角出つのだせ、棒出ぼうだせ、ぼうぼうまゆに、うすきね・すりばち、 ばちばちくわばらくわばらと、羽目はめはずして今日こんにちでの何れも様いずれもさまに、上げねばならぬ売らねばならぬと、息勢引いきせいひっぱり、東方世界とうほうせかいくすり元締もとじめめ、薬師如来やくしにょらい上覧しょうらんあれと、ホホうやまって、ういろうは、いらっしゃりませぬか。

※滑舌の練習としても重用されています。

2019年。歌舞伎座「七月大歌舞伎」、昼の部の『外郎売』の特別ポスター。市川海老蔵、勸玄親子の競演。当時、大きな話題となりました。

  

歌舞伎十八番の内『外郎売』は、成田屋の家の芸。海老蔵の外郎売と堀越勸玄の貴甘坊の後ろには、成田屋の家紋である三升が大きくあしらわれ、親子で同じポーズを決めています。勸玄の貴甘坊は、キリッと引き締まった表情に、しっかりと足を踏ん張り形を決めていますが、どうやら三升が銀色で、勸玄もはにかんだ表情の別バージョンが存在するそう。

 海老蔵にとって『外郎売』は、昭和60(1985)年5月歌舞伎座で、七代目市川新之助として初舞台を踏んだ際に演じた演目。その時は父である十二世市川團十郎が外郎売、当時新之助の海老蔵が貴甘坊を勤めました。来年に十三代目市川團十郎白猿の襲名、八代目市川新之助としての初舞台を控えた海老蔵、勸玄親子が、襲名披露に先立って『外郎売』に挑みます。劇中では勸玄の貴甘坊が早口言い立てを披露します。ぜひ劇場でご覧ください。

(この項、「」HPより)


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