『川合義虎君』 相馬 一郎 (読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)
川合義虎君 相馬 一郎
川合君は鉱山坑夫を父に持って、明治三十五年足尾銅山のむさくるしい坑夫長屋に、短い二十二年の生涯の産声をあげた生粋のプロレタリアである。
君の父が明治四十年の暴動事件に連座して未決監につながれた時、母に手を引かれて鉄窓の父に会った印象は後年の思想に大きな影響を与えた。
転々として坑山から坑山へと渡る生活は坑山坑夫の常である。坑夫の子の君は殆ど流浪の旅をつづけて安住の地を得なかった。蒼白い顔をした地下奴隷のむらがる坑山こそは、幼時の君の世界のすべてであった。
不逞労働者の罪名の下に、君の父が足尾銅山を追われて、遠く秋田でカンテラを腰にした椿鉱山は、日本海に面した詩的情味の豊かな所で、川合君の小学校時代はここで過したのである。
君は十四才の時、またしても椿を後に茨城の日立鉱山へ移った。
日立鉱山は社会運動者としての君の誕生地である。坑夫を父にもつ君と僕は、当時から極めて親密な仲となってよく周囲の人々から羨望の眼をもってみられてきた。
大正七年小学校を卒えた君は、坑山附属の鉄工場へ旋盤小僧にはいった。油服を着て機械の前に立つことは、親孝行な君をとても喜ばせた。君の工場へ行く姿を見送って喜ぶ両親の声をききながら、愉快そうに君は口笛を吹いて忠実に通勤したものだ。
その頃洪水の如く全国に漲(みなぎ)り渡った社会改造の潮は、聡明なそして感激性の鋭敏な君をジットさせてはおかなかった。
大正八年秋、熱狂せる数千の坑夫に擁せられて、友愛会の鈴木文治、麻生久、棚橋小虎氏らが組合運動宣伝に来山した。そして資本主義の横暴をあばき労働者の団結を説き立てた時、正義に対する火の如き熱情を抱く川合君はほとんど狂せんばかりの感激をもって、勇ましい労働運動者、正義の使徒の姿にあこがれ『今ぞ俺等の起つべき時だ』 君はこう叫んで会社の警戒線を突破して坂路一里の夜を演説会場へと通ったのであった。
会社は組合員なるが故に友愛会に加盟した坑夫は即刻馘首下山を強要した。蒼ざめた顔をうなだれて囚人の如く追立てられ下山して行く幾十人の坑夫の姿を、君は黙々として見送っていた。そして『俺はこの事実を忘れてはならぬことを誓う』と強く胸にきざみつけた。
全国に蜂起するストライキの報道と東京における労働運動者の活躍は、強烈な感動をそそって君の胸をついた。『東京へ行きたい』 君のこの宿望がかなって大正九年九月、坑夫たちと別れを惜んで復仇戦の門出に立った。
上京後、日立鉱山での先輩岡陽之助君を訪ねその紹介で高津正道君らの暁民会に入った。田舎出の君には大学生らと同席して語りあうことは光栄と思われた。しかし君はそれらのインテリゲンチヤに迎合することはしなかった。そして難解な新奇な熟語で書かれた新思想の雑誌図書を根気よく読みふけった。
何事にも大胆な君はその年の十二月六日早稲田の八千代クラブにおける社会問題講演会で、角帽の大学生の前で、鉱山生活の悲惨と資本主義の暴戻を罵り『私はこうした事実を眼前に見た時、この社会組織というものを何とかしてやりたくなったのです』 と結び非常の拍手を送られた。だがこの演説のため就職先を首切られたのであった。これと前後して、アナーキスト加藤一夫君の「破壊の連続の哲学」という講演をきかされて君の思想はますます左傾化していった。
この年十二月社会主義同盟大会があることを耳にした時、君は小躍りして会場の青年会館へと急いだ。社会主義をまだ充分に理解しなかった君も、官憲の『中止解散』の暴圧的態度に拱手傍観は出来得なかった。情熱焼くがごとき君のことだ。どうしてある種の行動に出ることを我慢しておられよう。
上京後わずか三ヶ月の十二月十五日君は市ヶ谷監獄に鉄窓を友にしなくてはならなくなった。翌年四月若い田舎出の川合君は前科者の焼印を捺されて在獄五ヶ月の反逆者製造所の門を出た。
自由人、労働者、五月会というアナキスト系サンヂカリズムの団体に君は転々として移り、混乱の頂にあった当時の思想の波にゆられて放浪生活を送っていた。しかしこうした裡(うち)にも真面目の君は事実の直視と、理論の研究を怠らなかった。『俺は共産主義者だ』 この自信と決定的態度を言い切ることはアナキスチックな団体、個人に深い関係を持っている当時の君には大胆な行為であった。次第に狂操的アナキスチックな言動から遠ざかっていった君は、熱心にボルシェヴィズムの立場から労働者大衆の組織化を計画していた。翌十一年一月亀戸に移り、両親と妹を呼び寄せて家庭的には普通の労働者を装って、病身の妹をいたわりつつ工場通いをした。
同年五月君の父は、君の前途に心を痛めつつ資本主義の餌食となって淋しく逝去した。その一生をモグラの如く地下で虐使され、淋しく死んだ父の冷たいむくろを前にした時、君の思いはどんなであったろうか。
このような状態と経済的窮乏の裡(うち)にも君は実際運動への衝動抑えがたく、父の死後旬日を出でずして同宿せる北島吉蔵君と共に労働組合組織の計画を進めていた。
間もなく亀戸にマルクス主義を熱心に研究しているグループの存在を知って、これらの人々に提携を求めた。渡辺政之輔、安田貫志、佐々木節君らのマルキストのグループであった。川合君はこれらの人々の存在に百倍の勇を得て、南葛労働会の創立委員ともいうべき人々を集めて、共産主義の実際的運動を研究しあった。 計画的に着々と進められたこの研究会は、 十一月七日ロシア大革命五周年を機に南葛労働会の創立を宣言した。この間の君の献身的活動は非常のもので南葛労働会創立の産婆役ともいうべきものであった。組合員としての君は文字通り昼夜の別なく奔走して倦むことを知らなかった。
君の快活な活動は若い組合員に強い感銘を与えずにはおかなかった。理事としての君はその責任観念強く、緊急要件の突発の時は、深夜戸を叩いて意見の交換を要求する事も稀でなかった。こういう率直な君の性格は、あたりかまわずグイグイ事をやってゆかねば承知できなかった。
若くしてよく組合員の信望を得てその指導的地位に立って事柄を敏速に運んでゆく君の行動は同志の者の斉しく敬服するところであった。『我々はまづ思想的に支配階級の教化から独立しなくてはならぬ。労働者の把握せる労働者自身の知識は階級闘争の武器である』君は口ぐせのようにこういって、自分自身の勉強を怠らなかったと同時に、組合員の知的開発に力を注いだ。研究会、演説会、読書会等への出席を勧めることをうるさい程すすめた。
君の晩年は青年労働者の組織的、思想的運動であった。ある時は舌に、ある時は筆に、君は驚くべき精力をこの青年運動の分野に傾注した。ああした死を予想していたかと思われる程の決死的努力をもって組合運動の暇をとらえては地方へも出かけ、農村青年の無産階級陣列への集団的参加を宣伝した。
川合君 ! 君の短い生涯の運動史を貫くものは真摯なる不断の献身的努力であった。『労働者階級解放のために』 この一句は実に君を勇敢に行動させる至上命令であった。『汝の担う銃を逆に』 君の叫びは軍隊の青年兵卒に達するには軍国主義の壁は厚かった。そして君は二十二才の若い共産主義労働者としての生涯を軍国主義者の銃剣によって閉ぢた。
川合君 ! 君の肺腑を貫いた同じその銃剣の光が敵陣にひらめく時も遠い将来ではあるまい。僕らは生きている。生き残って君の遺志をついで最後の血汐の一滴まで闘うことを誓うものだ。
(『潮流』第一号(大正十三年四月)所載、「社会運動犠牲者列伝 (一)」)