↑ 画面を最大化してお読みください。服部製作所会社側ビラ(1926年5月23日)
「会社のビラ」紹介! 服部製作所争議 1926年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
(豊島合同労働組合)
1926年(大正15年)、東京西巣鴨の株式会社服部製作所は労働者234名で、その内女性4名、朝鮮人労働者40名が働いていた。鉄道用ポイントなどを製作する工場で、日給8時間制の機械部、仕上部、旋盤部等、各職場は、親方請負制度で各部ごとにいる親方の元に労働者が雇われていた。
4月21日、事業不振を理由に朝鮮人労働者2名をクビにしてきて、怒った2名は豊島合同労働組合に加盟し、2名に有利な解決をした。それを見た工場の事務員杉田健は、豊島合同労働組合に共鳴し、同組合に加盟、職場内の労働者に熱心に組合づくりを呼び掛けはじめた。あせった会社は4月27日杉田に対し「辞職勧告」をしてきた。しかし、杉田はほどなく約50名の労働者と団結し組織化に成功した。労働者は5月20日、会社に以下の嘆願書を提出した。
嘆願書
一、親方下請け制度の廃止
一、臨時雇用制度の廃止
一、賃金の3割増給
一、残業一時間につき時給の5割増
一、公傷は日給の全額支給
一、私傷病は半月以上の欠勤者には日給の半額支給
一、医務室、浴場、食堂、脱衣所の設立
一、出張手当(旅費も)の支給
一、扶助規定の設定と公表
一、食事時間、休息時間を8時間内に繰り込むこと
一、兵役期間は継続し、短期のものは日給の全額支給
一、最低賃金の確定
一、工場規則の改正
一、毎年、年2回の昇給の実施
一、本要求提出により絶対犠牲者(解雇)を出さぬ事
大正15年5月20日
(争議基金)
5月21日、労働者は各自日給の一日分を提出し、争議基金とした。
(抗議の自殺未遂事件)
会社は組合を切り崩す目的で組合員4名を事務室に呼び組合脱退の圧力をかけた。その最中、4名の中の一人の労働者が出刃包丁で割腹自殺(未遂)をはかった。翌日の時事新報朝刊に「仲間に裏切られ争議職工自殺」の記事が載った。会社の圧力で動揺した仲間たちが、組合を裏切ろうとしたことに怒っての仲間への抗議の自殺だった。又卑劣な会社なやり方への怒りでもあるだろう。
(23日、服部分会結成)
争議必至とみた労働者は、23日、急遽、服部製作所労働者234名中、約150名で「豊島合同労働組合服部分会」結成大会を挙行し、ストライキの為の組織固めを行った。分会役員10名を選出したが、その内の一人は朝鮮人労働者李徳春であった。結成大会では、経過報告や組合員発言が会場にいる臨監警察官により何度も「弁士中止」させられた。これに怒った組合員が官憲に抗議すると今度はそれを理由に大会自体が解散させられた。
(会社の態度)
5月23日朝、会社は出勤する労働者に上の写真のビラを配布した。
「経営者も労働者も同じ鍋でメシを食べている。まず鍋(会社)を守ろう、大きくしよう。鍋(会社)がつぶれたら元も子ない」
この「同じ鍋論」「同じ釜論」は、今も昔も経営者が労働者を脅す得意とするところである。同じ鍋でも、うまい肉は資本家が食べ、労働者は残りのネギや汁ばかり。なにより事業不振だからと労働者はクビにして鍋の外に追い出しておきながら、今さら〈同じ鍋〉論はないだろう。
この間、このブログで戦前労働者の側のビラを幾つか紹介してきたが、せっかくなので戦前1926年の資本家・経営者側のビラも紹介することとする。たまには彼らの言い分が100年前も今もいかに欺瞞的か、じっくり読むのも悪くはない。ぜひ全画面にしてお読みください。
(会社回答)
24日、会社から回答があった。
回答
一、親方下請制度は廃止する
一、臨時雇用制度は臨時職工の年限により遂時改正する
一、最低賃金確立は、人夫と職工とを区別し相当に決定する。ただし、見習いと徒弟及び女工は除く
一、工場規則の改正は直は困難
一、公傷療養中の日給を今までの半額から日給全額とする
一、年一回以上の昇給を実施する
一、脱衣場、食堂、浴場をすぐに建築に着手する
150名服部製作所の労働者が、敢然と豊島合同労働組合に団結し、闘う姿勢を固めたからこその大きな画期的前進であった。自殺(未遂)で抗議した一人の労働者の真剣さも大いに影響があったと思う。