埼玉紡績女工のはじめてのストライキ! 富士紡本庄工場争議 1927年労働争議(読書メモ)
参照「たたかいに生きて 戦前婦人労働運動の証言」鈴木裕子・渡辺悦次遍
「庄子銀助資料」(提供庄子正紀さん)
会社 富士瓦斯紡績株式会社本庄工場
場所 埼玉県本庄町
工場 朝6時~夕6時、夕6時~朝6時の12時間勤務1週間ごとの昼夜交代勤務制、女工437人、男工230人(1930年頃の大分の富士紡工場では朝鮮人労働者が一番多いときで400人ほどいた)
賃金 女工たちの得る賃金は、昭和2年当時で平均80銭、男工の半分以下。なかには40銭に満たぬものもいた
食事 一食が麦飯2杯と漬物二切れが普通で、魚などは年に数えるほどであった
労働組合 日本労働組合同盟関東紡績労働組合本庄支部200名(1927年5月3日結成)
ストライキ 1927年10月1日~10月25日
(富士紡小唄)
いつも精紡に糸の山
ローラーまたながめて目に涙
無理に切らすじゃないけれど
つなぐまたそばから切れていく
何を言うても役付きさ
お顔が悪うてプンプンと
やめて帰ろと思えども
借金だらけで帰られぬ
ここまではやったこの唄は
富士紡で働くあたしらの
悲しい悲しい物語
みなさん同情しておくれ
「労働組合結成に至る当時の女工たちの労働環境はどれほどのものだったのか、また労働運動の状況はどのようなものだったのだろうか?
紡績工場には、故郷を離れて遠くは北海道から東北、信州、新潟に至る小学校を卒業するかしないかの少女たちが、親に年期明けに支給される給与の一部を前借金させられてやってくる。桂庵(周施人)によって、年期契約を結ばされるのである。(前借金は、送り出された女工たちの家族の過酷な農村の貧困が原因となっている)
午前6時から午後6時までの二交代制による12時間労働のあげく、やっと得た賃金が全額女工たちの手に渡されることが無かったのは、前借金分だけではなく、寮費やら石鹸などを工場内で買えばその分を差し引かれている。(12時間労働は、労働時間11時間労働の深夜勤務禁止の法律が施工されるが、まったく効力はなかったようだ)
北海道から20歳で富士紡本庄工場にやってきた綿引クリさんは「賃金の明細は女工には教えず、勝手に天引きして、会社の方から親元に送金していた。わたしたちの手元に入るのは小遣い銭程度で、最初は月に1円50銭程度で、後に多くなった時で3円位でした」(綿引クリ氏談、1977年7月)と回想している。
ブログーある無名戦士の記~庄子銀助の軌跡をたどる~富士紡本庄争議② 組合結成から闘争、そして投獄
http://ginsuke647.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
(庄子銀助ー「庄子銀助資料」より)
庄子銀助は、1902年宮城県柴田郡村田町の貧農の五男として生まれた。1923年4月20歳の庄子銀助は、富士紡保土ヶ谷工場に製綿工として入社、9月の大震災による工場全壊で埼玉本庄工場に転勤。富士紡本庄工場全従業員800余名の多くは女性で占めていた。女性たちは北海道、東北、新潟、長野などの貧しい農村から、前借金何十円で身売り同然の姿でやってきた人ばかりで、「小学校卒業ですぐやってくる子や、中には12歳未満のものも会社は使っていた。県などから調べにくるとその子らを隠していた」(庄子銀助談)。
1924年5月東京の第五回メーデーにひとりで参加、影響を受けた庄子銀助は本庄工場内に親睦団体「工友会」を作り、女工の組織化に着手。茶話会、遠足、運動会などを通じて着実に「工友会」の仲間を増やした。
(解雇撤回闘争に勝利)
会社は1926年12月、30数名の解雇を発表、庄子銀助ら工友会は関東紡績労組の支援のもと、解雇撤回闘争を闘い、30名の復職を勝ち取った。翌27年5月3日、日本労働組合同盟関東紡績労働組合本庄支部発会式が開催され、庄子銀助は幹事長(のちに支部長)となる。本部より麻生久組合長、岩内善作主事などが列席し発会式は盛大に行われた。警察の弾圧も厳しく、20歳未満の者は発会式会場への入場を阻止された。しかし、この直後から組合員は急激に増加し、全従業員800余名のうち200余名が本庄支部の組合員になった。
(1927年争議)
争議は、組合員の増加に恐れた会社が、組合の中心的活動家の庄子銀助を9月22日に解雇したことからはじまった。本庄支部はストライキを決断して、職場でスト呼びかけのビラを配布した。会社はさらに2名を解雇してきた。当時埼玉における紡績・製糸労働者は3万人といわれ多くの女性が働いていた。富士紡本庄工場のストライキは、埼玉県下紡績女性労働者初のストライキであった。
本庄支部要求
一、解雇職工の復職
二、健康保険証を本人に手渡す事
三、賃金一割値上げ
四、食事の改善(国産米7分、麦3分)
五、食堂の通路に廊下をつくる事
六、面会所及び休憩室設置の事
七、疾病患者の休養所設置
八、夜間も医師を置く事
九、夜間手当二割増
十、健康保険料は全部会社負担の事
十一、庄子銀助本庄支部長の復職、もし容れらざれば解雇手当を充分に支給する事(約200円位)
(決起)
10月1日夜明けの午前4時、組合員20数名が工場の塀を乗り越え配電盤のスイッチを切った。これを合図に寄宿舎と夜勤中の女工90名は「火事だ、火事だ」と叫びながら皆で門を破って表に飛び出した。女工たちは隊列を組んで町中を整然とデモ行進をし、神保村水平社同人岩田一太郎宅に集合して気勢を挙げた。しかし、ほどなくして埼玉中から動員された何百名もの警察部隊が襲い掛かってきた。たちまち男の組合員は庄子銀助ら数十名が検束され、女性たちは全員が工場に暴力的に連れ戻されてしまった。数日後には関東紡績労組本部の岩内善作らも検挙され、庄子銀助、岩内善作ら19人が建造物侵入、器物破損等で熊谷刑務所に収監された。
組合幹部の総検束と工場内の過酷な弾圧が続く中、女工らは相次いで組合を脱退させられ、数名を残して争議は10月25日敗北した。本庄支部の女工の活動家平井きぬと亀山みさら本庄支部幹部9名が解雇されてしまった。
10月25日の協定書(下写真)
庄子銀助は、その後計64回もの獄に繋がれ拷問にあいながらも、日雇い労働者などの本庄自由労働組合の結成や1930年の東洋モスリン亀戸工場争議など幾つもの争議指導や農民運動、借家人組合運動などに奮迅した。1935年には治安維持法違反で検挙され、懲役2年で前橋刑務所に収監されている。戦後も埼玉県職員労働組合結成、2.1ゼネスト、安保闘争、住民運動・・・等数々の活躍をした。
(岩内善作について)
岩内善作は1889年(明治22年)12月16日、新潟県三島郡日越村(現長岡市)の農家に生まれ、1917年(大正6年)上京、亀戸のセルロイド工場で働き、渡辺政之輔らと新人会に加盟、19年に新人セルロイド組合、友愛会に参加した。1920年12月友愛会日暮里支部を秋生秀蔵らとともにつくり支部長に就任。一方郷里の中越小作人組合結成に尽力、22年の日本農民組合創立大会では理事に選ばれた。労働、農民運動のかたわら、日暮里キリスト教社会事業団愛隣団のセッツルメント活動にも参加し、地域の貧しい人々の子供たちにセルロイド加工の技術を教えたりした。愛隣団でとみゑさんと知り合い結婚した。また、愛隣団の中に城北労働学校を開設し多くの若い労働者が学んだ。
1923年(大正12年)総同盟城北労働組合連合会を結成、25年西部労働組合と合同し、関東合同労働組合を結成し主事となった。
1926年1月総同盟関東紡績労働組合を結成し主事に就任、紡績労働運動に専念した。機関誌『正義の光』の編集、発行、またパンフレット『女工さんに贈る』などを著した。この年、吉原から逃亡した春駒が柳原白蓮のもとに駆け込んで助けを求め、岩内善作が助けて春駒の自由廃業が実現した。春駒は1926年『光明に芽ぐむ日』、1927年『春駒日記』を出版した。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/cd7b3c7a0dca2bf0a198f552739caa12
1926年7月東京府下吾嬬町亀戸の東京モスリン紡績株式会社亀戸工場の大量食中毒事件がきっかけで勃発した東京モスリン亀戸工場の争議で総同盟関東紡績労働組合主事岩内善作が参謀となった。
3,500名の大遠足会東京モスリン亀戸工場スト 1926年の労働争議(読書メモ)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/1b7274c4b96469e9e298d0f715a0bbff
同年10月、岩内善作は総同盟中央委員に選ばれたが、総同盟第二次分裂で組合同盟(日本労働組合同盟)に参加した。12月には中間派無産政党日本労農党中央委員に就任。27年組合同盟に参加した関東紡績労組を改組して、日本紡績労働組合を結成、引き続き主事に就任。27年には組合員8,300人を擁する大組合となった。富士紡本庄工場でも組合が結成され、その争議の応援で岩内善作は検挙され熊谷刑務所に収監された。27年6月の衆院補欠選挙欠選挙では、埼玉から立候補し、富士紡本庄工場の女子労働者の献身的な応援を受けたが落選。戦後は日本ベトナム友好協会東京都連合会理事長などを就任した。1984年6月24日死去、享年94歳。
以上