芝浦製作所鶴見工場1,300名ストライキ 1927年の労働争議(読書ビラ)
写真・争議団ビラ1 争議団ビラ
参照「協調会史料」
「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃
芝浦製作所(現東芝)
芝浦製作所本社 1,550人(女120人)
鶴見工場 1,300人(女100人)
1925年鶴見海岸埋立地に敷地10万坪を越える大工場芝浦製作所鶴見工場が建設された。芝浦製作所にはもともと1921年頃からアナキスト系の芝浦労働組合があった。1925年7月の争議とその結果、その後評議会が労働者の信頼を得て、1926年秋には、芝浦労働組合から分裂した評議会関東金属分会が結成された。翌27年春には、鶴見工場1,300人のほぼ全員が評議会関東金属分会に組織され、評議会の中でも最強の労働組合と言われた。
(1927年7月芝浦製作所評議会関東金属分会総会議案)
一、労農党積極支持
一、反動的御用団体排撃
一、臨時工制度撤廃
一、給料袋改正(複雑な賃金体系なのに賃金明細記入が不完全)
一、京浜未組織労働者組織化について
一、請負締切日改正に関する件(請負締切日と常傭給締切日が相違し、賃金支払いに矛盾がでる)
一、工場代表者会議支持に関する件
一、健康保険料全額会社負担に関する件
一、救援委員会設置に関する件
一、二重賃金撤廃(監視用のタイムカード廃止、指定時間は労働者と協議の上決める事、差額手当は仕事給に繰り入れること、剰余時間全額を支給せよ)
一、消費組合設置に関する件
一、無産青年同盟支持に関する件
一、退職手当増額の件
一、定期昇給に関する件
一、18分休憩時間賃金支給の件
一、衛生設備改正ら関する件
(職場闘争と若者)
鶴見工場は職場闘争が活発であった。ほとんど毎日職場集会や研究会が開かれた。横暴な管理職や職制に対しては「おれたちの唯一の武器である集団攻撃」という直接的大衆闘争で立ち向かった。アメリカGE社と提携した新制度の労務管理方式会社への抵抗でもあった。この鶴見工場労働者の大衆闘争は職場内だけではなく、地域の争議支援でも同様であった。26年12月日本鋳造争議応援に鶴見地区3,000人の労働者が示威行動をしたが、その主力はこの芝浦製作所鶴見工場の関東金属分会であった。分会の主力は若者であった。無産青年同盟に組織された青年たちが各職場の核となって活躍した。
芝浦製作所鶴見工場労働争議
組合 評議会関東金属芝浦製作所鶴見工場分会
発生 1927年8月21日 終結11月20日
芝浦製作所鶴見工場では、1925年12月からアメリカGE社と提携していた。同社技師で生産管理の専門家ワーレンが派遣され、工場労働のに新制度の労務管理方式を導入してきた。出来高払いの請負制度と時間管理を組み合わせた作業方式の徹底的労務管理だ。賃金はすべて時給として実働時間だけに支払い、休憩時間や仕事がない時には支給しない。そのために工場の各現場に監視用のタイムレコーダーを置き、労働者が現場を離れた6分以上の時間を、役付に記録させた(役付172人全員が組合には入っていなかったー伊藤晃)。
また、この会社の新制度の労務管理方式は、職場の熟練工の自負心を砕くやり方であった。熟練工である壮年労働者もこぞって会社に反発し、職場大衆闘争に決起した。
(鶴見工場争議の勃発)
1927年8月21日芝浦製作所鶴見工場において新制度の労務管理方式が続く中、残業を命じられた労働者の一人が労働災害にあい大怪我をした。組合は、なぜ適切に助けなかったのか、すぐに家族に知らせなかったのかと会社に抗議したが、会社は謝罪を拒絶したためサボタージュ闘争に入った。会社はこのサボタージュ闘争に対して賃金カットをしてきた。組合は抗議の残業拒否闘争を決めた。
1927年8月24日、現場の主任は工場労働者15名に対し残業を命じてきた。労働者は組合の決議により今は残業には応じられないと断っても、主任は残業をあくまで強要しようとしてきた。労働者15名はそのまま帰宅した。翌日、労働者代表3名が主任に面会を求め謝罪を要求したが、主任はこれを拒絶した。その日の正午から工場内各所で主任糾弾の演説が行われ、続いて制御装置工作場、鍛冶板金工作場の労働者全員が隊列を整え示威行動(構内デモ)で、他工場に行き、そこの労働者も次々とこのデモに参加した。労働者は労働歌を唱和し、工場中にその声を轟かせつつ、構内を練り歩いた。ついには主要動力のスイッチを切り、全工場1,300名全員がストライキに入った。
8月31日午後2時、会社は労働者59人に対して解雇通知をだし、翌日から59人の工場入場を拒んできた。
(争議団本部設置)
全従業員はただちに従業員大会を開き、18カ条の要求をもってストライキを決議、全員が工場を出て、争議団本部を潮田八軒町に置いた。
争議団は1,300名を6分隊に編成し、一分隊に10ー13班と分けた。警備隊、訪問係、宣伝隊等を決め、労働者は全員朝8時に争議団本部に出勤した。
(要求)
一、配当制度の改正
一、仕事給と差額手当を本給とすること
一、常傭者の賃金を2割値上げすること
一、勤続手当共済組合剰余金を即時払い戻すこと
一、大工道具は会社が支給すること
一、臨時工制度を撤廃すること
一、入営者、3ヶ月以上の召集者を解雇しないこと
一、定期昇給を年2回とすること ただし最低日額5銭以上とすること
一、解雇手当は最低3ヶ月を支給すること
一、勤続手当を一ヶ月3日分の割合に増額すること
一、健康保険料を全額会社が負担すること
一、公傷病の場合は百分の四十を会社にて支給すること
一、休憩時間中の賃金を支払うこと
一、真正時間制度を即時実施すること ただし現在の9時間の給料を八分にして時給とすること
一、最低賃金を制定すること ただし男250 女170
一、59名の解雇を取り消すこと
一、この争議に関し解雇者を絶対にださないこと
一、2時間の半分の賃金は勿論支給すること
(会社の攻撃)
会社は労働者側の要求を全面拒否する一方で争議団の切り崩しに全力を傾けた。鶴見工場を鉄条網で張り巡らし、照明塔と火の見やぐらを設置し、門前にはバリケードまで作った。会社周辺の草むらまで刈ってしまった。まるで野戦場のようだ。その上会社は、御用団体(会社の便衣隊)と廻し者を組織した。職制、社員、工長、私服スパイ、白服等々である。この連中を銭湯屋やめし屋や街頭に向かわせ、『会社は近く一斉に出勤命令をだして、その日にこない者を解雇するそうだ』などと言いふらさせた。
争議団の警備隊は会社の組合切り崩しに対抗するため、会社周辺の一丁くらいの所に警備所を配置し、会社への出入りを監視した。組合はよく結束して落ちついていた。しかし12日には25名の裏切り者ががスト破りをした。16日にはスト破りは131名になった。
「三井王国の狼狽」「見るもアワレな 会社のオヂケ振り」(ビラ)
(官憲の弾圧)
争議開始以来、警察は大動員し、組合幹部には2名づつの私服警官で常時尾行し、争議団本部や各隊本部や町々の辻々に至るまで、昼夜を問わない大警戒ぶりで、争議団の警備隊が路上に立つことさえ禁止し、争議団の労働者の家庭訪問もすべて検束する有様で、それは文字通り「検束に次ぐ検束」という有様であった。実に争議団の三分の一が検束されるというまさに常軌を失っした、かつてない弾圧であった。その上、官憲は芝浦争議団とその母体である評議会を物理的に会わせない戦術をとり、評議会の本部員が鶴見の地に来るやいなやすぐにその場で検束したので会社糾弾演説会すら開催できず、争議団は仕方なく独自に各隊ごとに読書会、研究会等で結束を固めた。
会社はコンナにして凡ゆる力を動員しているのだ
吾等の警備隊、宣伝隊、糾察隊よ
凡ての場所は吾等の戦場だ!
全面的に敵を攻撃せよ!
鶴見芝浦製作所争議団(ビラ)
(スト切り崩し)
スト破りを阻止するため争議団の警備隊約100名は鶴見駅と工場の途中でピケを張り、裏切者を説得した。ここでも多くの争議団警備隊が検束された。9月23日、会社は第二回解雇26名を発表した。解雇者は計86名になった。この日の夕刻から、会社は管理職職制を大動員して労働者の全家庭に押しかけて猛烈なストライキ切り崩しをはじめた。争議団がそれを阻止しようと近づくと警察がすぐに争議団を全員検束した。こうした会社、警察一体となった切り崩しの結果、スト破りは一挙に増えていった。
(一時的退却戦術)
争議団と評議会は、今のままでは組織壊滅は目に見えている。ここで争議を一旦休戦状態にしよう。惨敗宣言を出したり、要求を撤回したり、事実上の敗北協定を締結し争議を停止するのではなく、あくまで要求はかかげつづけながら、工場の中で職場闘争を継続し、組合を離れた仲間たちに再度の戦線復帰を働きかけよう。「力を残して敵のフトコロに突入し、戦場を街頭より職場に移した」(職場ビラ)と、解雇された者だけを争議団に残し、全員で工場内からの再起をめざした。現在獄に繋がれている多くの先進活動家も戻って帰ってくる。この「一時的退却戦術」を争議団の中で激論のすえ決定した。9月26日早朝争議団全員が隊列を組んで堂々と工場に出勤した。労働者の中には涙を流しながら入場した者たちも少なくなかったという。
(新たな職場闘争)
会社は労働者たちに「誓約書提出」を求め、駅から工場までの路上には警官が立ち並び、工場内にまで警官多数が入り、まるで監獄と化した職場の厳戒下で、争議再起に向けた秘かな職場活動が始まった。各職場にいる1、2名の非公然の連絡委員が、職場労働者の不満怒りを調査した。そして工場長・工長・職制の横暴、スト中の賃金未払い、争議団支持・反動団体排撃、配当制問題、6分間問題、不当首切り、賃下げ、獄則的就業規則、臨時工差別制度などへのアジテーションで、再び決起を呼び掛けた。職制の横暴には「集団攻撃」を! 賃下げには「10分間スト」を! 臨時工制度には「サボタージュ闘争」を! 等々多様な職場大衆闘争戦術を呼び掛けるビラが、秘かに工場内に持ち込まれ配布された。非公然の組織が工場内に再建されたのだ。
(職場の仲間は再び立ち上がった)
非公然の組合活動は再び仲間たちの心をとらえた。毎晩10数か所で各職場の茶話会が開かれた。それは全職場で60数回にわたった。これらの集会では、(1)争議再起、(2)裏切者の元凶排撃、(3)要求をあくまでかかげ続ける、(4)組合絶対支持再組織問題等の討議が熱心に行われた。横暴な職制への大衆的「集団攻撃」も工場のあちこちで再開された。
(警官の抜刀による暴圧! 迫害事件)
鶴見の兄弟ついに起つ
大示威運動を決行す
血迷った官憲抜剣して狂う
二人の労働者重症
(ビラ)
10月23日夕、数百名の労働者は、工場がひける時、工場の広場に全員が集合した。労働者は同僚の肩にのぼり熱烈な演説をし、官憲から禁止されていた「赤旗の歌」を歌いながら赤旗を先頭に工場内で一大デモンストレーションを敢行した。狼狽した警察は数十名の巡査で襲いかかった。血迷った官憲は抜剣して争議団にめった切りをしてきた。この血にくるった官憲により二人の労働者が重傷を負って倒れた。官憲は仲間たちを次々と拉致検挙する。目の前でこれをみた全労働者は憤激し、拉致された仲間と奪われた赤旗を奪還しようと巡査を包囲し襲い掛かった。「ヤッツケロ!」と口々に叫びながら投石し、巡査に怪我を負わさせた。この時の闘いで争議団幹部50名が検挙され検事に送られた。
こうして職場での闘いは再び暴力によって抑え込まれた。しかし、11月3日検挙されていた全員が釈放されると活動は再び活発になった。11月8日には工場内外で呼応した「横暴工長弾劾デー闘争」が闘われた。10日は「ピクニック」デモ。12日からは毎朝のビラまきがはじまった。11月15日には400名労働者による従業員・争議団合同大会が成功裡に開催された。組合費納入者の数も300名を越え、以前の四分の一になり、組合再建は完全に軌道に乗り、いよいよ争議再開が現実味を帯びてきた。
芝浦製作所従業員並びに争議団聯合大会
1927年(昭和2年)11月15日午後6時 横浜市潮田町潮田公会堂
全体で約400名(芝浦争議団約360名)
プログラム
タイムカード位置変更の件
健保議員選挙の件
赤国課に関する件
配当制に関する件
罷業中日額半額支給の件
分会充実に関する件
無産者新聞支持に関する件
御用団体排撃に関する件
労働会館建設に関する件
場長、工長の横暴の件
労農党工場班確立の件
臨時工撤廃に関する件
争議団支持に関する件
(争議解決)
会社と官憲による組合を力で壊滅させようとするねらいは、ついに失敗した。「(1920年、1925年の)前二度の争議の時のように争議団をペチャンコに抑えることもできなくなり、争議中の給料を貸し付けるという」会社側が譲歩する形で、11月20日に争議は終結した。
一、(解雇者)84名の手当2万4千円を支給す
二、争議中の日給の支給(無期貸出)
三、争議費用として三千五百円支給
など
解雇者の復職はかなわなかった。当初の要求も取れなかった。敗北は敗北である。しかし、当時のストライキでよく見る争議団が組織壊滅し、解雇手当獲得闘争に矮小化されていくそれら多くの争議と決定的な違いは、職場内で大衆闘争を闘う力を持ったままの労働者、それは官憲が「抜剣」で襲ってくるほど脅威と感じる数百名の組合組織、また11.15の大会に見ることのできる中身を確立し維持したままでの終結であった。
以上