写真上 赤池警視総監から水野内務大臣らに向けた「博文館争議」の報告(協調会史料)
写真下 1925年当時の共同印刷(旧博文館工場)
博文館印刷工場(現共同印刷)争議 1924年主要な労働争議⑩ (読書メモ)
参照
「協調会」史料(博文館印刷所事件)
「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
1924年の主な印刷所・新聞社・出版社争議は70社以上あります。新聞社争議は、東京朝日新聞社、報知新聞社三輪分局、ジャパンタイムズ社、伊予日々新聞社、東京日々新聞社、横浜経済日報、岡山日々新聞、徳島日々新聞、萬朝報新聞社、中央新聞社、国粋日々新聞社、横浜毎朝新聞社など全国に及んでいます。印刷・出版の争議は、東京の日清印刷所(スト参加数600名)、精美堂印刷工場(同700名)、博文館印刷所(同1,800名)などで、その中でも特に規模が大きい『博文館印刷所争議』を紹介します。
博文館印刷工場(現共同印刷)争議
共同印刷小石川工場の前身が博文館印刷工場(1778名、内女性344名)。のち1926年の大ストライキが、徳永直の小説『太陽のない街』のモデルとなったことでも有名な印刷工場。
震災以後、日ごろの会社のやり方に不満を高めた労働者は無断欠勤などを起こしていた。会社は震災と工場一部火災で人員が過剰となり労働者40名位をクビにする計画を考えていた。
1924年5月8日正午のサイレンを合図に印刷工場内の動力がストップし、印刷工全員が一斉にサボタージュ闘争に突入した。9日には、サボタージュ闘争は全工場に拡大した。前日は印刷工のみであったものが、この日は1662名の労働者が事実上のストライキを敢行した。労働者は新たに22名の代表を選出し以下の要求を決めた。
一、賃金3割増
一、残業はすべて5割増
一、女性と幼年工の残業手当10割増
一、徹夜の場合は24時間分の割増金を出す事
一、奨励割増金の復活
一、工員の一身上の変更については工員代表者を参加させること
一、衛生設備を完備すること
一、食事の改善
一、本争議の責任者として牧野工務部長を弾劾すること
一、この度の争議に犠牲者(解雇など)を出さないこと
10名の交渉員は、大橋所長に面会し回答を迫ったが物別れとなった。労働者は関東印刷労働組合(春日庄次郎)、印刷工聯合会の応援を受けた。
反総同盟系の組合も以下のビラを撒いた。
『要求を死守せよ!!
博文館の同工諸君は今その要求を掲げて資本家に迫りつつある。彼ら資本家は震災後世間でいうほど利益が上がっていないとか、先日の出火で損失があるとか言っているが、彼等は厳然たる資本家であり、富豪であるのだ。
諸君!! 諸君が非衛生的な工場で深夜業までして働いた血と汗で、彼等資本家は、好き勝手な生活をしいいるのだ。そして僅かな要求でさえ容れようとしない。
諸君!! 我々は労働者。生産機関を操縦しているのだ。我々が要求して容れられないことのある筈がない。 諸君! 要求を死守せよ!!
博文館罷工有志団
印刷工聯合会(信友会・正進会)』
10日、会社は警視庁の勧告を受けて、12日までの3日間の工場休業を発表した。闘いに参加していなかった機械課の労働者200名もこの日からストライキに合流した。労働者は工場前に集合し付近の空慶寺までデモを行った。
争議団は持久戦を覚悟し、争議資金を募るなどその準備に入った。
官報や官報系の諸雑誌のほとんどを博文館が印刷していたため、またこのままストライキが続くと多数の下請け製本業者の被る甚大損害が予想された。会社としては、一刻も早く争議を解決して就業を開始する必要に迫られた。
この夜、会社から以下の回答があった。
一、賃金と手当をそれぞれ1割増(計2割増)
一、残業全部の5割増は拒否、しかし徹夜業19時間は24時間として計算する
一、婦女・幼年工の残業は10割増は拒否、しかし、2時間以上は5割増とする
一、職工の一身上に関する場合は職工代表を参加させる
一、食事の改善の容認
一、衛生設備の改善の容認
一、牧野工場長は辞表を提出
一、本争議で犠牲者を出さない事容認
一、定期昇給年2回実施
以上の回答を受けて、争議団は、5月11日氷川下町広場で博文館従業員大会を開き、話し合いの結果会社回答を承認し12日からの一斉就業となった。この争議は各新聞社や精美堂や日本書籍にも飛び火する状勢となり、出版界に非常なる衝撃を与えた。