写真・1921年足尾銅山争議(上足尾銅山労働者の大デモ・下左4月大演説会のビラと会旗・下右4月12日解雇された家族大会)
足尾銅山ストライキ 1921年主要な労働争議③ (読書メモー「日本労働年鑑」第3集1922年版 大原社研編)
(参照)
「日本労働年鑑」第3集1922年版 大原社研編
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋
<鉱毒>
「白露も宿す、もとの草すらなく、赤く爛(ただ)れた岩石の破片で埋められた山、魚も虫さえも生き得ざる渡良瀬の毒流、精錬の大煙突から吐き出す亜硫酸ガスの黄煙、そうした生色のない足尾の天地には、あまりにまざまざと階級が対立している。彼らは資本主義組織の真実を知り、労働者の身の上をはっきり知るべく、選ばれて足尾に置かれたのであった」(「日本労働年鑑」38ページ)。
3 足尾銅山ストライキ。1907年(明治40年)の足尾大暴動の再来か!
足尾銅山(6,600人)の1919年のストライキは一応解決したが、1921年1月27日、会社は、再び飯場頭122名、役員20人を解雇してきたため炭坑労働者の誰もが大量解雇が近いことを知った。3月14日通洞において突発的ストライキが起きた。3月16日金田座において、全日本鉱夫総聯合通洞支部会員大会を開催、スト続行の賛否の投票を行い530対11という圧倒的多数でスト続行が決議され、以下の8項目の要求を決定した。
要求
第一条、団結権を認め、労働条件を組合と協議決定しろ。団結権とはすなわちストライキ権のことだ。資本家は資本家仲間同士で自由に「トラスト」を組織し勝手にやって好き勝手に工場を閉鎖したり労働者をクビにしてきている。甚だ不合理だ。
第二条、最低賃金を1日1円80銭とすること。
第三条、8時間制度の実施。現在、炭坑の入り口、坑口から現場までの往復時間は、1時間から2時間はかかり、会社は、この時間を労働時間として認めていないため、実際労働者は9時間、10時間の労働を課せられている。炭坑の入り口、坑口から計算する8時間制度を実施するべき。
第四条、勤続慰労手当を現在の5年から3年に改善すべし。
第五条、勤続慰労手当は、会社に雇われた時から勤続年数として数えること。
第六条、作業が原因の「ヨロケ」等の疾病者に対し、治療と扶助を行うこと。現在会社は作業上から発生した病気になんらの治療も救済をしていない、甚だ不合理である。
第七条、仕事上で骨折した場合、現在の付属病院には満足に治療できる医師がいない。仕事で骨折して不具になると一生悲惨な生活を強いられている。きちんと治療できる接骨医を入れるべき。
第八条、公休日にも本番賃金を支給すること。
1921年3月16日付檄文ビラ
「不景気襲来の名の下に我らはかなり苦しんできた、半死半生の瀬戸際まで追い詰められて苦しまされて来た。
非人道な資本主義の欲望に炎ゆるような心を今までは忍びに忍んで、かすかな露命のみを繋ぎながら今日まで生きてきた。細り行く妻や子供の面影を打ち守りつつ。
しかし、もう我慢ができぬ。このまま餓死しては何しに生まれ出たのかわからなくなる・・・時に起てよ、起てよの天の声は深く深く全山を包んでしまった。
(中略)
当然おこるべき戦いだ 我らも覚悟している 相当の確信もできた 今や足尾の全山は基金徴集に、檄の撽文に熱狂しつつある。
40年の暴動に、一昨年のストライキに、我らは悲惨な経験をなめている。秩序だった運動も、無茶苦茶な理不尽な資本機関のある以上どう変化するかはわからない。
全国の同志諸君よ! 我らの生死はその時において判明する。ご多忙ながらご声援を乞う。 大正十年三月十六日
全日本鉱夫総聯合会
足尾聯合会 」
3月30日、総同盟から麻生久もかけつけ足尾銅山の2千人の労働者は歓迎デモで気勢を上げた。
4月2日、会社杉本所長、要求を一瞥しただけで回答を拒絶し、脅しの姿勢。組合との交渉も拒否。
4月6日、怠業(サボタージュ闘争)を決議。
4月7日、本格的スト始まる。
4月8日、会社労働組合幹部ら337人の大量解雇を強行。組合との正面衝突態勢の会社。
4月10日、東京から棚橋小虎、赤松克磨、加藤勘十らがかけつけ、4千人労働者、警察の禁止をけって歓迎デモによる大示威行動。警察もうかつに手をだせない盛り上がり。
4月12日、被解雇者家族大会開催。悲痛なる家族の訴えと会社の暴虐を糾弾。
麻生久が壇上から演説中に「あの精錬の煙を消せ」と絶叫すると、なんと開山以来絶えることがなかった精錬の煙が、麻生がまだ壇上にいる間に消えた。
4月13日、全山スト状態突入。
4月16日、子供を背負った解雇者の女房5人が、加藤勘十らに付き添われ、1500名の労働者に見送られ、古河夫人に訴えるため上京した。
足尾銅山では小学生が教師の必死の禁止も聞かず革命歌「ああ革命は近づけり」を歌うほど全山が高揚してきた。一方、会社は、憲兵・警官の動員を増やしつつ、残酷にも被解雇者と家族の宿舎である社宅長屋の明け渡しを迫ってきた。大量の解雇攻撃と、この残酷な会社の仕打ちに1907年(明治40年)の足尾大暴動の再来かといよいよ全山に緊張が高まる。
4月18日、解決を急いだ麻生久は、麻生の東大時代の同窓生古河本社重役と栃木県保安課長との三者で交渉を続け、被解雇者の退職金の増加(独身者に15圓、家族有者に30圓)と団結権の事実上の承認、賃下げはしないなどで急転争議が解決した。しかし、この麻生の大量解雇の「金銭解決」とこのボス交渉のやり方に猛反発した労働者も多く、麻生は「裏切者」と非難された。
(麻生久のボス交渉を弾劾したビラ)
「昨年の夏、全日本鉱夫総聯合会足尾支部発会式の当時、麻生君はなんという演説をしたか。彼らが指導した従来の運動が失敗に終わったことを告白して、資本家および官憲の暴力に対するに、労働者の暴力をもってし、鉄に報いるには鉄拳をもってする。直接行動は唯一の勝利の戦法だといったではないか。そのように宣言した同一の人物が、直接行動を起こす最適の機会である今日、その方針には出ずして、幾度か繰り返して幾度も幾度も失敗を見たことを今またやっているとは何事か。古河のカゝアに哀願したり、本場の足尾を空にして東京で示威行動をやるなどゝ呑気なことを言ったり、また鈴木文治君などが警視庁や古河に頭を下げに行ったり、そんなことが何の直接行動か。してみると彼は最初から諸君を欺くつもりか及至(ないし)は今となって怖じ気ついたのか、勇敢にして誠意ある麻生君よ、それともおそまきながら自ら直接行動の先頭に立って討ち死にする気はないか」
4月20日の足尾争議報告演説会では、麻生久らの争議指導部への非難の野次が巻き起こり、その後労働運動からの知識階級指導者排撃の動きが広がった。
(労働組合同盟会の分裂)
足尾銅山の争議で指導者が労働者を抑えつけたと非難する知識階級指導者排撃の動きが拡大する中、6月労働組合同盟会から友愛会、東京鉄工組合、紡績労働組合、東京電機及機械鉄工組合が脱退し、7月の友愛会東京連合会でも分裂・脱退があり、「労働組合へ帰れ」を書いた棚橋小虎が友愛会東京連合会主事を辞任した。