先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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「賀川豊彦」読書メモ② 賀川豊彦の戦争協力

2022年03月08日 09時27分22秒 | 賀川豊彦・キリスト者

写真・「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」中山弘正(『戦後65周年の明治学院の取り組み』)

読書メモ「賀川豊彦」② 賀川豊彦の戦争協力

感想
 ここにはかつての平和運動家賀川の片りんは一つもないどころか讃美歌「大東亜共栄圏の歌」を寄稿する賀川は、教会に集う少年や若者たちに皇国のために死ねと煽る軍国主義者そのものである。「大君のへににこそ死なめ、省みはせじ」(『天空と黒土を縫い合わせて」の序文)。なんということだ。ここまでやるか。これがキリスト教指導者の言葉か。これでは何度検挙されても無罪放免になるわけだ。賀川の煽動でどれほど多くの青年や学生が戦地に向かい殺され殺していったか。これはもう文字通りの戦争協力だ。

 しかも一番の問題は、戦後、信仰者として思想家として賀川自身は自分個人を真摯に反省したのだろうか、なにより、戦後、賀川は戦前の朝鮮・中国・アジア侵略戦争、軍国主義者の悪逆非道、労働者弾圧、民衆差別を本気で糾弾したのだろうか。僕は彼は本気の反省も真剣な自己批判も心からの謝罪も総括もしていないと思う。敗戦直後国民に「国民総ざんげ」を要求した賀川。むしろ戦後の賀川自身にこそ悔い改めが求められていたはずなのに。

参照
「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」中山弘正(『戦後65周年の明治学院の取り組み』)
「資料集『賀川豊彦全集』と部落差別」キリスト新聞社
「日本統治下朝鮮における神社参拝問題と聖潔教会弾圧事件」 蔵田雅彦
「神社参拝問題と韓国教会(Ⅱ) 金承台(キムスンテ)

賀川豊彦の戦争協力

1、中国へ全面侵略
 1937年7月7日盧溝橋事件、日中全面戦争
 
  (10月日本労働総同盟の大会決議)
「帝国陸軍の士官と将兵への謝意決議。我々はあの事件(盧溝橋事件)が起こって以来、帝国海軍と共に中国で国家の名誉を高めるために尽力してきた帝国陸軍の士官と将兵に対して衷心から深甚なる謝意を表明するものである」

 (日本基督教連盟特別委員会声明)
「わが帝国軍隊の労苦に対して感謝を表するために、我々は彼らを慰問する。・・・この武力紛争が、確たる、そして恒久的な親善関係の確立に終わることが我々の願いである。」

 (神社神道について賀川は)
 「神社神道はわが国民に信条の一致をもたらす。それはわが民族の団体的提携を強固にする。それは最高の中央権力に対して国民の感情や礼儀作法、諸習慣を純化して備えてくれる。・・・神社に対する尊敬は、国家を進歩させ強固にする偉大な義務に対し、厳粛に忠誠を誓うという意味合いが深い。神社と国家の関係は分離できないほど深い」

(1938年日中戦争時の賀川)
 「日華事変の勃発とともに、人と思想との国家的動員は効率的に実行に移された。四六時中・・・ある婦人たちの組織は愛国主義のしるしとして台所の前掛けを採用した。この白一色の衣に身を装って、婦人たちが通りを進み、彼女たちなりに出征兵士を激励するために駅をその姿で埋めている。平和を求める運動はあざ笑いの対象とされ、軍部の行動や声明に反対するあらゆる発言は法律によって禁止された。平和という言葉を述べることさえも、今では新聞、雑誌において認められていないのである。・・・多くの国家主義的な機関は、・・・平和運動を唱道する知識階級を押しつぶそうと汲々としている」

(松岡洋右について賀川の評価)
 1938年の満州旅行で賀川は初めて松岡洋右に会い、惹きつけられた。
 「松岡洋右の晩餐会に招かれた。我々は非常に親しく話した。彼は大陸政策を説明したが、そこには宗教的色合いがあった。彼の誠実さには涙が流れんばかりだった。・・・松岡氏は中国人を最後まで愛そうと決意している。彼の中に日本精神の最も純粋なものを垣間見た。」

2、ガンジーとの会話 
 賀川は、プロテスタント各教派の国際キリスト教会議「世界宣教大会」に出席するため、1938年12月から翌年1月にかけてインド・マドラスのタムバランに行った。1939年1月14日賀川はインドのバルドリでガンジーと面会した。

ガンジー「戦争を日本人はどう感じていますか。」
賀川  「私は日本では異端者です。私の見解を申し上げるよりむしろ、あなたが私の立場にいたら、あなたはどうするか知りたいです。」
ガンジー「私の見解を言うのは厚かましいことです。」
賀川  「いや、私はあなたならどうなさるか是非お聞きしたいのです。」
ガンジー「私なら異端の考えを表明し、銃で撃たれるでしょう。」
賀川  「しかし、友人たちは私に思い止どまることを求めています。」
ガンジー「友人たちの言うことを聴いてはいけません。友人というのは、どんなに善良であっても、あなたをだますことがあります。彼らはあなたが生きて仕事をしてほしいと言います。私が刑務所に入ろうと決断したとき、私も同じ要請を受けました。しかし私は友人たちの言うことを聴きませんでした。その結果、刑務所の四方の固い壁に閉じ込められましたが、自由の輝きを見いだしました。私は暗い独房の中にいましたが、この壁の中から何ごとも見え、外からは何も見えないことが分かりました。」

 ガンジーは口先だけの賀川になぜ獄につながれても銃で殺されても戦争反対で闘わないのかと厳しく問う。賀川は「友達に止められているから」と見苦しい言い訳をする。

 あわてて賀川は話題を変える。
賀川  「インドには灌漑協同組合はありますか」
ガンジー「ありません。もちろんあなたのところにはあるんですね。あなたは素晴らしいことを成し遂げた。しかし、あなたがたは毒や他の恐ろしいものを飲ませて、中国を生きたまま飲み込もうとしている事実を我々はどう理解したらいいのでしょうか。・・・どうしてこのような残虐行為を犯すことができたのでしょうか。そしてあなたの国の偉大な詩人は、この事実を人道の戦いであり中国への祝福だと呼んだ。」

 ガンジーは賀川の日本での灌漑協同組合を皮肉たっぷりにほめる。しかしガンジーは返す刀で、いくら立派な灌漑組合運動をしていても日本軍の中国での残虐行為を許しているではないか、しかも「聖戦」だとか「中国解放」だとか叫ぶ御用詩人(賀川も入っていると思う)をどう説明するというのか、答えてみろ!

 なんとかもう一度話をそらそうとする賀川。
賀川  「あなたの国は10年ごとに飢饉になっていますね。」
ガンジー「毎年のことです。」
賀川  「それならもっと樹木を育てることをすべきです。燃料用の木、家畜の飼い葉の木を。米と大麦では十分でないので、蛋白質を含む木がもっと必要です。」
ガンジー「違います。我々は政府のやり方を変える必要がある。」

 ことここに至ってはガンジーは完全に賀川を軽蔑している。賀川が気が付かないはずがない。ガンジーの日本軍の中国での残酷な仕打ちへの糾弾に賀川は何一つ答えることもせず、あくまで灌漑協同組合に話を持っていこうとする。ガンジーは真正面から否定する。「そうではないでしょう。問題は政府にこそむ立ち向かうべきだ」と。

 賀川は「満州キリスト教開拓村」も推進した。1940年満州に設立された「協同組合運動」グループを訪問。

 1940年7月6日社会大衆党解党させられる。7月21日には日本労働総同盟は最後の集会で鈴木文治会長による「天皇陛下万歳」三唱の叫びで解散した。

2、賀川豊彦の戦争協力
【検挙】
 1940年8月25日日曜日礼拝の説教が終わったところで、賀川は小川清澄牧師と共に軍律に違反したと憲兵に逮捕された。18日間の尋問があり、妻ハルが松岡洋右にとりなしを頼み釈放された。1943年5月と11月にも反戦思想のかどで検挙される。

 「わたしは、自国が国家的非常時に直面している時に、自国を愛せざるをえないのであります。理想は理想ですが、聖書でさえ、私たちが自らの理想のために国の法律を破ることを禁じております。だからこそ、私は、日華事変勃発以来ずっと、私たちは自国を最後の一人までも守るべきである、と強調してきたのであります。」(『雲の柱』1940年10月号)

 「顧みるに全能者は不思議なる摂理を日本に傾け皇統連綿御仁慈の限りを尽くして、民を愛し給うた世界に比類なき統治者(天皇)を日本に与え給うた。・・・我国は奴隷制度の蛮風なくカースト・システムの桎梏なく、・・・いや創造の苦闘を持つのみならず、世界修繕の大使命をも荷はされている。欧米に愛と正義が亡びるとき、我々日本の国より世界救済の手を延ばして、人類社会再建の福音をのべ伝えるべきである。」(「皇紀二千六百年」『全集』第24巻)

【1941年4月訪米平和使節団】
 賀川は訪米平和使節団で米国で300回以上の講演をして、戦争を避ける試みをした。

【オランダ領ニューギニアの日本への割譲を求める賀川】
 真珠湾攻撃の直前、賀川は友人のスターレー・ジョーンズと国際的な徹夜の祈祷会を開いた。賀川はかつてスターレー・ジョーンズに「日本は過剰人口のために、衣服を脱げるほど十分暖かな所の土地が必要である」とオランダ領ニューギニアの日本への割譲を提案している。

【1942年フィリッピン旅行を計画して】
「私は、我が国の為なら、どこにもでも出かける積りである。・・・私は(以前)フィリッピン諸島に行った時、そこの小作農民の生活が惨めなものであることを知って驚いた。この事態は、米国の資本家たちが決まってこの諸島の農民を搾取したことによって説明できる。・・・フィリッピン人、特にフィリッピン人農民は、大東亜共栄圏の構成員としてフィリッピン諸島の再建に貢献できるようになる以前に、適切な教育を受ける必要がある。」

【反米ラジオ宣伝放送】
 1943年クリスマスに賀川は、米国人捕虜に向かって米国による日本市民に対する爆撃を非難するラジオ宣伝放送をし、 1944年8月の放送では、「災いなるかな、アメリカ !   ・・・口に平等を唱えて、他民族を圧迫し、言葉に自由を弄して、自己のみの優越性を維持せんとするその放縦性を全能者は許し給わないであろう。アメリカは白く塗りたる墓である。彼らの子供らは日本の兵士の頭骸骨を弄び、大統領は、日本兵士の骨で作ったブック・ナイフを受けたという。 」と声高に放送している。

【国際戦争反対者同盟からの脱退】
 賀川は1943年の憲兵隊に逮捕された後、国際的平和団体である「国際戦争反対者同盟」から脱退した。

 讃美歌「大東亜共栄圏の歌」を寄稿
一 世界の闇は 深くとも
  胸底(きょうてい)のぼる 黎明(れいめい)に
  東亜の光 呼び醒ませ

二 試練の坩(るつぼ) たぎれども
  十字架負ひて いさむ身に
  めぐみの雨ぞ 降りそそぐ

三 オホツク海の 結氷も
  愛の血潮に うちとかし
  父のみこころ 世に成さん

四 ねむる印度も ゆりおこし
  なやみの鉄鎖 ふりおとし
  神の国をば 打建てん

五 ああ黎明よ 黎明よ
  歴史はさめて みめぐみに
  アジアも遂に 光見ぬ

(1944年中国の日本軍占領各地で2カ月の講演旅行)
 日本政府は「大東亜宣言」の宣伝目的に賀川の中国旅行を許した。賀川は「大東亜宣言」を携えて、上海、北京、南京、杭州への2カ月の講演旅行した。

(賀川の詩『天空と黒土を縫い合わせて」の序文)
「ルーズベルトの国民のみが、自由を持ち、アジア民族のみが奴隷にならなければならぬという不思議なる論理に、太陽も嘲う。・・・。アジアを自らの保護国の如く考えたチャーチルとルーズベルトは、ついに血を以って、太平洋を永遠に赤く染めた。血潮の竜巻は起こった!  真珠湾の勇士らの血潮に、ソロモン列島の尽忠烈士の熱血に、義憤の血潮は、天に向かってたぎり立った。『——大君のへににこそし死なめ、省みはせじ――』私心を打ち忘れ、生死を超越し、ただ皇国のみ仕えんとするその赤心に、曙の明星も、黎明の近きを悟り得た。・・・・。ああ、アジアは目覚めた!  インドは解放を叫び!  中華民国は米英に向かって呪いの声をあげた!  ・・・大和民族の血潮は竜巻として天に沖する。されば全能者よ、我等の血潮を以て新しき歴史を書きたまへ」

 ここにはかつての平和運動家賀川の片りんもない。讃美歌「大東亜共栄圏の歌」を寄稿する賀川は、キリスト教信者の青年たちに皇国のために死ねと煽る軍国主義者そのものである。「大君のへににこそし死なめ、省みはせじ」。なんと情けない男だ。これでは何度検挙されても無罪放免になるわけだ。賀川の煽動でどれほど多くの青年信者や学生が戦地に向かい殺され殺していったか。これはもう文字通りの戦争協力そのものである。しかも問題は、戦後、賀川は真摯に反省したのだろうか、僕は彼は本気の反省も真剣な自己批判も心からの謝罪も総括もしていないと思う。「国民総ざんげ」を要求した賀川自身の悔い改めこそが求められていたはずなのに。

3、敗戦・戦後の賀川

 (「国民総ざんげ(悔い改め)運動」)
 敗戦直後、賀川は「国民総ざんげ(悔い改め)運動」を行った。1945年8月29日の日本基督教団の会合で、賀川は、冨田満、鈴木浩二、村田四郎、勝部武雄、木俣敏らと「全国民の悔い改め(国民総ざんげ)の運動を提案し、東久邇稔彦首相のところに持ち込んだ。自らがまず戦争協力を真剣に反省謝罪するのではなく、全国民の総ざんげ(悔い改め)運動を行い悪いのは全員だとすることで自分への糾弾も逃れられるというわけだ。
 
 東久邇稔彦首相は賀川に政府参与就任を要請し賀川は受け入れた。また、賀川は8月30日に、マッカーサーに向けて早くも「天皇免責」「天皇制擁護」の請願公開書簡を『読売報知』に寄せている。

 (社会党結成大会「天皇陛下万歳」三唱)
 1945年11月2日賀川は片山哲、安部磯雄、高野岩三郎などと共に日本社会党を結成した。この日本社会党の結党大会で、浅沼稲次郎は国体擁護の演説し、賀川が「天皇陛下万歳」三唱の音頭を取ったことに荒畑寒村らが憤慨して退場したという。(ちなみに「天皇陛下万歳」三唱は、友愛会においても日常的行為であり、日本労働総同盟最後の解散集会の場でも鈴木文治の「天皇陛下万歳」三唱で締めくくられている。)

 賀川は1946年キリスト新聞を発行(編集者武藤富雄)し、47年2月には皇居に招かれて天皇・皇后に講義「御進講」している。



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