写真・1921年神戸川崎・三菱造船所大ストライキ
「賀川豊彦」読書メモ①
参照
「賀川豊彦」ロバート・シルジェン 新教出版社
「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」中山弘正(『戦後65周年の明治学院の取り組み』)
「資料集『賀川豊彦全集』と部落差別」キリスト新聞社
「日本の労働組合100年」(法政大学大原社研編 旬報社)
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋
「日本労働年鑑」(第3集1922年版 大原社研編)
最初に、
1968年、若き僕を労働運動に引き寄せてくれたのは山谷の日雇い労働者の今は亡き北さん。彼は賀川豊彦の信奉者でいつも本『死線を越えて』を読んでいた。北さん自身敬虔なクリスチャンであった。北さんに誘われて全港湾横浜港分会の君島さんが指揮する横浜港湾ストライキに応援に行ったのが僕の最初の労働運動との出会いだった。しばらく山谷の北さんのアパートに泊まり、朝早くから立ちんぼをして日雇いで生活費を稼いだり、路上のバクチやパチンコを覚えたり、北さんの周りの気のいい多くの男女と親しくなったり、山谷のキリスト教会の日曜礼拝に出席して北さんと大声で讃美歌を歌ったり、北さんと一緒に大型特殊運転免許を取ったり、山谷の対都庁・知事室前座り込み闘争でガラスが割れ、それで北さんが逮捕されその救援をしたり、年末のある日の早朝、オートバイで白髭橋を渡りしばら行った地点で機動隊の2台のカマボコから労働者の服を着て手ぬぐいハチマキをして地下足袋姿の明らかな公安がぞろぞろと何十人も降りてきて、後をついていったら玉姫公園の越冬闘争の炊き出しの人込みの中にそのまま全員入り込んだのを目撃してびっくり仰天して北さんにご注進したり、そんなこんなでしばらく後、1975年からスタートした大久保製壜闘争には山谷の労働組合員もずっと応援に来てくれていた。
今、1919年から21年ごろの労働運動を紐解いていると関西における友愛会労働運動の中で北さんの好きな賀川豊彦の名が頻繁に出てくる。北さんを想いだしながら賀川豊彦の功罪を勉強することにした。不幸にもコロナで時間はいくらでもあるのでじっくりやろう。
戦前、賀川豊彦は、キリスト教伝道者、作家、社会事業実業家、労働運動・生活協同組合運動家、無産政党運動家、平和運動家として国内外で有名であり、1920年に出版した自伝的小説『死線を越えて』が総計400万部を売り上げるなど,多くのベストセラーを著した。賀川はとくにアメリカなどキリスト教社会で絶大な人気を博した。賀川が労働運動に関わった期間は1919年前後のわずか4年間ほどでそれほど長くはない。1918年全土的暴動として吹きあれた米騒動の熱気に押されてた翌19年、賀川らの友愛会関西を先頭に友愛会も全国的運動として「普通選挙運動」「労働組合公認」「治安警察法第17条撤廃」「ILO労働代表の選出問題や官選労働代表反対運動」の社会運動を大々的に繰り広げた。これの熱量たるや賀川ら講師の講演会・集会に押し寄せる労働者民衆はそのまま街へ繰り出す大デモで応えるほどだった。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/bf1a43c0b2029cf0ea7c43dcc4a67e53
また労働運動で賀川を一躍有名にしたのは1921年の神戸の川崎・三菱両造船所3万5千人の史上最大のストライキだった。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/preview20?eid=786c67c1b1fb560ca802d2896f04a6d4&t=1694672743912
この時のストで賀川も検挙されている。ストライキは敗北した。労働運動での彼への失望は強まった。その後の彼は農民運動、農民組合結成、そして1923年の関東大震災の救済運動で上京し社会事業実業家として、また生活協同組合運動家とキリスト教伝道と平和・社会運動を続ける。
賀川の反戦・非戦運動が当局に目を付けられ憲兵隊に何度か検挙されるが、いずれも無罪で放免された。1937年日中戦争の勃発に日本労働総同盟や仏教・キリスト教などの宗教界は全面的に戦争協力へと舵を切り、このころから賀川も転向し露骨な戦争協力をはじめる。また、賀川の思想には当初からの差別思想が指摘されている。この賀川の戦争協力と差別問題も私たちには避けて通れないテーマである。
1、アメリカ労働運動
1909年21歳神学生の賀川豊彦は、キリスト教伝道と貧民救済のため神戸のスラム(「貧民窟」と呼ばれていた)新川に入った。伝道のかたわら安価な大衆食堂、診療所、保育所などスラム住民の救済運動を続けた。1916年アメリカに留学していた賀川は、この年の夏ニューヨークで目撃した洋服裁縫職工組合の多国籍の6万人からなる大デモと遭遇し、初めて労働運動に目覚めた。
「示威行動が通る ! 6万人の針職工の示威運動が通る! 横に16人位並んで一時間半も通り続ける。マンハッタン区にある450の洋服製造所の資本家が、イースト・サイドにある6万人の貧しい職工を締め出したのである。照り輝く太陽の下にイタリア、ユダヤの労働者、ボヘミヤの労働者、殆どの世界中の労働者が一緒になって行進する。『パンを与えよ』と書いてあるプラカードもある。『資本主義を葬れ』と書いてあるものもある。洋服を初めて着たといったようなボヘミヤあたりの女の一群もあった。各種の色彩をした組合旗が正午の太陽を浴びて揺れつつ進む。それは荘厳といおうか、悲惨といおうか、あたかも屠場に引かれる子羊の大群のように、淋しい眼をして幾万の生霊が歩んだ! 」
「貧しい人々がこれだけあるのか ! これだけ ! そして、これだけの人々が450人の人々(資本家)を敵として戦っているのだ ! とても救済などいうていても駄目なのだ ! 労働組合だ ! 労働組合だ ! それは労働者自らの力で、自らの力で救うより他に道は無いのだ ! おれは日本に帰って労働組合から始める ! 」
1916年11月5日IWW(世界産業労働組合)の5人の活動家がワシントンのエベレットで資本家にやとわれた武装ゴロツキ集団に殺害され、組合員50人以上が負傷させられた。IWWのバラード詩人ジョー・ヒル(今ではアメリカ労働運動の伝説的人物)は、その前年にソルト・レーク・シティで殺されていた。当時AFL(米国労働総同盟)は、一日8時間労働制と児童労働禁止を求めて全国的運動で議会に圧力を加えていた。同じ頃、友愛会代表鈴木文治がカルフォロニアAFL大会に参加していた。当時AFLは米国における日本人の労働と雇用のボイコットを支持する決議を採択した。これは数年後の日本人を標的とする排外主義の移民法と外国人排斥土地法につながる。
2、友愛会関西
1917年9月9日賀川は友愛会神戸支部(1200名)で講演をした。この一か月後友愛会の評議員に推挙された。1918年友愛会関西労働同盟が設立。機関誌「労働者新聞」の編集長に賀川がなった。賀川は「無産階級解放論」「賃金奴隷の解放」「生存権と労働権」「組合の自由」等のテーマで執筆し、また労働者向けの連続的講演に総力をあげた。
「万国の労働者よ、団結せよ!・・・・汝ら国境より躍り出でて、相接吻せよ! ・・・資本主義と家庭制度と投票権と議会制度を愛もて溶かしてしまえ、そして労働者よ、君らを縛るその因襲と迷信を愛もて破壊せよ・・・愛と自由の日が来た。」
「富国強兵をやかましく言う社会組織に飽きが来た。我らは人間が人間として待遇せらるる新文明と社会改造を要求する。その文明は遊んで金を浪費することを知っている資本家の存在を許すことが出来ない。その文明は労働本位の文明であらねばならぬ。精神的にも、肉体的にも労働者の文明であらねばならぬ。」
ほどなく政府はこの組合の機関誌「労働者新聞」の発行を禁止してきた。1918年4月の友愛会第6回大会で賀川ら関西の友愛会代議員は「社会保障制度の確立」を要求した。1916年以来生活費は2倍に高騰し、17年から18年にかけて物価は50%の急騰であった。7月には米の値段が一気に30%も上がった。18年全国で勃発した米暴動・米騒動を政府は軍隊で鎮圧した。神戸でも2万人が商店や新聞社に放火し、米屋や酒屋を襲い破壊した。
1919年1月から賀川は河上肇、尾崎行雄らと共に全国を駆けめぐり、「普通選挙権」運動にまい進した。この年、賀川らの友愛会関西を先頭に友愛会が全国的運動として「普通選挙運動」「労働組合公認」「治安警察法第17条撤廃」「ILO労働代表の選出問題や官選労働代表反対運動」を訴える大々的な社会運動を闘った。賀川はその先頭に立って熱弁をふるった。労働者は彼らの講演会に押し寄せ、官憲のー弁士中止」で集会が終わるやいなや労働者は賀川が作った労働歌を歌いながらそのまま街に繰り出でて数時間に及ぶデモをした。
(賀川の作った労働歌)
「目覚めよ、日本の労働者よ!
過去の因襲打ち破り、世界改造遂ぐるまで 克己勉励努力せよ!
土耕い 機織り船作り 地の底くぐり金を掘り 汗を絞りてパンを練る
労働者こそ尊としれ!」
1919年4月友愛会関西労働同盟が正式に成立し賀川は理事長となり声明をだした。
「我等は・・・宣言す。労働者は一個の商品ではない。資本主義文化は、賃金鉄則と機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈淪させてしまった。ゆえに我らは労働組合の自由と、生存権と労働権と、集合契約権と、正義に基づく同盟罷業の権利を主張し、治安警察法第17条の撤廃と現工場法の改正を要求す。我らは8時間労働制の採用と、最低賃金の制定をすべての労働組織に要求す。」。1919年の大社会運動が勃発する。友愛会はこの年の大会で日本労働総同盟友愛会と名称を変え初めて正式な労働組合宣言をした。
関西友愛会は1920年6月大阪の印刷労働者の組織化と組合結成に成功し、11月には関西印刷工同盟を結成する。賀川は播磨造船所の労働組合の組合長就任を要請され、造船所の中に労働者のための「生活協同組合」神戸購買組合を設立した。
「労働運動から私が求めるのは、労働者が産業を制御する、一種のギルド社会主義の確立である。私は社会主義と労働運動は本質的に同じ目標に向かっていると見る。すなわち労働者の産業管理である。」
1920年9月大阪中之島公会堂と神戸YMCAホールで「東京社会主義者同盟」の講演会が開催され、荒畑寒村と堺利彦、賀川らが講演した。官憲はスパイと数百名の警察官で弾圧し演説者の発言をすべて中断させた。
1920年賀川の小説『死線を超えて』が400万部の大ベストセラーになった。
3、1921年神戸川崎・三菱争議団の大ストライキ
1921年4月大阪電灯株式会社でかつてない「団体交渉権の承認」を要求する1000名の大ストライキが起きた。この会社には友愛会会員100余名がおり、友愛会の関西労働組合連合会も応援した。
「宣言 我らは遂に起たねばならなくなった。今や馘首にされた九百の生霊は街路に迷わんとしつつある。・・・資本家よ反省せよ。・・・・吾人は一歩も譲歩する能わず。あくまで結束を固くし自重し餓死するまで戦わん。最後の一人まで戦わん。右宣言す」
連日演説会が開催された。会社はゴロツキを多数雇い、警察官数百名で弾圧体制を敷いた。ゴロツキはスト労働者を自動車で拉致し、あるいは深夜自宅を襲撃し労働者を工場まで暴力的に連行して働かせようとした。賀川は「労働者新聞」で会社が偽刑事やゴロツキを使ってスト労働者の家を襲い労働者を拉致して発電所に閉じ込めるなどの暴挙を厳しく糾弾し、自ら友愛会関西幹部西尾らと警察本部特高課に抗議に向かっている。しかし官憲の大量労働者検挙が続く。
友愛会の西尾末広は叫んだ。「事ここに至っては、われわれも合法的に闘う余地はなくなった。決死の覚悟を要するときがきたのだ。まずおれが監獄に入るから、みなあとにつづけ。」と発電所をダイナマイトで爆破する計画でまとまった。この計画は未遂に終わったが、翌5月14日、15日と2千人の労働者のデモに警察官数百名が襲い掛かった。警官の暴力で失明する労働者や大量の検束者もでた。猛烈に怒った労働者が反撃する。大乱闘がおきた。ついに16日、警察部長と特高課長の調停で争議は全面解決した。労働者側の勝利だった。
士気に感じた大阪・神戸の労働者は次々に決起した !
1921年の長く暑い夏が始まった。住友製鋼所、大阪鉄工所、汽車会社など3千名で友愛会加盟の大阪機械労働組合が結成され、また、藤永田造船所など大阪造船労働組合も結成され運動はにわかに活発なっていった。
5月には田中機械製作所が2割の賃上げを要求し、川崎鉄工所では労働時間延長反対で、西野田の油谷鉄工所では「団体交渉権の確認」等の要求で、それぞれ争議に入った。
5月28日大阪藤永田造船所の30人ほどの仲間がくびを切られたことに怒った3500名労働者のストライキが開始され神戸から駆け付けた賀川も争議の調停に入って解決したかに見えたその翌日会社は官憲を使い弾圧をしてきた。スト参加者の多数が検挙された。路上では数百名の警察が労働者のデモに暴力的に遅いかかった。憤慨した労働者は会社幹部の自宅の家々を破壊し、警官と衝突し、怪我人もでた。地域の労働者の階級的連帯はかってないほど高まった。階級的意識に目覚めた関西の労働者は天王寺公会堂に数千名が押し寄せ、賀川は基調演説を行い、労働者の正義と闘いを続けるように以下の熱烈なアジテーションをし、労働者は熱狂的に応えた。争議団の要求は「団体交渉権の承認」「被解雇者の復職」「夜業(深夜労働)の禁止」「8時間制に伴う賃金値上げ」「労働保険制度の確立」等であった。
「圧迫よ来たれ ! 迫害よ起これ !
我らはここに敢然と立ちあがって産業の民主を絶叫す。
産業における専制者を葬れ !
我らは立憲の世界に住みなんぞ独り産業のみ専制者を必要とすべきぞ !
我らは工場の立憲制を要求す。
混濁の空気よ去れ !
自由の空気よ湧き上がれ !
我らはあくまで労働者のために戦はん。」
藤永田造船所近くの新田、村尾、小野、相澤などの造船所の労働者は連帯デモを行った。演説会ではビラ「同情ストライキ」の呼びかけと檄文が配布された。たちまち相澤・村尾造船・旭鉄工・合同紡績等の各社において相次いでストライキが起き、大阪市の工業地帯はほとんどが混乱の状を呈するに至った。しかし、この「同情ストライキ」ビラは治安警察法第17条の「ストライキ煽動」にふれるとたちまち争議団幹部数十名が検挙され、西尾以下7名が起訴された。この起訴の中には神戸の住友電線・住友製鋼所・住友伸銅尼崎工場の住友労働者3人が含まれていたことが次の戦線の幕を開いた。
大阪の激烈なデモは神戸に波及した。
6月住友の3つの工場の労働者は「3人の犠牲を無駄にするな」と叫び同盟を結んだ。ストライキが神戸に起こった。賀川は住友伸銅尼崎工場の団体交渉の先頭にたち会社と「工場協議会の設置」「横断的組合加入の自由」で合意し妥結・勝利した。
1921年6月・7月と神戸の川崎・三菱造船所で戦前最大の大ストライキが勃発した。6月21日神戸の川崎造船所の労働者が労災事故で海中に転落して死亡した。会社の誠意のない捜索で、労働者の死体は海中に放置されたままであった。全労働者の怒りに火がついた。6月27日支給された賞与と創立25周年祝い金が役員や管理職と労働者に極端に大幅な格差を付けたことが暴露された。この二つの出来事で労働者の不満は一挙に爆発し、たちまち自然発生的なサボタージュ闘争が始まった。7月2日は友愛会会員820名が構内デモを行い、要求を提出した。労働者は、一日14時間もの労働時間を一日8時間~9時間へと短縮すること、組合を交渉団体として認めること、賃金の値上げ、4か月分の解雇手当の支給等の切実な要求を掲げた。7月7日川崎造船所の工場の門で、会社に雇われた暴漢ゴロツキどもがこん棒でスト労働者を襲撃しひどい暴行を加え、ゴロツキの一人が短刀でスト労働者に切り付けてきた。賀川は川崎造船所の重役に厳しく抗議し詰め寄った。この会社の暴挙と怪我をした仲間の犠牲を知った労働者は2万5千人は「死ぬまで闘おう」と叫びながら怒りに怒って街頭に打ってでた。多くの黒と赤の旗が神戸の街中にはためいた。
三菱神戸内燃機工場でも6月25日、労働者は要求書を提出した。「横断的労働組合の承認」「団体交渉の確認」「8時間労働制の実施」「賃上げ」等であった。7月5日は三菱神戸造船所でも同様な要求書が会社にだされた。しかし、会社は労働者の指導者を無情にも解雇してきた。内燃機工場と造船所でそれぞれ千人の労働者が怒りの構内デモに決起した。警官50人が弾圧してきたが、闘いは収まるどころか逆に労働者の怒りはますます燃えた。
7月8日両造船所の争議団が合併し、川崎・三菱争議団が結成された。その指導部に賀川豊彦ら友愛会神戸連合会幹部7人が選出された。
7月10日午前7時日本史上最大のストライキが始まった。3万5千人労働者は神戸港を見下ろす丘の公園に結集した。朝の土砂降りの雨もやみ、うだるような暑さになった。「正義」「死ぬまで闘え」などというスローガンの色とりどりの旗印が掲げられた。賀川は「われわれも人間だ」と激烈な演説をして労働者を鼓舞した。午前8時賀川と組合のリーダーに先導されデモ隊は出発した。腹の底から怒っている労働者の大部隊だ。大阪や関西全地域からもかけつけた多くの労働者もいた。スローガンを叫び、労働歌を歌いながら10キロ以上にわたって行進し、警察官やゴロツキ共で堅固に守られた川崎造船所前に到着した。工場を包囲した労働者は2時間以上もの抗議の叫びと演説ののち、次に三菱造船所に向かった。ここでも賀川は「労働者の今の叫びは、人間らしい人生を過ごせるようにという願いからあがっているのだ。従って、交渉のための労働者の団結権を会社が認めない限り、彼らは決して屈しないだろう」と熱弁をふるった。
三菱造船所は10日間のロックアウト(工場閉鎖)を行い、労働者を工場から締め出した。1万人労働者は工場前に集まり、裏門を破壊して工場に突入した。川崎造船所では労働者は工場へ入ることは許され、労働者は工場内の持ち場でサボタージュ闘争を繰りひろげた。
ここでは軍隊が導入され、海軍の士官らは「建造中の駆逐艦や軍艦、潜水艦に対していかなる破壊行為は許さない」と警告し、スト労働者を圧迫した。その後川崎造船所もロックアウトを行ってきた。スト弾圧の軍隊は増強され、県知事は「デモと労働歌」を禁じた。川崎造船所は組合リーダー125名を解雇してきた。賀川らは怒りをもって抗議し「たとえ工場の占拠をもってしても闘争を続ける」と誓い、「工場管理宣言」がなされた。
このストライキには神戸製鋼所や台湾製糖の労働者も同情・連帯してサボタージュ闘争などに立ち上がった。
7月17日イギリスの有名な知識人・社会主義者バートランド・ラッセルがアジア旅行の途中に神戸の阿弥陀寺の労働者集会に出席し、賀川の通訳で講演した。スト労働者は喝采して彼を歓迎し、また労働者自らも励まされ士気を高めた。
動画「灯をともした人々」
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(会社の巻き返し)
争議団のストライキと「工場管理宣言」に対し、資本は軍隊に出動を要請する一方で、三菱造船所は全スト参加労働者に手紙を出し「スト参加者の家族を助けるために今までのスト中の賃金を支払う用意はある。しかし、万一ストライキをこれ以上続けるのであればこのような配慮は一切受けられない」と文字通りのアメとムチで切り崩しを図ってきた。スト労働者は長期化するストライキで生活は困窮し、警察は争議団の行商への嫌がらせをしてきたり、東京での支援カンパ集めを目的とした神戸のストのフィルムの上映会を禁止した。
この地方の最初のゼネスト参加者は4万人近かったが、ストライキ開始から3週間目半ばまでについに争議団は解体し始めた。川崎造船所では7月26日には4千人以上がスト破りをして職場に戻った。一方この間警察との闘争で170人も逮捕された。8月2日、スト脱落者の総数は7千人以上になった。しかし、半数近くの労働者は断固としてストライキを闘い続けていた。警察はますます争議団への嫌がらせや弾圧を強めた。兵庫県知事と官憲は集会やデモを完全に禁止にした。
(抜剣問題、仲間が殺された)
集会とデモが禁止されたため、争議団は戦術として「神社参詣」を大がかりに行った。7月28日は労働者1万人以上が幾つかの神社に分かれ「参詣」して、集会と行進をした。翌日29日の「神社参詣」、多数の労働者は途中から川崎造船所に向かった。この労働者に対して警察は抜刀して襲い掛かり、20人もの労働者が背中から刺されそのうちの一人の常峰俊一がひん死の重傷を負ったため怒った仲間たちは暴動化し、この時だけで175人もが検挙された。警察はその晩争議団本部の手入れを行い、賀川ら組合指導者多数も逮捕された。賀川は手錠をかけられ裸足のまま警察署に連行され、そのまま神戸監獄橘分監に収容された。
「それに、なお、私の眼にちらつくのは、生田の森から駆け出した菜葉服とカーキー色の労働者が一目散に下へ下へと走る。あの荘厳の光景である。一人の人間が偉大であるのに、万人の生産者が解放の日のために駆け出したその光景は何ともいえぬ厳粛な偉大なものであった。そうだ、奴隷の国より自由の国へ、圧制の国より解放の国へ、暗黒の国より光明の国へー駆け出す日であった。」
7月29日に警官に刺されて重傷を負っていた労働者常峰俊一がついに息絶えた。8月6日、2万人の労働者が彼の家から葬列を組んで涙と怒りのデモをしたが、その二日後の8月8日に争議団指導部は「無条件就業」を決定した。全面敗北だった。9日、川崎7千、三菱4千の争議労働者が就業した。12日争議団指導部は「惨敗宣言」を発表した。被解雇者1300人、死者3名、負傷者数十名、収監者180名、検束者300余名にのぼった闘いは終わった。
「惨敗宣言」の後、資本は報復としてスト参加者、先進労働者を大量に解雇してきた。残酷な資本家は川崎造船所505人、三菱造船所571人、台湾製糖191人、神戸製鋼30人の労働者とこの数倍の家族を無情にも路頭に放り出した。友愛会神戸連合会は一挙に弱体化した。賀川の労働争議に対する合法主義、秩序ある争議、暴力否定という考え方への反発が起きた。賀川の労働運動指導者としての権威は失墜した。友愛会全体の急進化が進んだ。10月1日友愛会創立10周年大会で「日本労働総同盟友愛会」が「日本労働総同盟」と変更され、また、友愛会の中で直接行動を唱える勢力が拡がった。
(野武士組)
解雇された労働者は「浪人会」なる団体を作り、「惨敗の歌」(節は「ああ玉杯に」)を歌いあいながら労働運動への再起を励ましあった。この歌は全国の労働組合員に愛唱された。
「ああ8月の陽のごとく
うらみぞ胸に燃ゆるなる
われらが40有余日
正義のために満身の
力と血とをささげたる
たたかいついに敗れたり」
大阪の争議の後に作られた「野武士組」も争議で解雇された失業闘士が、いわば自ら買ってでた労働組合運動のオルグだった。留置場入りの経験できたえた乱暴に近い勇敢な闘士の集まりだったから、気の弱い工場主などは「野武士組が来た」というだけでちぢみ上がった。労働者は野武士組に拍手喝采をして、見知らぬ労働者までも「われわれ野武士組は、いかなる迫害にも徹底的に闘うのだ」と叫んだりした。労働運動の急進化はいよいよ強まった。
(農民組合結成)
1922年「労働者新聞」の編集者をやめた賀川は大阪に労働学校の開設のための組織作りと教職員集めと消費者協同組合運動と鉱山労働者の組合作りに尽力した。さらに農民の組織化、農民運動・農民組合結成を進めた。
1922年4月9日賀川は神戸YMCAホールで150名の代表者と共に日本で初めての「日本農民組合」を結成した。賀川は綱領・宣言・要求を書き上げた。
21の具体的要求は、
「1、耕地の社会化、2、農業日雇い労働者の最低賃金保障、3、小作立法の制定、4、農業争議仲裁法の制定、5、小作人の生活安定、6、農業補習教育、7、農民学校の普及、8、農村産業組合への支援、9、農村金融機関の確立、10、農民住宅の改善、11、農村衛生の改善、12、農業保険、13、農村婦人の地位向上、14、農民芸術の発展、15、農民の科学的知識の育成、16、農民生活の楽しみの推進等」である。また、治安警察法の改正と普通選挙の確立も要求した。賀川は日本農民組合組織化のための講演で全国を巡った。1923年2月までに農民組合員は数万人に達し、支部は100を超えた。1926年までに組合員は少なくても6万8千人に達した。
岡山の大地主の藤田農場で大ストライキの小作争議が勃発したように各地の農民たちは飢餓に瀕して地主の米蔵を破壊したりして逮捕されながらも多くの小作争議に立ち上がり、小作料を30%値下げるなど農民運動が大きく前進した。
賀川はまた、大阪で労働学校設立に尽力した。1922年6月に開校した。
4、 1923年9月1日関東大震災
1923年9月1日関東大震災が勃発した。友愛会も総力で救援活動を呼び掛け、翌日9月2日には関西から賀川も東京本所に入り、全力で大震災の救済にとり掛かった。山花秀雄もこの時賀川を追って上京し活動した。山花秀雄は東京合同労組に入り労働運動を続けたが、賀川は労働運動を離れた。1924年には東京東部地域で診療所と保育園と幼稚園を設立し、「深川には まだトタン屋根の下で フトンさえなき幾万の魂があるに―それを忘れて綺羅をきる 乙女よ ハイカラの男よ おまへには第二の9月1日が 必要であろう!」とブルジョアどもを糾弾した。松沢村には「休養所」を設け、週に60名の子供たちがやってきた。50人の献身的ボランティアがこの子らの面倒をみた。アメリカの教会、社会事業団体、学校等全国から莫大な救援金・支援金が賀川のもとに寄せられた。鈴木文治の日本労働総同盟もカンパ活動に取り組み、震災救済住宅建設のために6万円の助成金を集めた。
こののち賀川の運動は、キリスト教伝道と社会事業とりわけ生活協同組合、医療共同組合運動、平和運動が中心となる。
1925年普通選挙権はついに成立した。同時に治安維持法が制定された。文字通りの支配者による「飴と鞭」であった。
(排日移民法への取り組み米国で連続講演会)
賀川が国際的なガンジーやアインシュタインらと共に「徴兵反対宣言書」に署名したことで当局を怒らせた。
5、平和運動家の賀川、「徴兵制廃止の誓い」と「全国非戦同盟」結成
1925年、タゴール、ガンジー、アインシュタイン、ロマン・ロランらと共に「徴兵制度廃止の誓い」に署名し、国際連盟に提出した。また、WRY(国際戦争反対者同盟)に入会し、さらに1928年。日本国内のキリスト教や社会主義者とともに「全国非戦同盟」を結成した。
(賀川の『全国非戦同盟』序文)
「見よ!現代を特徴づける諸多の現象を。際限なき軍拡拡張と、必死なる市場争奪、植民地圧伏と政治の反動化、等等。これこそ実に戦争を不可避的にし、その範囲と規模とを、広大ならしむる根拠である。しかも、一方において或いは軍縮会議を以て、或いは不戦条約を以てその好戦的意図を隠蔽し、民衆の目を覆うて戦備を急ぎ、一度国際情勢の不均衡に逢えば直ちに〈戦争に〉訴えんとするの危険、叱り第二次世界大戦の危機は近く我々の前に来らんとしつつある・・・」
全国非戦同盟3つの綱領
①われらは戦争準備の行動に反対す。
②我らは侵略に基づく政治的経済的教育的運動に反対す。
③われらは略奪を鼓吹し弱小民族および虚弱団体に対する軍国的言論と圧迫とに反対す。
6、生活協同組合運動
1925年日本労働総同盟が分裂した。12月賀川は無産政党の統一を目的として農民労働党を結成したが、数時間もしないうちに当局から禁止された。賀川、安部磯雄、鈴木文治、高野岩三郎らは1926年労働農民党を新たに結成した。
1928年には東京本所に「中之郷質庫信用金庫」を創設し、すぐに貧民のための新しい5つの「質屋」を設立した。
賀川は新渡戸稲造博士や小崎道雄牧師などと協力して「東京医療公益事業協同組合」を日本医師会の妨害にあいながら新宿に設立した。2年後には中野にも建てた。秋田でも医療協同組合ができたちまち6千人もの会員が集まり1935年には1万2千人が会員になった。1935年までに全国で150もの医療協同組合が設立された。
1930年代東京本所で「栄養食品配達協同組合」を開設、2か月後には一日6千食を28銭という安い値段で提供した。1937年には、近代的施設と市の栄養士の協力のもと、一日1万食の能力を持つ2つ目の調理場が開設された。賀川はその近くに協同組合の店を設立した。また50人が泊まれる夏季海浜憩いの家を建てた。松沢に「養鶏協同組合」を作り、地域の農家を援助した。
7、1931年満州事変勃発。
(中国の地で謝罪)
1934年賀川は全日本反戦同盟を組織し中国の地で人々に謝罪をした。
「日本の軍国主義が中国でなし、又なしつつある暴力を思い起こすと、私は堪らなく恥ずかしくなります。・・・私たちを赦してください! あなたがた、孔子と墨子の子らよ、あなたがたの偉大な、平和を愛した賢人たちの名において、私たちを赦してください! いつの日か、日本国民は剣と銃を放棄し、十字架愛に目覚めるでしょう。ただ、今は、私はあなた方の赦しを乞うことしか考えられないのです。」
(1934年3月11日上海の教会で千人の中国人を前に)
「私たちは他国に属している領土を侵略している時、神の国に対して本当に罪を犯しているのです。」「私は説教にきたのではない。お詫びにきたのです。」
(『愛の科学』中国版序文1940年)
「日本の軍国主義が中国で行った暴虐を思うと、耐えきれぬ恥ずかしさがこみあげてきます。・・・私が百万回許しを請うても日本の罪をあがなうには十分ではないでしょう。このことが私に耐えられない恥をもたらします。私は日本の軍国主義に影響を与えるには余りにも弱いからです。無力な私を中国の指導者たちが非難するのはもっともなことです。私は責められるに値するからです。」
「罪にふける国や社会は死への道を歩んでいる。他国民を殺し憎しみをまく国は、まいたものを刈るために滅びに至るだろう」
1935年世界講演旅行へ
アメリカとカナダで150の都市で75万人を超える人々に戦争回避の講演旅行をした。
以下続く
読書メモ「賀川豊彦」② 賀川豊彦の戦争協力
読書メモ「賀川豊彦」③ 賀川豊彦の差別思想
読書メモ「賀川豊彦」④ 転向問題から見た賀川豊彦
読書メモ⑤ 宗教弾圧と抵抗
読書メモ⑥ 韓国での宗教弾圧と抵抗
読書メモ⑦ 反戦・非戦を貫いたキリスト者。明石順平、「村本一生の獄中反戦手記」など