南海鉄道争議657名高野山ろう城③弾圧! 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
「南海電車ストライキの追想」上野孤舟
南海鉄道争議、官憲の弾圧と会社の巻き返し
(官憲の残酷な弾圧)
争議団はあらかじめ官憲の弾圧に備え、それぞれ各部とも三班に分け、第一班が官憲に検束された場合は順次次の班が引き継ぐ。三班の責任者はどこも皆から信頼され権威のある者を指名していたが、官憲の弾圧はこれを上回るものであった。
大阪府特高課は高野山に登る各道筋に多数の警官は張り番させ、登山者の身体検査、身元訊問を厳しく行わせた。争議団支援者や応援団の登山はすべて封鎖して禁止した。支援物資の供給もできない。指導や情報すらも入らない。山の上では各院の集会所には多数の警官が入り込み、張り込んで、争議団の一挙手一投足をきびしく圧迫・干渉するという横暴の限りを尽くしている。一方で応援警官は振る舞い酒にありついている。
また、官憲は最初から「南海争議応援共同委員会」の支援の動きをつぶそうと組織をあげて総力で襲い掛かってきた。南海鉄道の争議を関西全域に絶対に波及させじとあらゆる妨害・検束が行われた。「南海争議応援共同委員会」に参加している労組・団体への尾行、監視が強化され、早くも13日午後4時には南海争議の宣伝ビラを配布していた評議会の組合員が、ビラを配布していただけで検束され、ビラを押収された。14日にも労働農民党大阪府支部聯合会の2名が「交通産業代表者会議に参加せよ」のビラを市電労働者に配布しようとして警官に検束された。14日午後7時から予定されていた評議会と労農党と統一運動大阪地方同盟の会議に向かう途中で官憲に見つかり検束された。大阪市電自助会は南海争議応援協議会を開催し、執行委員の沖本慎吾が「交通産業代表者会議を組織発展させ短時間ゼネラルストライキの決行し、ブルジョワの専制主義に対する示威行動をすべき」を主張したことを「煽動」としてその場で警官に検束された。かつてない官憲の圧迫は異常なすさまじさで協議すら開催できない事態となった。
南海電鉄争議での警察官の動員数は総計423人(正服374人 私服49人)にものぼっている。
南海争議ニュース№2 発行所 南海争議応援共同委員会
狂奔する官憲
圧迫と弾圧に日に夜をついでも
争議団の結束は固まってゆくばかりだ
高野山争議団に官憲の弾圧ますます露骨になる!
会社を裏切り勧誘者に使わんとする愚劣なる手段が、争議団の勝たずば止まぬの意気によって失敗たるや常に資本家の忠僕を勤めたる官憲はその本質を発揮し出した。
各道筋に多数の警官は張り番をする大阪府特高課のお出ましだ。応援警官も振る舞い酒にありつく、かくて登山者の身体検査、身元訊問を行われる。応援団の登山は禁止し各集会所に多数の警官が張り込んで争議団の一挙手一投足きびしく圧迫干渉し横暴の限りを尽くしている。
だが争議団は微動だもしないーー資本家よ、官憲よ良く聞け!
お前らの切り崩しや圧迫でへこたれることで高野くんだりまで登ってはこない
全労働者は起って官憲の弾圧に抗議せよ! 争議団と共同して南海鉄道を倒せ!
囚人と変わらぬ裏切者の醜態を見よ!
家にも帰れず監視労働のあえぎの憐れさよ!
不断は乞食の貰いそこなひのように、影で不平を並び立てて、いざその不平を戦いとるために多くの兄弟が奮起しても起ち得ない意気地なしの裏切者は終日休みなしの会社の強制労働に身心綿のごとく疲れている。
おい裏切り者、お前はそれでも男か? 人間? 乗客はうしろから指をさして笑っているぞ
(「チゝシンダスグカエレ」「ハゝシンダスグカエレ」の電報が雪崩のように届く)
15日、突然「チゝシンダスグカエレ」「ハゝシンダスグカエレ」の電報が高野山にいる争議団員宛てに雪崩のように舞い込んできた。その数は数百通にのぼった。会社の高野山ろう城闘争への切り崩しであることは火を見るより明らかであったが、本人に見せないわけにはいかない。年配者や年少者はやはり動揺がひろがった。また会社は「任務に服さない者は解雇する」との声明書をだした。この夜24人が下山した。
(押し寄せる家族)
16日、この日の正午同志の親や家族多数が一斉に高野山に登山し、各院の宿所の子供・夫との面会を求めて押し寄せてきた。皆一様に下山を強く勧め騒いだ。会社の魔の手が留守宅に及んだのは間違いがない。家族を脅し煽動し、山に登らせたのだ。母親の中には「駅長が来て、お前の子供は山で喰う物もなく、犬も食わないようなものでも奪い合っているのだ、早く行って連れてこい」と言われたという。ある父親は息子を力づくで連れ帰ろうとした。この父親は昨日の電報で死んでいる人なのだ。また幼い子供を背にどうしても一緒に帰ってくれないと私が父母から責められると泣いて訴える妻もいる。夜に入っても面会者は一向に減らない。
脱落・下山者も徐々に増えてきた。
宿泊人員
14日 659人
15日 642人
16日 597人
17日 524人
18日 477人
19日 439人(脱落・下山の合計220人)
(高野山当局の調停)
17日、高野山当局が調停に立つと言ってきた。争議団は、高野山当局に以下9項目の要求を示した。
一、会社の声明書の撤回
二、定期昇給各自2回実施最低額制定要求
三、年功加俸制定
四、半期賞与増額要求
五、月収50圓以上の者は月給とすること
六、馘首者を出さぬこと
七、公休の制定なきものに対し公休日を制定すること
八、争議中給料全額支給
九、相当の争議費を会社から支給すること
高野山当局は調停への「白紙委任」を求めてきた。争議団は白紙一任を巡って意見が分かれ、反対意見が多かった。しかし18日も家族の訪問がどんどん来る。ますます下山者も多くなってきた。争議団本部は、とうとう高野山当局に白紙で一任することを決めた。各宿所もどこも元気がない。一方で『下山する奴は人間かい、情けなくなってくる』と叫んでいる頼もしい若者がいる。
(調停)
19日、高野山当局と会社の面会の結果が報告された。会社は「解雇した12人の撤回はしない。今後の解雇者は40人以上はださない。退職金を規定通り支給する」というのだ。高野線支部と第九支部はこれを受け入れたが、その他の支部は頑として応じなかった。こんな不利な条件に屈服できるかと叫ぶ声が各所で一斉に挙がった。あくまで闘うと衆議一決した。山を下りる高野線支部113人と蓮華院の第九支部52人に対して相原会長は告別の挨拶を述べた。
(争議団下山して闘う決意)
争議団本部は、一週間にわたる高野山ろう城は利あらずして、全員下山して新たに堺大浜付近に争議団本部を設置し、評議会系の応援のもと陣容をたてなおして、断固地元で闘い続けるための戦術をたてた。同志300人は決死的闘いで再び勝利者として相見んと互いに約束し、藤林書記長を先頭に隊列を整え、一丸となって高野山を下った。同志会の旗をたて闘う南海鉄道労働者の労働歌は声高く山に谷に轟く、300人争議団員は感無量で涙を流して行進した。多数の警官隊に厳重に包囲された駅ホーム、高野下駅4時48分発車の電車に悲痛なる思いで乗った。
(襲いかかる特高)
ところが途中乗り込んできた大阪府特高課、堺、島の内署の多数制私服巡査が、列車が長野駅に到着するや争議団に一斉に襲い掛かり、藤林書記長ら14名を検束した。堺東駅でもまたもや14名が検束された。争議団リーダー全員を失った争議団は手も足もでなくなった。難波駅に着いた時は僅か20名にも足らない有様で、ここでも11名が検束されてしまった。別列車に乗った相原会長も長野駅に差し掛かった際に検束された。ついに南海鉄道争議は敗北した。
(相原会長談)
相原会長は検束直前の車中で記者に語った。敗軍の将兵を語らずと言うが、僕はあくまで叫びたい。我々は山を下ってもこの会社の暴圧に兜を脱いで泣き寝入りはしない。志を同じくする血盟の同志とはかり必ず再興する日を見ていて下さい。大正13年の争議以来守りたてて来た同志会が、高野線一派の寝返りで動揺したのは残念である。(7月20日大阪朝日新聞)
(会社40人解雇)
会社は、20日正午40名を解雇してきた。
(まとめ)
かくして労働階級の生存権擁護のために勇敢にも一週間にわたり支配階級の牙城に肉迫を続けた南海ストライキも暴虐と弾圧、加えるにダラク幹部の裏切りのため、ついに7月20日52名の犠牲者を出し、恨涙をのんで惨敗の屈辱を忍び、敗余の旗をまいた。
以上