上・日本農民組合第三回大会婦人代議員(1924年)
上・日本農民組合第三回大会デモ(1924年)
大衆行動でオレ達の土地を死守せよ! 1924年の小作争議 (読書メモ)
参照「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
1924年(大正13年)における小作争議は867件(前年741件)にも上る。その内123件は前年からひき続く争議である。兵庫県102件を最高に全国に及んでいる。この年の小作争議の大きな原因の一つに、前年までは少なかった地主側からの攻撃として、「小作料請求訴訟」が急増したことが上げられる。地主側は、凶作により農民の払えない小作料、あるいは、払わない(闘いの手段として小作料の未納)小作料に対して、その取り立てを裁判所・警察を使って「立ち入り禁止」「小作料没収」「差し押さえ」「支払い命令」「土地明け渡し」等々の訴訟攻撃を残酷無慈悲に裁判所と官憲の権力を利用し、小作農民に向かって呵責なく起こしてきたのだ。1924年時点の小作組合の総数は全国で300組合、組合員数は3万人を越えている。
主な小作争議の中から、
1、郡築小作争議
2、都々城小作争議
3、鴻池新田小作争議
4、石生豊田小作争議
5、兵庫県上東篠村小作争議
6、伏石小作争議
を紹介します。
1、郡築小作争議
1923年(大正12年)熊本県八代郡の郡用地の小作430戸は、350万圓の借金を背負い苦しみ、日本農民組合に助けを求めた。地主側郡当局は、警察犯処罰令などで弾圧する一方で土地明け渡しと小作料未納に対する「債務執行訴訟」などを起こし、あらゆる強権的弾圧を行ってきたが、一旦はこの争議は解決した。しかし、翌年1924年(大正13年)に再び大闘争が起きた。4月14日地主側は、熊本地裁八代支部を使い、「土地立ち入り禁止」の仮処分強制執行を行ってきた。村民男女約400名は「これでは農民は夜逃げして離散するしかない」と悲壮な叫びをあげ、一大示威行動を行った。日本農民組合郡築支部の大旗を先頭に、桃色(赤旗は禁止された)の旗を春風に翻し、農民歌を高唱しながらデモをした。裁判所の執行吏と警官隊数十名は「仮処分」の立て札を強行し、14家族の小作地を全部を取り上げたのだ。地域のすべての組合員は14家族に心から同情し「死を決して冷酷な地主と闘わん」と誓いあった。青年会、処女会は全九州全域を巡って演説会を組織し、横暴なる地主の冷酷さを社会に訴え、九州全域の農民・労働者・市民からの同情金を得て14家族の生活費にあてようと懸命に努力した。日本農民組合も全国の組合員に檄を飛ばしカンパを募った。また、農民は、女房たちだけで応援を求める一隊を組織し、大阪、中国地方を巡った。9月3日、小作料値下げなどで解決した。
2、都々城小作争議
1924年(大正13年)6月8日、京都府都々城村の松田芳次郎ら地主8名は突如、小作人27家族の小作地に地主側の人夫を動員し「耕地立ち入り禁止」の棒杭を立てた。これに憤慨した農民100余名は、竹槍、短銃、日本刀で武装して地主宅を襲撃した。井手警察署は地主側を助けようと阻止してきた。田植え期になり、地主側は新たな人夫を雇い入れ、植え付けを始めた。これを阻止しようとする農民を警官隊は弾圧した。19日小作側は演説会を開催した。20日夜、来村していた農民組合幹部を地主側の赤化防止団3名が襲い顔面に大けがを負わせたため、怒った小作人100余名はクワなどを手に手に対抗した。あわてた警察が暴力をふるった赤化防止団3名を検挙した。21日農民側水谷長三郎弁護士らと地主側の弁護士が話し合って解決した。
3、鴻池新田小作争議
1923年農民側は小作料5割5分減を求めた。地主側は仮差押え処分を行ってきて、そのまま越年した。1924年1月、地主側はさらに59人の小作人に「耕地返還」訴訟を起こしてきた。これに対抗すべく農民は日本農民組合に一任した。地主側は、10月25日裁判所の執行吏と事務員を使い、稲の刈り入れの「稲の立毛差押」の制札を立ててきた。これに激昂した小作人は事務員を襲い連れ去り2時間にわたって糾弾した。10月30日早朝、屈強な者47名が「日本農民組合河内聯合会鴻池支部行商隊」と大書した赤たすきをし、大根等で山積みにした荷車三台を、一台10人がかりで曳きながら、地主鴻池本邸周辺を地主怨嗟の声を叫びながら、何回も廻り歩く示威行動を繰り広げた。警官隊の妨害によりあちこちで小競り合いが起き、支部長が一時検束されたため、荷車を更に五台増やし、今度は鴻池合名会社鴻池社長宅周辺と市内に散在する鴻池銀行の各支店を4日間にわたって押し寄せ、練り歩いた。11月3日午前には自動車四台に、小作人の娘軍が乗り込み市内を疾走し「鴻池糾弾!」のビラを大々的に撒き、午後6時からは中央公会堂において、地主鴻池糾弾の演説会を開催した。11月8日、小作、地主の話し合いで解決した。11月9日、約250名の小作人全員が農民組合に加入し、さらなる小作料減額を要求し、10日鴻池はこれに応じた。
4、石生豊田小作争議
岡山県の赤磐郡の農民は1921年以来小作料永久3割減を要求し活発に闘ってきていた。その運動は峻烈を極め、その過程で階級意識に目覚めた結束強固な組合として赤磐郡の農民は日本農民組合の中でも有名であった。石生村、豊田村の頑迷な地主4名は、農民の要求を頑として拒絶し、逆に農民に土地返還を迫り、1924年11月5日には「立毛稲仮差押」処分を断行してきたことで、旭東四郡の農民組合は一層団結を強め、ここに大争議が勃発した。他の地主たちも次々と小作人に対し仮差押訴訟を起こしてきた。仮差押をした地主は、12月21日人夫40名を雇い入れ、一斉に田の稲の刈り取りを始めた。旭東四郡の農民組合数百名が駆け付け、大阪農民組合本部も各地の支部に緊急応援指令を出した。瀬戸警察署警官隊と衝突となり農民側が数名検束された。22日にも約200余名の農民が押しかけたが、瀬戸警察署署長は、刈り取り田んぼへの立ち入りを阻止し、一人たりとも村内に入れなかったため、あちこちで小競り合いがおき、警官隊は暴力で弾圧し、農民側は殴られて気絶する者、首に縄を駆けられ引っ張られる者など多数の負傷者と21名もの検束者が出た。その夜半、農民は密かに全員が岡山市に向けて出発し、後楽園でみなと落ち合い、23日早朝から岡山知事に訴えようと県庁に押しかけた。面会した知事は農民にまともに対応せず、石生豊田小作争議は、この年ついに未解決のまま年を越えた。
5、兵庫県上東篠村小作争議
兵庫県上東篠村の地主と小作人との間で争議が起きた。1922年(大正11年)の凶作で小作料の減額を求める農民との争いであった。地主の不誠実な態度に憤激した農民は、「相愛会」を結成し、小作側の団結を強めた。地主側は地主組合を作って小作農民と対峙してきた。しかし、1923年(大正12年)にも再び凶作に見舞われた農民は更に小作料の減額を懇願したが地主側は無情にも再びこれを拒絶してきた。ますます怒った農民は、1924年2月、今までの組合内の積立米を全額売却し、又、94名の小作地全部に「共同耕作田」と記した表札を押し立て、膨大な共同苗代を作った。地主側は5月1日、「耕地立ち入り禁止」処分で対抗してきた。村長や郡長が調停に乗り出したが、地主側は頑として調停を拒否し、更に右翼に依頼し自宅を防衛した。地主側は、隣村などから雇い入れた農民を使って耕作をさせようとしたが、地域の村民は闘う小作農民に同情し、誰も応じなかった。次に地主側は水平社の労働者に目を付け、わざわざ耕作地にバラックを建てて、水平社の労働者を雇い働かせようとした。しかし、水平社社員は闘う小作農民に同情して、一人も雇われなかった。こうして地主の目論見は大失敗に終わった。7月、農民組合を脱退した二人の農家から出火した事件が起きた。農民組合が疑われ幹部が留置された。8月、農民組合は総力を挙げ、慰問品を荷車数台に満載し、各地の農民組合支部の組合旗を先頭に、上東篠村に押しかけた。応援農民全員で、留置された組合員の田に入り、田の草取りなどの農作業をして引き揚げた。11月17日、地主側は、農民組合が共同耕作地としている田の競売を、裁判所を連れてきて強行してきた。総価格1千647圓の内、1千9圓は農民組合側が競落した。残りは地主側が取った。争議は一層深刻化を増し年を越えた。
6、伏石小作争議
香川県香川郡伏石の小作人13名は、1923年(大正12年)の凶作で地主に小作料の減額を要求したが、1924年(大正13年)11月、地主は「立毛差押え」と「稲立毛競売」で応えてきた。怒った小作農民は、田の差押表札を破壊し、落札立毛稲作を自分たちで刈りとり、また地主の番人を殴打した。地主側は告訴して、12月5日検事局は農民9名を検挙した。ますます怒った農民は、6日伏石の全耕作地10町余歩を「共同耕地」とし、共同耕作を開始した。各地の農民組合約600名も各支部の組合旗を先頭に、耕作牛100余頭も引き連れて、伏石に押しかけ示威運動的作業を行った。高松検事局は、農民組合の顧問弁護士と農民組合香川聯合会会長を検挙し刑務所に収監すると共に25名の農民を検挙してきた。伏石小作争議もこうして年を越えた。