「朝鮮人の賃金と待遇を日本人と同一とすること」を要求の一つに掲げて、朝鮮人労働者と共に闘った滝呂町空前の製陶大争議 1926年の労働争議(読書メモ)
参照 「協調会史料」
――日本製陶労働同盟「瀧呂製陶争議経過報告」(大正15年10月28日)より――
滝呂製陶争議
1926年当時、岐阜県土岐郡笠原町滝呂は過去の家内工業から近代的工場組織へ急速に発達した製陶地で、地域には32もの製陶工場があり、工場主たちはは岐阜製陶業組合を組織し、主にアメリカに輸出されるコーヒーカップを製造していた。町全体が少数の資本家とその工場で働く多数の賃金労働者とに完全に二分化され、中間層はほとんどいなかった。しかも資本家に共通する態度は、極度に貪欲、無恥、無知でその上傲慢不遜を極めた、実に教養なく常識なき田舎資本家の典型的なものである。従ってその下で雇用されている労働者の状態が冷酷悲惨を極め、驚くべき長時間労働を強制され、しかもあまりにも低い賃金で酷使されていたことは言うまでもない。最近工場主側は、約50名の朝鮮人労働者を雇った。更に低賃金でこき使おうというのだ。階級闘争の発生と激化は避けることのできない必然として十分に準備されていた。
1926年4月に滝呂製陶の約60名で滝呂製陶労働組合を結成し、日本製陶労働同盟に加盟した。組合員は次第に増加し、8月には朝鮮人労働者約40余名も含めて250余名が労働組合に加入した。
(闘い)
8月の賃下反対闘争
無謀なる生産過剰と工場拡張を続けアメリカ向け輸出がついに不景気となった。工場主・岐阜製陶業組合は1926年3月に労働者の賃金1割を賃下げし、ついで5月にまた1割を賃下げした。この時は組合の組織は弱くただただ涙を呑んで屈従したが、工場主・岐阜製陶業組合は8月はじめに、さらに賃下げと一ヵ月のうち10日間を休業すると発表してきた。労働者の血をくらい尚飽くことない悪魔は更に骨をしゃぶり自らの本能を満たそうとするのだ。吸血鬼の会社! 滝呂製陶労働組合はこの時ついに初めて立ち上がった。しかし、この時点での組合数はわずか130名ほどで組合の力も弱かったため、賃下だけは撤回させることはできたが、10日間の休業は8月だけは認めることで8月5日に妥結した。
再び争議が勃発した。9月3日製陶労働組合は以下の要求を提出した。要求書の中に、「朝鮮人労働者の賃金と待遇を内地人と同一待遇とすること」があることに注目して欲しい。
要求書
一、賃金は従来通りとし、毎日就業すること
一、やむなく休業する場合は、月7日以内として休業手当を支給すること
一、雑役工などの賃上げ
一、朝鮮人労働者の賃金と待遇を内地人と同一待遇とすること
一、工場法の規定を実行すること
(9月5日滝呂町空前の大争議がはじまった)
しかし、工場主側はあくまで1割5分の賃下を強行しようとしてきた。労働者とその家族が飢餓で苦しもうが、泣こうが、一人不義の栄華を貪る資本家の貪欲な本性が今や赤裸々に暴露された。かくして3日間の交渉は決裂した。9月5日徹夜で開かれた滝呂製陶労働組合大会は、最後には満場一致で総罷業(スト)決行を宣言した。かくして1926年9月5日、滝呂町空前の大争議が開始された。
(堂々たる争議団の陣容 一糸乱れず持久戦に進む)
戦友250余名(うち朝鮮人労働者40余名、女性9名)は滝呂製陶労働軍の精鋭である。ただ遺憾に耐えぬのは30余名の窯焚労働者が争議に参加せず、また130余名の婦人労働者が僅か9名以外はストに参加していないことである。実に彼らはいまだ組合に組織されておらず偶然争議の戦線外に残ることとなったのであるが、これが労働側の大なる不利となったことは疑うべからざる事実である。実に今回の争議が40余日の久しきにわたって尚解決の曙光をも認め得ぬほど長きに至った一面の原因は、これら窯焚工、女性労働者を争議の園外に残したことにあるのである。労働者の大同団結がいかに必要なるかを如実に証明する一例として特記する。
しかし、それにもかかわらず争議団250余名の結束は巌のごとく固い団結と一糸乱れぬその統制は敵の臍を寒からしめたる堂々たるものがある。
(略)
持久戦は必然であった。争議団はただちに四方に分かれて県下、更に遠くは名古屋、大阪、下関等までの製陶へ臨時に出稼ぎを開始した。組合は仕事先を紹介し、旅費を与えてこれを助けた。争議開始後10日にして争議団の五分の四は愛する妻子を後に残して勇ましく遠征した。残れる者は行商を営み、演説会を開き、出稼ぎ者の家族を慰問し救済しながら、各工場前でのピケッティングを厳しく行い、争議は整然として進行した。
(争議調停の動き)
第一回目の9月20日以来、組合側は労働争議調停法にのっとり3日間にわたって熱心に調停成立に努力した。しかし、最後に資本家側は「滝呂製陶労働組合が日本製陶労働同盟を脱退しないと交渉に応じない」と非常識な暴言を吐いて席をたった。3日間の努力は水泡に帰した。
第二回目は10月5日笠原町長らによる調停交渉だった。資本家側は、「同盟を脱退するか、賃金切り下げを認めるか二者のどちらかを選べ」と迫った。組合側はこれでは問題にならないとすぐに席を立った。町長らは呆然として逃げるように去っていった。
第三回目は10月12日、滝呂の祭礼の役員有志12名による斡旋が開かれた。争議団は三日前に争議の統制権(妥結権も)を日本製陶労働同盟に全部預けていた。調停者は希望として、「一年に一度の祭礼を、かくのごとき全町を挙げての大争議の中で迎えることは遺憾に堪えない。なんとか今日中に解決して欲しい」と訴えた。しかし、会社は「協議する意思はない」というもので、調停者も争議団もあっけにとられた。
こうして3回に及んだ調停交渉はすべて不調に終わった。その理由は滝呂製陶王国では森村組など5.6名のボス的存在が頑として調停を拒否したことにあった。
(盛んな応援)
同盟各組合、友誼団体からの精神的・物質的応援が益々盛んになっていった。各地から届く大量なお金やお米、激励電報や続々と駆け付ける応援闘士と弁士。地元の町民の全町あげての応援もある。
(一人の裏切りも出ていない)
資本家に反抗する解放の闘いに献身する争議団はその意気は天を衝いて、団結は巌よりも固く、闘い50日未だ誰一人の裏切者も出ていない。
争議団員は朝夕に迫る飢餓窮乏の恐怖を撥ね返しながら、そして全国からの応援を受けて頑張っている。
以上
以上が、日本製陶労働同盟による1926年10月18日までの「滝呂製陶争議経過報告」です。
(争議解決)
10月21日労資共合意で妥結し滝呂町空前の大争議は終わりました。妥結内容の詳細は不明です。