新潟鉄工所蒲田・築地工場争議団ビラ(1923年8月21日)
600名の決起! 1923年新潟鉄工所蒲田・月島工場争議
3月新潟鉄工所蒲田工場争議、6月東京(月島)工場と蒲田工場の争議
参照
協調会資料(新潟鉄工所蒲田・月島工場争議)
労働年鑑第5集/1924年版 大原社研編
3月第一次争議(蒲田工場)
新潟鉄工所蒲田工場には、東京鉄工組合蒲田支部が活発に活動していた。1923年3月19日、会社はこの組合をつぶさんと鉄工組合蒲田支部のリーダー3名を解雇してきた。翌日朝、機械工全員約280名がサボタージュ闘争に突入した。午後労働者一同は以下の要求書を提出した。会社がこの要求の受け入れを拒絶してきたため、翌21日よりストライキを敢行した。
要求書
一、日給制を復旧の上、8時間日給とすること
一、退職手当の制定
一、評議会員は職工より三分の二以上選出する事
一、解雇された者の復職
右要求す。大正12年3月20日蒲田工場 従業員一同
ストライキ労働者は、矢口村に争議団本部を設置し、連日労働歌を高唱しつつ蒲田町内と工場付近の示威運動を行い、就業している仲間たちに「我らと行動を共にせよ」「君の仲間を裏切ることなかれ」等のビラを配布し、朝夕労働者の交通路において争議団加入を勧誘した。たちまちスト参加者は激増し、就業する労働者の数は激減し工場は全面的に止まった。
4月2日会社は操業を再開したが、工場に向かう道路に多数のストライキ労働者が群がり、出社する事務社員らには罵声を浴びせた。現場の鉄工労働者は誰一人としてスト破りをする者はなく、誰も工場に入らなかった。この日、関東総同盟会長(兼東京鉄工組合会長)から会社に対して争議解決に向けての会見要求をだされたが会社はこの面会要請をすぐに拒絶した。
10日、争議団は内藤社長宅ら会社役員の自宅におしかけた。
12日午後3時、日比谷の本社において会社役員と争議団7名の協議が行われた。13日ようやく労資が円満に合意して争議解決が成立した。
記
一、時間給を1割以上3割内外の増加
一、解雇手当は世間並にして近き将来発表する
一、共済会評議員の社員を半数とする
一、解雇者3名の復職はしない
覚書
一、全員は従前どおり協同一致して従業すること
一、各自自覚して今後工場の秩序を犯す行為をするものを出さないこと
一、ストライキに加わった人や意見が異なる者とも和合すること(悪感情を一掃し排斥等をしないこと)
14日午後2時工場入場式を挙行し、笹村専務らが訓示をし、次いで大森警察署の挨拶があり、16日より一同が就業することとなった。
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6月第二次争議(月島・蒲田工場)
1923年(大正12年)6月26日、会社が新解雇手当案を発表したが、翌27日、蒲田工場労働者だけでなく、今回は東京月島工場の労働者の計600名が共に解雇手当の改善を求めて決起し、この日からサボタージュ闘争に入った。29日、サボタージュ闘争は依然として続いている。労働者は工場内外に集合し、激烈な文章ビラを貼りつけ、また赤旗を押し立てるなど緊張は高まった。6月30日会社は月島、蒲田両工場を7月3日まで工場閉鎖するとを発表した。総同盟は松岡駒吉理事らを派遣し応援体勢を強めた。
7月2日、会社は今回の事業縮小を理由として蒲田工場73名、月島工場7名をクビにしてきた。
7月5日、月島工場の労働者は食堂に集まり、演説や赤旗で押し寄せて労働歌を高唱し工場内をデモをし緊張が高まった。
7月19日、労働者は、要求書(一、解雇者を全員復職すること等)を提出した。
8月4日、労働者代表8名が日比谷の本社に出向き内藤社長に面会を求めたが拒絶された。突然70余名の月島、蒲田の争議団は本社に殺到し、二階の応接室まで駆け上がり、消化器・灰皿等を投げつけたため、日比谷警察署は警官10数名で70名全部を日比谷公園に収容したが、再び本社に押しかけようとする争議団と警官の間で衝突となり、13名が検束された。その後争議団は重役の私宅に押し寄せ、また日本石油株式会社に内藤社長を訪ねた。
7日以降も本社と日本石油株式会社並びに社長、専務など重役の私宅を個別に訪問した。
11日には、10名の労働者は顔面に墨を塗り大きなダンボールに「不穏文書」を書いて首から下げて日本石油に押しかけた。
13日午後1時半、争議団約90名が突然会社役員との面会を要求し本社事務所に乱入した。日比谷警察署の警官多数が動員され数名が検束された。さらに14日午後3時、月島・蒲田の労働者約200名が一斉に喚声をあげて「工場長をやっつけろ」と叫び工場内になだれ込んだ。所器物やガラス戸大小20あまりを破壊し、工場長室に突入して工場長を包囲して糾弾した。警視庁と検事が現場臨検し検挙をはじめた。大森警察署は争議団の幹部約百数十名を検挙し、63名を騒擾罪等で起訴し東京監獄に収監した。喜んだ会社は、今こそ組合は屈服するだろうと、早速8月20日からの操業再開を発表してきた。
争議団は18日、蒲田、月島のそれぞれの工場で労働者大会を開き、最後までの奮闘を誓いあった。
8月20日、操業を開始した工場に、600名組合員にはスト破りの一人の裏切り者はなく、この日工場に出たのは職制などわずか20名に過ぎなかった。
(争議団ビラ)
8月21日、争議団は、「全国の労働者諸君に訴ふ」の闘う決意に溢れるビラを配布した。〈一人の裏切り者なく結束はますます固く奮闘を続けています。全国の労働者諸君! 戦いはまさに二ヶ月にわたらんとしています。我らの家族は餓死に迫られています。官憲の圧迫は日に激甚を加えています。しかしながら我ら争議団六百の心はすでに決しています。資本家の暴虐が勝つか、我ら労働者の正義が勝利を得るか、餓死か突進か、我らは組合旗を擁して、最後の一人となるまで戦うの覚悟を有しています。〉
スト破りが一人も出ない状況と、この激烈なビラをみた会社は、22日、ついに日比谷の本社において労働者代表11名と交渉した。会社ははじめて解雇者に10圓、家族ある解雇者には15圓を支給すると告げてきたが、この場では合意には至らなかった。
その後総同盟本部では今後ますます徹底的に応援することを決定し、25日には争議報告演説会を開催した。
(関東大震災と急遽の争議終結)
9月1日、関東大震災が勃発した。月島工場は全焼し、多くの労働者と家族に甚大な被害が出た。本社建物も損傷した。事業の再開も容易にめどが立たない状態となった。
9月20日、労資協議の結果、急遽争議を終結することとして、「一、震災手当として家族あるものには25圓に米一斗、単身者には15圓に米五升を支給する、一、罹災した家族あるものには15圓、単身者には10圓を支給する」等の条件でとにかく落着することになった。