るるの日記

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仏教史・熱原法難・極端にかたよった信仰・逃げないのは勇敢だが役には立たない

2021-07-11 13:48:58 | 日記
熱原法難

天台宗竜泉寺は名の知れた大寺だった。日興上人の大折伏により、竜泉寺僧・日秀、日弁、日禅をはじめ多くの人々が改宗していくのをみて、竜泉寺院主代・行智は驚き、これらの人々に天台宗にもどることを迫った

日秀、日弁、日禅の3人は逆に行智の迷妄を開かそうとし、ついに行智の怒りは爆発😡💣️⚡️有無をいわさず追放を申し渡した

こうしたなかで熱原では、百姓・神四郎、弥五郎、弥六郎などの熱烈な信徒が多数活躍するようになった

行智は対策を考え、神四郎の兄、弥藤次は神四郎と合わず、大いに法華誹謗していたので腹心とし、武士とも組んで、迫害の時を伺っていた

しかし、法華信徒は意志強固で、ますますその信仰を固めるのみであったから、行智の行動はいよいよ凶暴化し、4月には信者四郎坊を傷害し、8月には弥四郎の首を切ったのである。しかもその罪科を日秀、日弁、法華信徒に転化するという所業に出た

1279年9月21日、日秀たちが稲刈り中、行智派は大挙して弓馬をもって百姓に乱暴の限りを尽くし、神四郎、弥五郎兄弟以下20人を縛ると、政所へ引き立てて行った

急を聞いた日興上人は、この行智の邪策を憎み、信徒の悲嘆を思いやり、ただちに身延へ馳せ、日蓮大聖人の旨を受け、竜泉寺申状をしたためられ、日秀、日弁を従えて鎌倉に馳せ、問註所へ訴願した

しかし取り調べにあたったのは、日蓮大聖人を虐げ、命まで奪おうとした平左衛門頼綱であり、裁かれる者は頼綱が憎む、法華の信徒であるために、理を非に曲げるのは当然だった

頼綱は神四郎、弥五郎ら20人を自邸の庭に引き出し、「汝ら速やかに法華の信仰をやめて念仏を唱えるならば、即座に罪科を赦してやろう。否と申せば厳罰に処す、よくよく思案を定めて返答いたせ」と厳しく申し渡した

神四郎は「私どもに法華経を捨てよと仰せられますが、身を殺しても法を護るのが私どもの本業でございます」ときっばり言い放ち、しかも法義を説いて逆に改宗を求めるという不敵な態度に、頼綱は烈火のごとく怒った💢😠💢

頼綱の次男は矢をつがえて、神四郎たちをめがけて矢を次々と放ちはじめた。しかし少しも改宗の色を見せないので、再び牢の中へ幽閉

日興上人は、即座に急使いを立て、この趣を身延へ報告。これを聞いた日蓮大聖人は深く感嘆され、早速御返事が送られてきた。その内容は
「神四郎たちは、釈迦多宝十方に護られて、寂光の宝刹に安住するであろう。だが平左衛門頼綱は、先に日蓮を虐げて国難をひき起こしている、その前途未だ危きにもかかわらず、いまだ大罪を重ねるとは、その末路はまことに憐れむべきである」
(平左衛門頼綱父子は、その14年後、謀叛を起こし、同じ邸で殺されている)

神四郎たち20人は、ただ一心に題目を唱えて、信仰ますます強盛であったが、1279年10月15日、神四郎、弥五郎、弥六郎三兄弟は、刑場に引き出されて、斬罪に処せられ、残る17人は追放された

🤔るるの私見
醜い宗教弾圧だ
だが、、
本心を隠して「法華経を捨てます」と言って、念仏を唱えることを選択していたら、(やってもいない)罪科を赦され死なずにすんだのだ

それができないような心境は、極端な偏りではないだろうか?釈尊の説く中道ではなく、極端に偏った心の状態。中道であれば状況判断し、心にもないことをスラスラと言葉にして無罪放免を勝ちとり、、また法華経行者として生きていけたかもしれないのに。


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