――あの店員、遅いよな、、
――もっとパッパっとできんのか、、
――あのバアさん買いすぎだって、、
――こんなに並んじゃって、マジ腹立つ、、
そんな怒りの声が、列のあちらこちらから聞こえてるくる。列の中程に並ぶユウヘイも、気が長い質ではない。そんな声がなければ、自分も憤っていただろう。外野の声がかろうじてユウヘイの冷静さを保たせていた。
缶ビールをひとつ買いたかっただけだ。ものの数秒で支払いを終えて、家に帰るつもりだった。
8時から観たいボクシング中継があり、普段通りに帰れば間に合う時間だった。コンビニでビールを買う時間を含んでも余裕はあった。そうであるのに、こんな足止めをくらうとは思ってもみなかった。
ユウヘイがボクシングに興味を持ったのは、子どものときに見たいくつかの格闘アニメの影響だった。自分もあんなふうになりたかった。でもなれなかった。自分は観る側の人間であると知った。
次第に生身の闘いを観るようになり、テレビで放送されるようなビッグマッチは必ず観たし、気になる試合でチケットが取れれば生で試合を観に行くこともあった。
周りにはそんな共通の価値観を持つものはおらず、メディアを賑わすほどのビッグマッチでなければ、誰かとそれについて話しをすることはなかった。今日はそのビッグマッチと言っていい試合だった。それであるのに、、
年配の女性は食料品を大量に買い込んでおり、さらに外国人のレジに何やら質問をしている。どうやらレジ横のコロッケが欲しいようだが上手く伝わっていない。
レジの女性は嫌な顔ひとつせず、あたかもそれが当然のこととして、唐揚げか、春巻きか、順番に確認してお年寄りに寄り添っている。そしてこの列をなす状態であっても、動じることなく落ち着いた対応を続けている。
余程の強靭なメンタルの持ち主か、状況を把握できないほどアタマが回らないのか、どちらにせよユウヘイにとって好ましくはない。
当の本人の後ろに並ぶフードを被った女性は、買う予定らしき冊子を開いて集中している。買うつもりでも買う前の本を読むのは、立ち読みになるのだろうかと、余計な心配をしている場合でなく、助け舟を出す様子もない姿に腹立たしさを覚えてしまう。
端で見ていれば子どもでもわかるようなジェスチャーで、やり取りを繰り返しているのに、一向に埒があかない。ユウヘイがレジまで行って教えてやりたいぐらいだが、列を外れて行くのには勇気がいる。
戻ってきて同じ場所に戻れる保証もない。いやそんなことより周り目がある中で、うまく事態を収める自信が全くない。こういう時にしゃしゃり出て、これまでうまくできたためしがない。それがユウヘイを萎縮させていき、ストレスを増大していく。
誰もが誰かが何かを言い出すのを期待して、匿名で悪舌をつくことはできても自分からは行動するつもりはなく、見て見ぬふりをしているようで、自分もそのひとりであることに落ち着いている。
もうひとりの店員も外国人で、奥で商品の補充をしている。この状況をわかって補充を続けているのか、気付かないフリをしているのか、それとも補充をすることが最優先事項なのか。黙々と続けている。
それを見てユウヘイは、彼にとってレジが滞って客が並ぼうが、それによって店の評判が悪くなろうが、それで客数が減ろうがどうでもいいようにみえた。彼が真面目に働く姿も歪んで見えるほどユウヘイは苛立たしさが募っていた。
このコンビニはモールへ続く通りの角地にあり、モールの東側の玄関のような存在だ。10時には通りへの進入路が閉鎖されてしまう。建物自体はモールの中にあるが出入り口は、外の大通りに面しているので営業には支障はない。
モールの組合には入っていても、さすがに10時に閉店ではコンビニとしてやっていけない。そんな例外は他にも何軒かある。いずれも立地条件がうまい具合にかなっている場所だった。そうでない店は受け入れるか、店仕舞いするしかなかった。
一つ前の会社帰り風の女性が、聞えよがしに言った「あの人、レジやればいいのに、、 」。
聞こえても彼らには通じないと、わかったうえで言っているようだった。いわば確信犯で、自分は意見を言えるという周りへのアピールをしている。
街のコンビニで高いサービスを求めることがそもそも間違いで、この程度で甘んじる代わりに、価格が抑えられていたり、人手が確保されることを望んだ結果だ。あえて言葉が通じにくいか、通じないと思わせる異国人を雇うメリットはそこにあるのかもしれない。
どうやら賛同する者の声が同調を呼ぶことを期待している節もある。何にしろ自分からは動くつもりがない。誰も自分が当事者にはなりたくない。正論を主張することも、匿名の範囲で留めて置きたい。矢面に立って責任は取りたくない。いわゆる選挙の時に誰がなっても一緒だからと、選挙に行かない理由を声高々に言う人たちと同類だ。
さらにユウヘイの後ろに並ぶ高校生らしき二人連れの会話が耳障りでしかない。
「オレ、ちょっと、文句言ってこようか?」。そうするともう一方は「ガイジン働からかねえな」と、ななめに返答する。
普段から、そんなお互いの役割が決まっているようで、一方はやりもしないことを口に出して虚勢を張り、一方はその言葉を直接的にではなく肯定する。それがエンドレスに続いていく。
「なあ、おれ言ったろか?」「うん、アイツ、なんでレジしないか、ワケわからん」「あのバアさん蹴ったろか」「ボケ老人、多いよな」そんな、聞いていて噛み合わない、彼らには噛み合った会話が続いている。
ユウヘイは自分の心がささくれ立っているのがわかる。すべての状況に対して否定的な感情しかわかない。違う状況で聞けば、すべてたわいもない会話なはずだ。
後ろの若者達の会話に嫌気がさしつつも、ユウヘイも次第に焦ってきた。理解していても落ち着かない。それが自分の弱さであり、そうして自分の性格が一層イヤになっていく。
ライブ放映されるのボクシング中継は8時からのスタートだ。この日のために有料のコンテンツに入会して、満を持して臨んでいた。選手入場やらなんだかで、15分は余裕を見ても残された時間は多くない。
試合前の両者の状態や駆け引きも重要な観戦ポイントだ。そこから得られる情報も多く、ビール片手に気持ちを昂ぶらせていく予定だった。
老婆がようやく買い物を終えたと思ったら、財布の中からクーポン券をいくつか取り出して使えるモノがあるか訊きはじめた。店員も良くわかないようで、一枚一枚手にとっては確認している。まだ時間がかかることが確定した。
ビールの冷たさが指先からジンジンと伝わってくる。手で握っているとカラダが冷え込んで、それに伴ってビールの冷たさが緩んでいくのでこうして持っていた。
こんなことなら昨日のうちに買っておけばよかったっと悔やまれる。そうであればこんなところでムダに時間を浪費せず、行列にイライラすることもなかった。
失敗したときに限って過去の同じような体験を思い出す。運が良かった時もあったのに、自分は判断力の乏しい駄目な人間だと、そんな後悔したことばかりがアタマに浮かんでいく。
そのあいだにも店のトビラが空いて新しいお客も来るが、この列を見て引き返していく。余程の急用がなければここで買わなければならない理由はない。自分が入ってきた時にこの状態であれば入らなかった。その時に戻りたい。
自分はココに並んで時間を使ってしまった為に、その損失を取り返さねばならないし、その時間が有益なものであったと認知できる理由が必要だ。今この列を離れれば、その時間が不易だったと認めることになる。
トータルで考えればそうしたほうが正しいかもしれないのに、自分が離れてからスムーズに列が動きはじめたらと考えると決断できなかった。もうすぐ事態が改善されると信じている。まんまと負のループに取り込まれてしまっている。
ふたつ前に並んでいた男がしびれを切らしたようにチッと舌打ちをして、手に持っていた2本のプロテインバーを近くの棚に突っ込んで離脱していった。
スイーツが並べられた商品棚に置かれたそれは、場違いであり握られた跡が残っている。あれではもう売り物にならずに廃棄処分されるだろう。監視カメラに映っていたら、賠償請求されるのだろうかと、ユウヘイは缶ビールを左手に持ち代える。
あのプロテインバーと違って、散々手にしたこの缶ビールをもとに戻しても、次に買う人が気づくことはないだろう。それは同様に自分が手にしている缶ビールの履歴も不明といえる。すべては性善説のうえでなりたっている。なにも不具合が起きなければそれで世の中は回っていくだけだ。
もしかしたら生活に困っている住まいを持たないような人が手にしたものの、お金が足りなくて仕方なく買うのを諦めたかもしれない。トイレで用を足したあと手も洗わないような人が、どのビールがいいか何本か手にとって見比べて、落選したモノかもしれない。
もっと言えば、、 とあり得ない想像に走り出し、顔を歪ませるユウヘイはもう一度指先でつかむようにして、接触面を最小にしていた。こんなことをして何の意味があるのかと自分を笑う。
握り潰されて廃棄処分されれば次の人に渡ることはなく、そう思えばプロテインバーの男は正解なのかと変な納得の仕方をしてしまう。
ユウヘイはビールをそこらにおいて離脱した自分をイメージした。ここまでで並んでいた時間を無駄にしたくない思いと、この先無駄に消費される時間が天秤にかけられる。プラス、ビールで一杯やりながらボクシングを観る楽しみも捨てられない。同じことを繰り返している。
クーポン券やらポイントカードの件が一段落したと思えば、次は支払いで新たな問題が起きたようだ。膨れ上がった財布から、小銭をバラバラと出して数えはじめた。
また時間がかかることが決定した。ユウヘイの意識が自分の制御から外れた。
「おい、バアさんいい加減にしろよ。こんなに並んでんのがわかんねえのか!」
「アヤさあ、ホントにオンナなの?」ショウタの顔に悔しさが滲んでいる。
「なんでヨ?」
アヤは橋の欄干に腕をのせて川の流れを漠然と眺めていた。ショウタは欄干を背に、ボールを体に挟んだ状態で座り込んでいる。モールの通りから離れた場所にふたりはいた。
ショウタが騒ぎを起こしてモールに迷惑をかけてれば、その尻ぬぐいはマサヨのところにやって来る。忙しいさなかにそんな面倒が増えれば仕事が遅れてしまうと動揺していた。
ただでさえ、モールで子どもを遊ばせないでと会長からは口うるさく言われており、マサヨのような子持ちでは、かと言って家に閉じ込めておくわけにもいかず、言うことを素直に聞く年頃でもなく思い通りにならない。
ショウタはただ、アヤにサッカーを教えてもらおうとボールを奪おうとしているだけで、通行人が勝手に集まって盛り上がっていることを自分の所為にされては、たまったものではない。「そんな、、 」
「ゴメンなさいっ!」ショウタが言い訳をしようとするとアヤがそれを遮った。
「アタシがいけないんです。ショウタを巻き込んでしまって、ゴメンなさい、、」ボールを両足に挟んだ状態で、手を後ろに組みアヤはあたまを下げた。
取り巻きにしていた人垣は、なんだか居心地が悪くなり、まわりの様子を伺いながらその場を離れて行った。いつまでもアタマを下げているアヤに、マサヨもどうしてかいいかわからず、店先でいつまでもそんなことをさせておくわけにもいかず取り成した。
「わかったから、アタマをあげてちょうだい」
「ショウタは何も悪くないです。どうか決めつけて怒らないでやってください」
「アナタ、どなたなの?」見知らぬ女性が低姿勢でショウタをかばっている。マサヨは振り上げたコブシの落としどころを失い、怒りも失せていく。
「サッカークラブの関係者で、ショウタに今日のおさらいを指導してたら、熱がこもってしまい。やりすぎました。別で続きをやりたいので、ショウタをもう少しお借りしていいですか?」
そういうことならと、マサヨはココではやらなきゃかまわないと釘を刺して、ショウタを預けることを承諾した。その時間で仕事をかたづけようと、いそいそとまた店内に戻ってく。
そんなやりとりのあとふたりはふらりとモールを歩き、ここに行きついた。なんとなく会話も途切れたところショウタの悔しさがぶり返してきた。
「だってさ、サッカーうまいし。オッパイ、ペッチャンこだし、、」
すかさずアヤの右足がショウタの足下をつつく。
「あのさあ、ショウタ、、 もう少し言いようがあるでしょ。ピンチを救ったんだし、それ二重の意味で失礼よネ」
「だってさああ、、」そう言いながらも二重の意味がわかっていない。
「アタシがオトコだったら負けた言い訳が立つって思ってるんでしょ。じゃあさあ、そうやってみんなに言ってまわったら? 実はオトコだったから、負けたってしかたないってさ」
蝶々がヒラヒラとショウタの鼻先を嘲るように飛び回ると、欄干の上にとまり羽根を閉じた。
「ごめんなさい、、」ショウタはぐうの音も出ず首をもたげる。
「ショウタ、サッカーうまくなりたい? それとも誰かのマネをしたいだけなの?」
とまっていた蝶々がまたヒラヒラと舞いはじめた。澄んだ川には小魚が2~3匹で、流れに逆らって尾びれを振っている。
何も言ってこないショウタをみて、アヤが続ける。
「アタシはショウタがうらやましい。戦ってくれる相手がいるからね。倒すべき相手もいる。なんだってできる。負けたってやり返せる次がある」
「 、、アヤはいなかったの?」
ハナシの流れからそうなのかと訊いてみた。アヤは少し間をおいた。訊いてはいけなかったのかもしれない。進むことのなかった小魚は身をひるがえし川岸に進み、流れが弱まったところで回遊しはじめた。
「どうだろ? いたのかもしれないし、見つけられなかったのかもしれない」
高校生になってからは部活に入らずに、ひとりで練習を続けていた。何かと戦うことにもう疲れていた。自分の技を高めることだけに集中していた。
比べる対象は何もなく、うまくなったのかどうかもわからない。こなせる技は増えていった。それが何の役に立つのか、どの場面で使えるのか、何もわからない。
ただ誰とも争わない状況に気持ちが楽になると同時に、もう一度誰かと戦ってみたいという気持ちを、いろんな理由をつけて押し殺していた。
それが今日、ショウタと戦うことで、ひとつひとつ検証出来ていった。真剣に戦うことに理由はいらなかった。あの日の自分と相対させながら、なによりも本気になっていく自分を止められなかった。
それと同時にわかったことは、どれだけ練習を重ねてきても、小学校4年の自分を越えられていないことだった。もちろん技術はあの時とは雲泥の差ではあった。
あの時のカラダの動きは脊髄反射で反応していた。誰よりもうまくなりたいと渇望した。誰にも負けたくないと貪欲だった。いまの自分は技術はあってもその根本的な部分が劣化していたことに気づいた。
時は戻ってこない。どんなに望んでも。もう一度はないのだ。その時にやるべきこと、やりたいことをしておかなければ後悔だけが後に残る。
「あのさショウタは、アタシと勝負してて、悔しいばっかりだった? 悔しくて何とかしたくって、やり返したくて、、」
ショウタはジロりと上目遣いになった。悔しかったに決まっている。
「 、、悔しい気持ちがあるうちはいいよ。まだショウタは戦える。でもね悔しがってやるより、楽しんでやったほうがいいんじゃない」
ショウタはアヤの言う事をポカンと聞いていた。悔しさをバネに強くなるのがマンガや、アニメで見たヒーローだ。楽しんで戦ったらヒーローではない。
アヤは今はそうでもしかたないとショウタの顔を優しく見た。自分もわかっていなかった。サッカーをすることで敵を作り、敵に打ち勝って認めさせることが目的になっていた。
「自分よりうまい相手がいたらワクワクしない? どうやって倒してやろうかって楽しくてしかたないけどな」
アヤはショウタと戦ってるとき、いつも笑ってた。それは楽しんでいるというより、バカにされているとしか思えなかった。
「ボクだって、うまくなりたいんだけど、、」
ショウタはアヤに何を言われても、どうすればいいか判断がつかないままだ。それがわかっていれば、これまでもやっていたし、このままではわからずに日々を過ごしてしまうのも目に見えている。
自分は本当に上達できるのか、母親に苦労をかけてまでやるほどの価値があるのか、そうまでしてやった結果が報われるのか。
時折りこんな刺激を受けて少しはモチベーションが上がったりするが、それを継続させるまでの熱量にはならない。そうであったことを後悔するのは、やはりアヤぐらいの年齢になってからなのか。
あって当たり前の環境を用意されている者は、そのありがたみを知ることはなく、手に入れられない環境にある者は、なにをどうあがいてもその恩恵を受けることはない。
その分あがくことへの熱量が高まり、自分の力量以上を発揮できることもある。自分をここまで高めることはできたのは逆説的に言えば、目の前にある障害のおかげだったとアヤは感じていた。
「あのね、ショウタ。なんでもできるコがウマくなれるわけじゃないヨ。できることが少なくて、たくさん詰め込めなけりゃ、できたことだけを磨いて自分の武器にすればいい。そうすればその武器は誰にも負けない力を持ち、ショウタが戦うための強い味方になるんだから」
なんだかゲームの攻略でも指導されているようだった。ショウタは自分ができることが少ないから、仕方がないと言われている気になっていた。サワムラやアヤのようなテクニックをマネするなどおこがましいと。
すぐそこにある成果は、捕まえられないからこそ捕まえようとして、捕まえるために自分を高め、それでも届かないことで継続し続けることができる。
手の届く場所に最初からあり、いつでも自分のモノにできるならば、誰が努力を惜しんでそれを手に入れようとするだろうか。
「誰かのせいでこうなったとは思わないように、自分で決めなよ。ショウタは自分で決められるポジションがあるんだからさ」
ショウタは小さく肯いた。肯いてみたものの本当はアヤの言葉が正解なのかわからなかった。アヤがそう言ったからそうなんだと肯定した。
ポジションはフォワードがやりたかった。コーチにはフォワードは希望者が多いから、別のポジションも考えておけと言われた。余り見込みがないのだろう。何れにせよアヤの言っている意味とは違う。
まわりには自分よりうまいコがいっぱいいた。ショウタもそうなりたいのになれない。練習だってしてるのにうまくなる感じがしない。コーチもいろいろ教えてくれるけど、やってみせると少しこまったカオをして、何回もくり返せと言うだけだった。
アヤは足下にあった小石を蹴って川に落下させた。水面にしぶきと波紋が拡がり、ある場所まで来ると流れに取り込まれて消えてしまう。川は何もなかったように、すぐにいつもの表情へ戻っていった。
アヤの目にも当然ショウタの不味いところは見えていた。自分ならこうするのにとか、こうすればいいのにとか幾つも注意点が浮かんだ。
自分はそれを大人から指摘されるのがイヤだった。反発して余計にやらないこともあった。かつて自分に線引きをした大人に嫌悪感を抱いていたはずなのに、自分がその立場になれば同じであることに心が痛んだ。悲しくて涙が出る。
「どうしたの、アヤ? 泣いてるの?」
「ボクさあ、ガンバるからさあ、泣かないでよ。うまくなるように努力するからさあ」
なんとかしてアヤを励まそうと、ショウタはそんな見当違いのことを言い出した。アヤは洟を啜って涙をこらえた。
「そういうことはお母さんにいいなよ。そんなことよりさあ、ショウタ。どうするの?」
「なにが?」ショウタはおとなの女性の涙を見てドキドキしていた。
「サッカー教えてってハナシ」あきれてアヤがそう言った。
「でも、ボク、ボール取れなかったよ」
「アタシは、イイよ、、 ショウタが望むんなら」
「ホント!? 、、でもボク、アヤにお金払えないよ」
「なにショウタ。アンタ、お金払ってナニ教えてもらうつもりなの?」
アヤのこれまでおかれた環境と、持ちえる能力を何のために使えるかを考えたとき。それがもしショウタの役に立つならそれでいい。ショウタが持ち得た力が、それを持たない人の支えになるなら、同じようにしてくれればいい。それが自分への対価になるはずだとアヤは思った。
「そういうことは、アタシからボール取れるようになってから言いなヨ」
ショウタの腹に収まっていたボールをアヤは足先で掻き出す。コロコロと橋の向こう側へボールは転がっていく。
「あっ、ズルいぞ」これはズルいといえた。ショウタは立ち上がってボールを奪いに行く。
アヤも続いた「アタシね見た目より大きいんだヨ」。変なところで意地を張るアヤだった。
ショウタはボールを自分のモノにしたと確信した。アヤのスキを出し抜いて、あっという間にボールを奪取できたと脳内興奮が全開になった。
それなのにショウタの足先がボールに触れようとしたその時、ボールは消えて無くなっていた。まぼろしを見ているのかと目をパチクリとさせる。
ショウタの足先より、一瞬早くアヤの足がボールに触れていた。
ショウタの目線では見えない部分を足先で引っ掛けるとボールはアヤの元へ転がり、トゥで持ち上げられショウタの背丈の分だけループして背後にポトリと落ちていた。
勢いがついているショウタは前のめりになり、無様に地面に這いつくばってしまう。その上を飛び越えたアヤはボールを足下に保持し、腰に手を当てて振り返る。
「ズルいぞ!」ズルくはないが、大人げはなかった。ショウタが転ぶように仕向けたプレーだ。
「ほら、どうした? そんなんじゃ、いつまでたっても補欠だゾ」アヤがそう言って煽ってくる。
ショウタは言われたくないことを面前で公にされて、アタマに血が昇ってしまう。そんな調子では普段できていることさえできやしない。いいようにアヤのトラップに引っかかり続ける。
アヤは決して手を抜かなかった。子どもだろうが、能力の有る無しに関わらず、勝負事には常に真剣に向き合うつもりだ。
ショウタにサッカーを教えたくないわけではない。相手に勝ちを譲って手にしたモノに何の価値はないと、自分のこれまでの経験がそうさせていた。
やれ年下だから、女のコだからと勝負の土俵にもあげてもらえず、お手盛りの勝ちを与えられてきた。そんなものは屈辱でしかなかった。
アヤもまた小さい頃からクラブチームに入り、おとこの子と一緒にボールを蹴っていた。誰よりも練習してクラブの中では上位のテクニックを持つまでになっていった。
男女の力量に差が出る年齢になり、他の女の子が辞めていったり、他の女子スポーツに移って行っても、アヤは男子と一緒にプレーした。
同年代の男子では相手にならず、年上とマッチアップするようになっても、アヤは相手を出し抜いて競り勝つことができた。それなのにアヤが上手くなればなるほど、自分の居所はなくなっていった。
「ほら、行けっ! もう少しだ」
何を争っているのか知らない人だかりも、子どもがからかわれているようで、判官びいきもありショウタにヤンヤと声援を送りはじめた。
そうなると恥ずかしさもあって気持ちが空回りしてしまう。慌てて立ち上がりアヤに向かうが足がもつれてもう一度転ぶ。脛が擦傷し血が滲む。
そんなショウタをさらに小バカにするように、アヤはボクシングで言う所のスウェーで身を引きながらボールを保持する。
ショウタは追いかけても、追いかけても、すんでのところでボールが逃げていく。アヤがそのタイミングを見計らって、取れそうなところでボールを引いていた。
あと少しで取れないことが続き、それがショウタのやる気を継続させている。同時にムダな動きが多くなり直ぐに息が上がってくる。
誰もがアヤと対峙するのを嫌がっていた。そして誰もが真剣にアヤと戦うのを止めてしまった。
戦いの最中でそうされる分には、まだ仕方ないと割り切ることができた。誰の目にもそれが明らかであり、コーチからも叱責が飛んだ。
そうすると今度は勝負が終わってから、コーチやアヤがいないところで手を抜いてやったとか、勝たしてやったとか言われることになった。
全力で戦って手にしたはずの成果は、その言葉で何の価値もなくなって行った。コーチが注意していないのだから本気でないはずもなく、アヤにも自分の能力が優った手応えがあった。それなのに、それは多分にオンナに負けた恥ずかしさをごまかすために言っていることだった。
オトコ仲間はみんな、そもそもオンナ相手に真剣になるなんてありえないなどと言い捨てていた。アヤには真剣勝負を証明する手立てなどなく、実力で優った手応えがあっても、誰もそれを信じることはなかった。
孤立していくアヤの居場所は心理的にも、物理的にもなくなっていき、アヤは誰とも戦うことができなくなっていた。
まわりの大人たちはみんなアヤを慰めた。オンナの子なのによく頑張った。それが枕詞についた。そしてそのあとには、もう十分やったじゃないかと、終わりを示唆する言葉が続けられた。
どのみち小学校を卒業すれば、女子はクラブに残ることはできない。報われない戦いを続けるだけの動機が溶解されていった。
「ガンバレ、ボウズ!」「それ、そこだ!」など、思い思いの声援が飛ぶ。
人だかりからのそんな声援に、何かのイベントかと足を止めて、通りがかりの人々がさらに増え、身を乗り出して様子をうかがう。
今のショウタは、昔のアヤだ。人々は小さなショウタを無責任に応援する。そうあることで自分の寛容性であったり、公平性を再確認している。自分は弱い者の側であることに安心感を持つことができる。ショウタにもいつかそれが逆転する日がやってくる。
アヤは背後に人だかりを感知したところでスウェーすると見せかけ、右側3メートルほど先に立っていた男性の足下を抜くようにアウトサイドからパスを出し、自分も人だかりから外に出た。
股抜きをされた男性は驚いて後ろを振り返る。ボールの位置はショウタとアヤとの丁度真ん中で止まった。ショウタは小さいカラダを利用して、自らその男性の股をショートカットして潜り抜ける。
男性はショウタのジャマをしないよう、地団駄を踏むように足をバタつかせると、ドッと笑いがあふれた。
ショウタが抜け出した先には、アヤがすでに待ち構えている。悔しがるショウタを嘲笑うかのようにボールをけり上げると、重力を感じさせないようなふわりとした軌道を描き、対向する側の人だかりの前にポトリと落下しようとする。
そのまま弾んで外に出ると読んだショウタは、人垣の周りを走って反対側に向かう。人々はそんなショウタを目で追いかけ「いそげ」「まにあうぞ」と声をかける。
みんながショウタに声をかける。そうするとなんだか自分が有名選手にでもなった気分になってきた。全力で動き回ってキツイはずなのに、練習なら足を止めてしまうはずなのに、カラダは軽くボールへの執着心は消えることはない。
ボールの軌道を考慮すれば、ワンバウンドして人垣を越え、ショウタが先回りしたその場所に来ると想定された。誰もがショウタの読みを肯定して、これで勝負ありだと確信する。
かくしてボールはバウンドすると人垣の外ではなく、方向とは逆に中心に向かって弾んだ。強烈な逆回転がかかけられており、反対側へ弾むように仕向けられていた。そしてその先にはアヤが悠々と待ち構えていた。
「そんなんで、アタシに教えてもらおうなんて、甘いねエ」
「オーッ」という歓声とともに、拍手がわき起こった。想定外の出来事に、アヤのテクニックに誰もが感心していた。
時間にして3分も経っていないのに、ムダな動きばかりしているショウタは、さすがに子どもと言えど肩で息をして、次の一歩が出なくなっている。
アヤはボールとショウタを走らせているだけなので、汗もかいていない。足でボールを押さえつけているアヤに、ショウタは動きを止めてボールを睨めつける。
動きがなくなり群衆から野次が飛ぶ「どうした、もう降参か?」。そんな声を耳にしてショウタは焦るばっかりで、何の手だても思い浮かばない。
これだけ良いようにかわされては、やみくもにボールを追っかけてもムダだとは、こども心にもわかっている。勢いで戦える時間も終った。相手を疲れさせるどころか、自分だけが疲労困憊だ。
自分を応援してくれていた人たちも、ショウタの不甲斐なさや、ボールを取れそうもない手詰まりに、今やアンチに変わってきている。アヤの次の技に期待しはじめている。そうすると増々力が削がれていくようだ。
一体自分は何と戦っているのか。それはアヤも同じであった。戦う自信があるのに戦わせてもらえない。対等で有りたいのに拒否され続けた。オンナだからという理由で。弾き出されれば弾き出されるほどに、意地になっていった。戦うべき相手はソレではないはずなのに。
当時は女子がサッカーを行う環境はまだ整のっておらず、あったとしても主要都市の一部に限られていた。それも誰もが進めるような開かれた場所ではなく、登竜門を駆け登ってきた一部のエリートしか門戸を叩けない。
さらに言えば、入ったからといってサッカーに専念して生活ができるわけでなく、食い扶持は自分でなんとかしなければならない過酷な現実が待っている。
こんなところで燻ぶっていては埋もれてしまうと、クラブのコーチや関係者アヤのことを思って、遠方の県にある女子クラブのある小学校への転入を勧めてくれた。
それしかサッカーを続ける選択肢はなく、仕方がないこと誰もがしたり顔でそう言った。そんな慰め言葉を聞く度に何か敗北を受け入れるようで相容れなかった。それが体のいい厄介払いだともわかっていた。
アヤの実力を知り、いくつかのクラブが勧誘に来ていた。家から離れた場所に頼る先もなく、そのために引っ越しが出来るような家庭環境ではないため、アヤの耳に入る前に両親から断りを入れていた。ハナからサッカーでメシを食べて行くコに育てるつもりはなかった。
もとよりアヤもそんなことを望んでいなかった。自分はオトコより上手いこと証明したいわけでも、他の女子と違うところを見せたいわけでもない。ましてや女子フットボーラーの立場を改善するためのアイコンになりたいわけでもない。
ただ最高の舞台があるならば、そこで戦いたいだけだった。
クラブチームへはいかず中学校の時は男子のサッカー部に入った。練習はできても、試合に出れないことは承知のうえだった。
練習をしていて自分でも十分対等にできると確信できただけで、それで十分だった。アヤは小学校の時のように自我を出すことなく、自分のほうができるとアピールすることもなく、男子をプレーでやり込めることもしなかった。
練習が終われば、マネージャーの仕事もした。道具の片付けから汚れ落とし、部室の掃除にグラウンドのトンボかけ。練習スケジュールの作成から、対外試合の予定組など、キャプテンや顧問の先生と一緒になって準備した。
そんなアヤの姿を見て、男子は安心したような雰囲気になり、アヤがそのままでいてくれることを望んでいたように、言葉も態度も柔らかくなっていった。
遠くから自分の個性が塗り固められていくようだった。高校に進んだアヤは、もうサッカーを止めてしまった。
「ショウタ! アンタなにやってんの!」マサヨがこの騒ぎに気付き店先で叫んだ。
母親に知られることなど考えもせず、戦いに集中していたショウタはビックっと身体を硬直させた。
「スッげーんだ、サワムラ選手。こうして、こうして」
ショウタは、店先でサッカーボールを足でコントロールする。足先とスネでボールをはさんでから、ボールを中心に足先を一回転させて、もう一度ボールをはさんで止めるトラップを見せようとする。
小さい足でボールをはさむのにはまだ無理があり、サワムラのやったようにはうまくいかず、すぐにボールはこぼれ落ちて転々と店先に転がっていく。
「ちょっと、店先でボール蹴っちゃダメだって、いつも言ってるでしょ」
売り物の花に当たったら大変と、話をそこそこに聞いていた母親のマサヨは、ボールが転がってくるのを見ると驚いてすぐに制止する。
「けってないだろ」ショウタは口先をとがらせて反発する。
今日の出来事を母親に聞いて欲しく、あえて店先でやっているのに、そんな言われ方をされて悔しい思いもあり、そんな屁理屈を言ってしまう。
「口ごたえしないの!」不毛なやりとりにマサヨもイラついてしまい、つい言葉がキツくなる。
今日はショウタが通っているサッカークラブで交流会があり、トップチームの選手がショウタの練習場にやって来た。
ショウタがあこがれているサワムラが、パフォーマンスでリフティングから相手を出し抜くようなトラッププレーを見せて喝采を浴びていた。
ショウタも目を輝かせて、サワムラの動きをひとつも見逃さないとばかりに、最前列で食い入るように見ていた。
帰りのミーティングでコーチに、あれはプロのプレーだからオマエたちにはまだ早く、マネせずに基本のプレーを忠実に練習するようと釘をさされても、ショウタはサワムラのプレーを自分もできるようになりたくて、家に帰ってから練習しようと決めていた。
交流会には誰もが両親揃って見学に来ており、今日ばかりは母親や父親と一緒に帰っていく。そんなチームメイトの姿を見ながら、ショウタはひとりで家路を急いだ。
仕事の都合で交流会に顔を出せない母親に、今日の出来事を聞いて欲しいし、この練習を見てもらいたくて店の前でやっているのに、母親のマサヨはかまってられる状況ではない。
今日はお得意さんからの注文が入っており、明日の納品の準備をしながら、来店客の対応にも追われていた。
店をひとりでキリモミしているマサヨは、クラブの集いがあるからといってその度に休むわけにもいかず、これまではすべて欠席していた。ショウタに寂しい思いをさせているのはわかっている。
それも高い月謝を払うために少しでも売り上げを伸ばさなければならないからと、入会するときに約束していたことであり、人手が足りなくてもバイトを雇う費用も抑えるために、ひとりで頑張っていることもショウタに理解して欲しい。
ショウタもそれはわかっていても、まだ小さい子どもだ。かまって欲しい日もある。特に今日のような特別な日であれば興奮も抑えられないだろう。
マサヨにしてもそれは重々承知していた。それなのにキツく当たってしまう自分にもストレスを感じてしまう。マサヨは肩をすくめて店の中に戻っていく。
頬を膨らませて、腹いせもあってボールをモールの通路に向かって蹴飛ばすショウタ。力なく転がっていくボールは通行している女性の足に当たって止まった。
ショウタがゴメンなさいと言おうとすると、その女性は足の甲ですくうようにボールを持ち上げ、つま先をクイッと上げてボールを宙に浮かせ、膝でワンクッション経由して額の上でピタリと止めた。フードがあたまからずり落ちて、ショートのブラウンヘアーが少し揺れる。
一連の流れるような動きにショウタの目は奪われた。女性はアゴをあげたまま額の上でボールをキープしているので、ショウタの方を見下ろす。
「キミのボール?」ショウタは声がでない。コクりと首をタテに振る。
女性は首を横にして落下させたボールを肩で弾ませてから、左足でボールをコントロールしてショウタの前で弾ませた。ワンバウンドして胸の前に来たボールをショウタはキャッチした。
「コラー、手ェ使っちゃダメだろ」膝丈のチェックスカートの腰元に両手を添えて、ショウタにクレームをつける。
「おねえちゃん。じょうずだね。プロの選手?」
女性はその問いには答えず、ゆったりとしたTシャツのハーフ袖から、細身の腕を伸ばして指先でボールを寄こせと合図した。ショウタは手にしたボールを下に落として、彼女にヒールパスを出した。
「わたしは、アヤ。まだプロじゃないけどね、、 」
コロコロとアヤの足下に転がるボールは、スッと前後に入れ替えた右足底で止めてから、素早く足裏で滑らせた。紺色のスニーカーが踊るようにステップを踏む。ボールは逆回転がかかって跳ね上がり、踵で蹴り上げられる。
「キミは?」ボールはアタマを越して、シルバーのネックレスが揺れるアヤの胸元を通り、Ⅴ字にした足首にスッポリと収まった。今日サワムラが見せた止め技と同じだった。
名前を聞かれたと判断したショウタは、名前と小学校4年であることを伝える。「フーン」とアヤは言い、振り上げた右足からボールを放ち、前かがみになって両腕をいからせた肩甲骨のあいだでボールを止めた。
顔の位置がさがってショウタの目線の位置まで降りて来た。
「おねえちゃん、スゴイね。どうしたらそんなにうまくできるの?」
「ショウタもサッカーやってんでしょ? だったらさ、ボールといっつも一緒にいなきゃ」
そう言ってアヤは背を正す。背中のボールがスルスルと、アヤのお尻から太もも、ふくらはぎを通って再び踵で蹴り上げられる。今度は持ち上げた膝の上に吸い付く。
「おねえちゃんも、そうしてうまくなったの?」
膝の上にあるボールを凝視しながら言うと、その目線が下にさがっていく。アヤが折り曲げていた足を延ばしてボールを足先まで滑らせていく。
ボールが脛をつたって足先に来ると、ボールを回転させながら右足と、左足で交互にリフティングを繰り返しはじめた。それが答えなのか。
「ねえ、アヤ、ボクにサッカー教えてよ」
ラフな格好の女性が、ショッピングモールの真ん中でリフティングを繰り返していればどうしても目立ってしまい、少しづつ人の輪ができはじめていた。
「さんづけしなよ。まあアヤでいいか、、」
ショウタもアヤもそんなことはお構いなしに話しを続ける。
「クラブに入ってんだろ?」
アヤはショウタの着ているクラブチームのユニフォームを見て、自分の胸を差してそう言う。クラブのネームが印刷されていることを伝えている。
トップチームのジュニアに所属していると知れてしまい、ショウタはいまさらながらにユニフォームのチーム名を手で隠す。
小学校4年生で試合にも出してもらえない。練習と言えば基本の反復ばかりだ。それが重要なことだとはわかっていても、一生懸命やる動機にはどうしてもつながらなかった。
子ども心にも会費の支払いで母親に迷惑をかけていることも気になっていた。こんな調子で続けていてもうまくなれる気がしなかった。
「なあ、いいだろ? おしえてよ」
リフティングを続けるアヤに脈があると、ショウタはたたみかけてくる。
ボールを中心に足先をクルリと回し、また足先でつつく。そんな小技をからめると、まわりの人垣から歓声があがる。ショウタは自分の手柄のようにまわりを自慢げに見回す。
「わたしから、ボールを奪うことができたら教えてあげてもいいかな、、 」
そう言うとアヤは宙を舞っていたボールを地面に転がし前方1mの場所にセットした。
「えっ、ホント?」言うが早いかショウタは、すかさずそのボールに喰いつこうとする。
瞬時のことでアヤも気を抜いていたのかもしれない。あっというまにショウタの足先がボールに届く。
あのーと、突然呼びかけられて、ダイキは驚いてそちらに目をやる。
大人しそうな女性が申し訳なさそうに立っていた。
「スイマセン、ここのピアノの演奏は8時までなんです」
さらに申し訳なさそうに、消え入るような声で何かを指差してそう言った。ダイキがその指の先を見ると、木枠に立てられたボードに、ピアノの演奏に関する但し書きが貼られていた。
”演奏は午後8時まで”確かにそう書かれている。酔いざましに飲み屋から歩いているので、かれこれ10時は過ぎているだろう。
ボードがある反対側から椅子に腰かけたので、ダイキは気づいていなかった。謝罪の意味でアタマを下げ、長居は無用と腰をあげようとすると、アキがあわてて言った。
「いえ、悪いのはわたしなんです、、」
ダイキは意味がわからない。少し首をひねる。
「 、、わたしが忘れてたんです。本当は8時になったらピアノのカバーを下ろして、カギをかけてシートをしなくちゃいけないのに。それを忘れてて、、」
通りがかりのダイキに、それを釈明しても仕方ないはずだ。ダイキは咎めるつもりもない。
近頃ではそういったミスをなじったり、逆ギレすることもあるので下手に出ているのか。それに酒が入っているとわかるダイキを警戒するのも仕方がないところか。
「いえ、悪いのはこちらです。注意書き見落として。それに、それを見なくたって、こんな時間に非常識ですよね」
なるべく丁寧に、相手に対して敬意を込めてこたえた。
「あっ、いえ、ピアノの音が聴こえてきて、思い出せてよかったです。以前も忘れてた事があって、それも夜中に音が流れてきて、慌てて止めに行ったら、酔っぱらいサンで、、 出してあるから弾いてもいいと思うだろって、怒鳴られて、それで随分と長い間、お叱りをうけて、、 」
アキはそう言って下を向いた。やはりダイキが想像した通り、そんな過去の苦い記憶が彼女にはあったのだ。お叱りなどと柔らかい表現をしているが、多分相当に絡まれたのだろうと想像がつく。
同じように酒が入っているダイキに警戒をするのも仕方なく、さらに前例をあげて、同じようなことをして欲しくないと、予防線を張っているようにも見えた。
小柄な女性と自分のような男では、恐怖を感じてもしかたない。ダイキとしては、そんなヤツと同類にされるのも心外なので、なるべく冷静に、温和に話をする。
「あなたはここのモールの管理者の方ですか? 大変ですね、こんな遅くまで」
夜中に気づいたということは、店舗に住み込みで働いているか、管理会社で夜間管理を担っているかどちらかとの読みだ。店舗で住み込みしているならば、立ち入った話になるので管理会社を先にした。
ただ、彼女の容貌からは、夜勤の警備を仕事にしているようにはとても見えず、気を使って話すにしても無理があったかもしれない。
「いえ、あの、ココって、新しい感じのモールなんですけど、昔の商店街の名残が残ってて、月一回ぐらい各お店で夜当番があるんです。だからつい、、」
だからつい忘れがちなのだと言いたいのだろう。アキは下を向いて所在なさげになった。ふたりのあいだに言葉が途切れ、しばらく静寂が流れた。
その時、どこからかオトコの荒くれた声が聞こえた。アキの顔にサッと不安がよぎった。心臓がつかまれたように痛んだ。この良き日に悪いことは起きて欲しくない。
ダイキも耳をすませた。アキの顔から血の気が引くのが目に見えてわかった。何かあれば自分が手助けするつもりだった。
次にイヌが鳴くような声が2回、3回と聞こえ、そしてまたモールは静まりかえった。ダイキは大丈夫とばかりにアキに何度がうなずいて見せた。
今度は広場につながる通りに足音が聞こえてきた。そのリズムだと走っているようだ。ダイキは立ち上がりその方向を見た。女性らしきランナーが駆けていく。アタマから被ったフードの中から、こちらをチラッと見たようにみえた。
「あのひと、イヌに突っかかって吠えられてもしたんでしょ」
ダイキはそう言ってアキを安心させようとした。
「えっ、ああ、はい、そうみたいですね。よかった」ホッと、安堵するアキ。
これでは彼女に夜警など無謀すぎるとあらためてそう思った。ダイキもこのまま帰るには忍びなくなっていた。言葉をつながなくてはと、それにしても、、
そう言い出しながら、何を言うべきか考えている。アキは上目遣いに顔をあげる。
「、、大変ですね、、」
どうにか出てきた言葉がそれだった。最初にも大変だと言っており。大変なのを認めさせようと、必死になっていると思われるようで何とも気まずい。
「そうなんです、、」そうアキは合いの手を入れてきた。
ダイキの苦し紛れに、アキの不満がつながったようだ。さきほどの恐怖から解き放たれて、たまっていた言葉が排出された。
「いくら当番とはいえ、どの店にも同じように夜警をさせるのは無理があると思うんです、、」
確かにダイキも最初に気になった部分であった。酔っぱらいに絡まれてトラウマになってしまうメンタルで、それ以上の状況に対応できるとは思えなかった。
どんなお店に勤めているのか、線の細いこの容姿では、犯罪を未然に防ぐどころか、二次被害につながりそうで心配になる。今の状況を見ても明らかだ。
「 、、それにウチみたいな新規出店の新参者は、回数も多いんです」
愚痴られても何の解決案もなく困ってしまうダイキだが、今はアキの話を聞くことが大切だ。
そうだったんですねと労う。きっとモールの組合で、そういった力関係が働いているのだろう。
「さすがに危険だと感じたら警察を呼びますけど、だからと言って安易に通報もできないし。どこからって線引きが難しいんですよね」
その結果、酔っ払いにご指導ご鞭撻をいただいたのだ。
ぐるりと通りを見渡すダイキ。いくつもの店舗が死んだように並んでいるだけで、生活感は伝わってこない。昔の商店街なら通りに面する場所に店を構えていても、奥が住居になって人が住んでいたので治安も保たれていたのだろう。
今時なら、防犯カメラとか、警備会社に委託するのが無難なはずだ。
「確かにそうですよね。下手なこと言えば、その人みたいに逆ギレされるかもしれないし」
あくまでも自分はそちら側ではないとダイキは含みを込める。アキは目を閉じてうなずいた。自分の中にあったわだかまりがスッキリして開放的になっていた。
今日は思い切った行動がすべて良い方向に進んだ。そういう日は何をしても成功する。そんな一日になった。ならば最後にもう一つだけ願いをかなえたい。
一方のダイキはそうではない。今後の人生を左右する重大局面にいた。さしあたっては妻にどのように言い訳するかを考えねばならない。それなのに何か夏休みの宿題を後回しにするように、現実を遠ざけていた。
アキはピアノの椅子に腰かけてしまった。ダイキは本当は早くピアノから離れたかった。警備の話しをしたのもピアノの話題に振られたくはなかったからだ。
「素敵なメロディでしたね。何だか昔、聴いたような? 聴いたような、、」
アキがポツリと言った。
「、、、」
ダイキの目論見は残念ながら叶わなかった。ストレートにその部分を付いてこられ、ダイキはふたつの意味で苦笑いだ。
さすがにダイキも時間帯を考慮して、小さな音で弾いていた。思い出しながらであったし、スローテンポになったことも合い間って、余計にバラード調になってしまった。
本来のテンポではないからか、それともリズムが悪いからそう聴こえたのか、いずれにしてもオリジナルには程遠い曲調になってしまっていたので、それをどこかで聴いたと言われると恥ずかしいばかりだ。
せめて何と言う曲なのかは聞かないで欲しいダイキだ。
「何て言う曲なんですか?」
「、、、」
目を伏せて天を仰ぐダイキ。ことごとく向かいたくない方向へ進んで行く。やはり今日は厄日なのか。
「あっ、ごめんなさい、余計なこと聞いて。前のひと、デタラメに弾いてて、今日は音が聴こえてきた時、慌てたけど、聴いたことのあるメロディで、何だか少し安心したんです。きっと前みたいにはならないって」
またも予防線を張られた。前回の印象がそれほどキツく、よほど辛い体験だったのだと同情しながらも、その経験を活かして、新しい自分を模索している姿も見て取れた。
誰しも自分だけが弱い人間だと負い目を持っている。なにをしても運がないとか、自分の時に限ってそうなるだとか。そういう負の思いに囚われていては前に踏み出せない。まさに今のダイキだ。
そんな時は自分より不運なひとを見つけることで、自分はまだマシであると心のバランスを取ろうとする。そんな対比で自分を上げたところで、なんの意味もないとわかっているはずなのに。
落ち込んでも、またはい上がれる。人生はそんなものと、これまでの経験が示しているのに、今はどうしてもそう考えられない。
だがそれはふとしたきっかけで好転することもある。はい上がる時に前より強くなっていればそれでいいのだ。いまのアキのように。
それは自分が弾いた曲に込められたメッセージに近いのではないか。高校の時は意味もよく知らず、語感の耳障りだけでカッコよく感じられていた曲だった。
大人になってからその訳詞を知り、ストーリー性のある世界観と、勇気づけられる言葉に改めて魅せられたことがあった。
自分もいつまでも引きずっているわけにはいかない。ダイキはアキの姿をみて、また、こういう場に遭遇して、これは自分に与えられたチャンスなのかもしれないと思いはじめた。
「そうだったんですね。静かに弾いてよかった。でもホントはロックの曲で、もっとスピード感のある曲調なんだけど、高校の時以来で、思い出しながら弾いたから、こんな感じになってしまっただけで、、」
「あっ、やっぱり、そうですよね、、 アメリカンロックバンドのヒット曲ですよね。わたしも若い時によく聴きました。大好きな曲なんです。だから、そのバラードアレンジなのかなって思って、、」
彼女はいつも、”あっ”と言う感嘆詞から話し出す。それが癖なのか、常に何かに驚き、それを緩和する目的で使っているのか。
「そんな、、 アレンジだなんておこがましい。そんなテクニックなんてないですよ」
アキがピアノから離れなかったのは、できればもう一度、ダイキにこの曲を弾いて欲しかったからだ。思い出の曲であり、あのタイミングで耳にした曲。今日という最良の日に花を添えるにふさわしい曲だ。
とは言え、あからさまにリクエストもできない。どうにかしてそういう方向に持って行きたく話を振っているのだが、なかなか思うようにはいかない。
ダイキも、もう一度この曲を弾いてみたかった。最初の演奏で大体の感触が戻っていた。次に弾けばもう少しマシな演奏ができそうだった。そして明日への希望が見えるような気がした。
しかし、止めに来た人にもう一回弾いていいいかとは訊けなかった。先ほどの警備の話しにかこつけて探りを入れることにした。
「見た感じこのモールは、店舗に人が住んでいるわけではなさそうですが?」
「えっ、ええ、そうです。どの店も皆さん出勤して来るんで。もちろんわたしもそうなんですけど、この日ばかりは仕方ないです」
ダイキがなにを気にしているのか、アキにはうすうす気づきはじめていた。
「じゃあ大丈夫だ」そう言うダイキの言葉に、アキは何が大丈夫なのか理解できた。
「大きな音を出さなきゃ、ピアノを弾いても」と続けられ、アキは期待を込めてうなずく。
遠回りはムダではなかった。ガツガツと結果だけを求めるよりも、関係のない会話から本意に導かれることもある。アキには今日の復習になったようだ。
ダイキはメロディラインを奏でた。これぐらいなら大丈夫かと目を送る。彼女もそれに応えてうなずいた。
高校時代に何度も繰り返し、練習して必死に覚えたことは、時が経っても薄れることはなかった。それがこんんなカタチで披露できることになるとは思いもしなかった。
軽やかなイントロからはじまる。誰もが一度は耳にした馴染のリフだ。彼女も首を振ってリズムを取る。
――独りぼっちの少女と、都会に憧れる少年が、住んでいる場所から旅立って行く、、
テンポのいいイントロを経て、ダイキが口ずさむと、彼女もそれに合わせて歌い出す。
サビに入るとダイキは少しだけ弾力を強くした。ただ、鍵盤を押し込むのではなく、直ぐに離して余韻を残さないようにリズムを取った。
アコースティックピアノのいいところでキーのタッチで好きな音量にできる。それにはじめて弾いて気付いたことが、意図せぬタッチが良い具合の音を出して表現が広がっていくこともあった。
――見知らぬ人が待っている通りに。闇間に希望を隠して暮らしている、、
ダイキと彼女は身体を大きく前後させてハモっていく。
――街明かりに照らされても、自分の感情を出せずにいる、、
その想いを吐き出すような間奏に入る。本来ここはギターのソロパートだが、ダイキもユニゾンで弾けるように練習していた。
ギターが自分のテクニックを見せつけるように、いつもアドリブで弾き出すので、原曲の章節を把握できるように、他のメンバーで決めたことだった。
彼女もそれに合わせてハミングをする。ダイキは笑みがこぼれた。そして間奏と同じメロディーラインである最後のパート。
――信じることをやめないで、、
ささやくようにして合唱した。顔を見合せたふたりは笑顔を見せあった。
エンディングはミュージックビデオでもお馴染みのポーズで決めた。両手を挙げて人差し指を立て天を指す。
そしてアキは小さく拍手をした。ダイキもそれにあわせた。なにも打ち合わせしなくても、ふたりがそれぞれ持っていた過去の記憶が、ここで折り重なって再現された。
「今度は、営業時間に思いっきり弾きに来てください」アキはそう言った。
ダイキは微笑んだままうなずいて見せた。しかしお互いに、その時間は訪れないであろうと知っていた。今はこの時間がつくりだしたキセキに感謝するだけでよかった。
アキは今日の接客中に起きた嬉しかったことを思い出しては頬が緩んでいた。夜になって新しいアロマの抽出をしている手が何度も止まってしまう。
夕方に度々コーヒーを飲みに来てくれる年配の会社員風の男性は、入店する時は疲れ気味に見えても、コーヒーを飲み店を出るころには元気を取り戻している印象があり、気になっていた。
そんな姿を見ると、何だか自分の淹れたコーヒーで、その人を元気づけられているようで嬉しかったし、漠然とではあるが常連さんになってもらえそうな予感があった。
今日も夕方に現れ、店に入って来たときから気にかけていた。その人はいつもと同じカウンターの席に陣を取り、いつもと同じオリジナルブレンドをオーダーした。
いつもごひいきにしていただき、ありがとうございますと、思い切っていってみた。実は少し前から今度来店したら声をかけてみようと、アキは密かに考えていたのだった。
そういう心構えでいると、そのタイミングが来た時に自然と声がでるもので、変に気取ることなく、席に着くと同時にスッと言葉が出てきて自分でも驚いてしまった。
その人は、最初は少し驚いた表情をするも、すぐに柔和な表情になり、外回りで疲れた時にココのコーヒーで一服すると、心持がスッキリしてきてね。もうひと踏ん張りと元気づけられるんだよと、アキにとっては最高の誉め言葉を言ってもらえた。
キッチンに戻ったアキの耳に高校時代によく聞いていた曲が届いた。先ほどの高揚感も手伝い、思わず口ずさみそうになってしまい口に手をやって抑えた。
アキの店ではインストロメンタルのBGMを流している。クラシックやジャズの定番の曲から、演歌からロックまで、様々な曲がスローバラードにアレンジされるチャンネルを選局している。
たまに自分のお気に入りの曲が流れると、ついハミングしてしまうこともあり、滅入った気分の時は気分転換にもなる。今日のように良いことがあった時であれば、増々気持ちがノッていける。
アキの店のようなコーヒーのチェーン店ではない独立店舗では、気軽に一見のお客が入ってくることは多くない。気まぐれで入店した客や、ちょっと休みたいと思ったところで、たまたまそこにあったから寄ってくれた客をリピーターにするぐらい、他の店にはない独自の店の雰囲気とか、味とかで勝負しなければ経営が成り立たない。
何度も通ってくれるのを期待しているだけの待ちの姿勢ではいけないのはわかっている。三度来てもらえるのを二度に、二度を一度にと、提供するコーヒーの精度を高めていく心構えで取り組んでいる。
初めての客であっても、今の体調や心理状態を観察し、好みを読み取って、それに見合う唯一無二のコーヒーの抽出をすることを最終的な目標と理想に掲げている。
それであるのに何度も通ってもらえていることに気づいていても、声がけするべきかどうか考えているうちに、タイミングを逸してしまうことも何度かあった。普段からの心掛けがうまくいった好事例となり、今後の自信にもつながる出来事だった。
常連さんになってもらえれば、何気ない会話をする中で、ここのコーヒーやお店に何を求めて来店しているか、そういったヒントも見えてくる。それをヒントにお店の色付けをして行けたらと夢は膨らむばかりだ。
今夜はモールの夜警の当番日に当たっていた。居抜きで借りた店舗には、以前は建物の1階を店舗として使用されていた造りで、そこをコーヒーショップに改装した。2階の住居は今は使われていなかった。
日頃は自宅に帰っているアキも、毎回この夜警当番の日だけ、そこに布団を敷いて泊っている。夜にひとりでいても手持無沙汰で、かといってこの日だけすぐに寝られるものではないので、この時間を利用して新しいアロマの試作をするようになった。
夜警の当番があると会長から聞いて、アキは驚いたと言うより呆れてしまった。いったい自分に何ができると言うのだろう。そう言うと、会長はなにかあれば警察に電話すればいい、そこまでが仕事だと言われ、それ以上に言い返すことができなかった。
要は防犯カメラ代わりということで、体のいい費用の削減を担わせているだけだ。それにしてもこの広範囲の敷地をひとりでカバーするには無理がある。
外見は新しいショッピングモールでも、元は古い商店街をリメイクしているだけで、モールの運営には少数ながら昔からいる者が影響力を持っており、これまでの風習を変えようとしない。
以前はほとんどの店舗が住宅兼用になっており、商店街全体で防犯機能を持っていた。いまではそのよう老舗はなくなり、アキのように自宅から通い、仕事が終われば帰宅するのが通常だ。
夜になるとゴーストタウンになってしまうモール内で、人もクルマもいなくなった通路を大音量のオートバイが走ったり、酔っ払いが『出会いの広場』と呼ばれる中央の広場で大騒ぎをはじめ、警察沙汰になったこともあったらしい。
そのようなこともありモールのほどんどの店が閉まる10時には、外部からの侵入ができないように、モールへの通路の入り口が閉鎖される。
夜遅くまで営業をする種類の店が数件あるが、その店のためだけに通路を開けておくわけにもいかず、店の裏口を利用するなどする妥協案に応じ、この運営方法を受け入れた。
そういった意味では安心安全で健全なモール運営にもつながり、それを売りにする方向転換も図れ、以前は少なかった若い女性の客も増えたようで、アキのような店にも恩恵があるのであまり文句は言えないのも確かだ。
アキが何度目かのニヤケ顔をしたところで、何か音が聴こえた気がした。作業を止めて耳をすましたところ、それからはなにも聴こえない。気のせいかと思い直し、新しいブレンドの抽出が途中になっているカップからアロマを手繰る。
アキが声がけしたその人は帰り際に、でももう年だから、コーヒー飲んで頑張るのもほどほどにしておくよと言われ、せっかくお近づきになれたのに、来店の回数が減ってしまうのかとドキリとした。
そのあとすぐに、これからは、ここのコーヒーでスッキリして、自分の楽しみに時間をつかえるようにしないとねと言ってくれた。アキは、いつでもその力にさせてくださいと返すと、ニッコリ笑ってうなずいていた。
たったそれだけのことでも、昨日と世界が変わったぐらいの心境にあるアキであり、いつしか自分でも知らないうちに、例の曲をハミングしていた。
あのタイミングで流れてきたのは奇跡的で、映像で振り返ればドラマの挿入歌ぐらいに出来た状況にも思え、気持ちが高揚していった。
高校時代によく聴いていたお気に入りで、カセットテープに録音して、何度も繰り返し聴き、歌詞をヒアリングでノートに書き起こしたほどだった。
どういう内容の歌詞なのか知りたくて、辞書を引いて翻訳もした。その時の自分の不安な気持ちを代弁しているかのようで、さらに好きになっていった。
何者でもない自分は、世界の片隅の小さな存在でしかない。それでも諦めなければ夢は叶うのだと信じていたい。その歌詞に励まされてここまでこれた気がする。実際にそうでないとしても、弱気になった時に踏みとどまれた遠因にはなっていたはずだ。
あのタイミングでこの曲が流れたことに、なにか運命めいた一日を感じぜずにはいられなかった。そう思えば今日一日はいい事が重なり、夜警の当番も苦にならない。むしろ新しいアロマが生まれそうで、そちらのほうが楽しみであった。
いつまでも成功体験にしがみついていては停滞してしまうだけで成長にはつながらない。これまでもそんな成功事例にすがって失敗を重ねていた。その度に失敗の原因を自分の都合のいい理由に置き換えて無理やり納得させていた。そうしなければバランスが保てなかったからだ。
本当の理由はそこではないとわかっていても、自分が早く楽になるために、それ以上を考えないようにしていた。真の原因を取り除かない限り、今のような幸福感は一時的となり、望まない悪事が突然やってくるものだ。
この日に夜警の当番だったのも運命だ。次の一歩を踏み出すためにもアロマのバリエーションを増やしておきたい。気持ちを引き締めると、再び音がした。今回は間違いなく、この音はピアノの音でメロディを奏でている。
アキは暗澹たる気分になった。言った傍からこの始末だ。いいことがあったと浮かれていたのと、コーヒーの試作に熱を入れ過ぎて、ピアノにカギを掛に行くのを忘れていた。あの夜の悪夢がよみがえってくる。
あの時も同じように試作をしていて、カギを掛け忘れていた。慌ててピアノのある広場へ向かうと酔っ払いに絡まれてひどい目にあった。
何かあったら警察にと言われても、そうそう安易に110番はできなかった。自分のミスが原因でもあり、まずは状況を確認しなければならず、そこから自分で対処するか、通報するのかを線引きしなくてはならず難しい判断を強いられる。
会長から預かっているカギを持ち出し、とにかく駆け出すアキであった。
ピアノがそこに置かれていた。
ショッピングモールと、入り口にサイネージされていた場所だった。どうひいき目にみても商店街とのハイブリッドにしか見えない通りの、その中央付近にそれはあった。
ピアノのまわりには幾つかのベンチが設置されており、日中ならば多くの人が休憩をしたり、食事を取ったり、思い思いにくつろぐ場所になるのだろう。
ベンチから前方に向かって中央に、誰もが自由に弾くことのできるストリートピアノが置いてあった。9時を回った時間では人影は見当たらず、静まりかえった空間にカバーが開いたままのピアノは、誰かを待っているようにも見えた。
いいじゃないか、ダイキは嬉し気にベンチに向かった。
ダイキは呑みすぎたアルコールを抜くために、あてもなくこのモールをブラついていた。そして意図せずにここにたどりついた。
ロールプレイングゲームでダンジョンを徘徊したあげくに行きついた、秘密の大広間に出た気分になった。足も疲れてきて、ちょうど腰をおろしたいと適当な場所を探していたところだ。
この状態で家に帰ることは避けたいダイキは、それにしても長く歩き続けて、携えていたペットボトルの水もずいぶん前に空になっていた。
ベンチの奥におあつらえ向きに自販機があった。ポケットの小銭を探り、緑茶を買った。
ベンチに腰をおろして空を見上げた。薄い雲が張り出しておぼろ月夜になっていた。何度目かのため息をつく。誰か気の利いた楽曲でも引いてくれないかと、ありえない状況に笑ってしまい首を横に振る。
今回も結果が出なかった。自信を持って望んだレースであったのに、最後は自滅のように失速していった。30キロを過ぎた時点で足が止まってしまった。息が上がったわけでもないのに、突然に脚に力が入らなくなった。誰かに栓を抜かれたように力が失われていった。こんな経験は初めてだった。
30キロからキツくなるのはめずらしことではない。そこからどれだけ粘れるかがマラソンの戦い方だ。それなのに今回は粘ろうと気持ちを入れても、地面に力を伝えられない。骨盤から下が自分のカラダではないような感触だった。
レース後の失意の中で、身体は飲み屋に向かっていた。悔しさを紛らわすために量が進んで、気づけばこんな時間まで飲んでいた。酔ったまま家路を辿るダイキは、自分の弱さを再確認するだけだった。
年を重ねるにつれ酒量も増えていき、妻には何度も釘を刺されていた。自分でもタイムが伸びない原因はそこにあるかもしれないと、今回に備えて好きなビールを控えるために半年前から禁酒を続けていた。それであるのにこのザマだ。
妻には合宿所で今後の身の振り方を相談してから帰るので遅くなると伝えてある。それでこの酔いで帰れば言い訳ができない。できれば先に寝ていてくれればと願うばかりだ。
購入したペットボトルのキャップを外して、ひと口含む。爽やかな緑茶の香りが口に広がった。最初のひと口は、そのまま口をゆすぎ後ろの草むらに吐き出した。
コーチにも太鼓判を捺され、当日までのピーキングの持って行き方も万全で、あとはレースに集中するだけだった。自分でもいけるという感触があった。5年前のベストタイム出したあの時の流れをトレースしているようだと思えた。
それは自分を奮い立たせるための方便でしかなかった。
5年後の自分は、5年前の自分とは同じでなかった。言い訳はいくらでも出てくる。あの時の感触も、時の流れも、成功体験にしがみつこうとする自分の弱さの現れに過ぎなかった。
自分でもわかっていたはずなのに。だがそう考えなければ、次の一歩を踏み出せなかった。所詮自分にはもうあの時の力は失われているのだ。
レースペースで伴走してくれた仲間内での練習で、付いていくことができた。まわりも良い仕上がりだと何度も声をかけてくれた。過去の栄光に傷をつけないように気を遣っていただけだ。
本番では、ペースを上げ下げするライバルと闘いながら、30キロオーバーになってからが本当の真価が問われる。そこで、まざまざと自分の今の実力の地点を思い知らされていた。
ダイキはおもむろに立ち上がり、アップライトのピアノに備え付けてあるイスを引いて腰かけた。白と黒の鍵盤や、黒塗りの本体にライトが映えた夜のモールの風景が映し込んでいる。
人差し指でアイボリーのキーを押し込んでみる。軽やかな音が鳴った。静寂に包まれているモールに音が吸い込まれていく。
初めてアコースティックのピアノを鳴らした。耳に心地よい中音が伝わって、その余韻はいつまでも続いていた。
ピアノの余韻に浸りながら、自分はもう一度、あの場所に戻れるのかと問いかける。いや戻らなければならなければならないと叱咤する。いやもう無理だ。これ以上何度やっても同じことだ。それですべてを打ち消してしまう。
それほどに決心して挑んだあげくに、言い訳できないほどに打ちのめされてしまったのだから。
ダイキは高校の時に陸上部の仲間とバンドを組んで文化祭に出た。TVでバンドブームが取りざたされており、誰も彼も楽器を演奏して目立とうという流れに、日頃地味な練習ばかりの日々に変化を求めていた陸上部仲間が乗っかった。
そして当時深夜に放送されていたMTVで見た、アメリカのロックバンドの楽曲をやろうということになった。
ダイキは兄から譲り受けたギターを持っていて、そこそこ弾けたのでギターを担当すると手を上げた。それなのに、部長がヨソからギタリストを連れて来た。
陸上部でバンドを組むことに意味があったはずなのに、その暗黙のルールはいとも容易く放棄された。たしかにヤツは断然に上手く、とても片手間でやっているダイキには太刀打ちできる相手ではなかった。
所詮高校生が目立ちたいがためにやっているバンドだ。更に言えば女子にモテるために文化祭に出るといっても過言ではなく、誰だってうまいヤツと一緒にやりたい。それで自分もバンドの一員として喝采をあびたい。そんな下心が誰にでもあった。
ダイキは代わりにキーボードを勧められた。音に厚みが出るとかなんとか言いくるめられて、部長が自分の姉が持っていた持ち運びできるキーボードを持ってきた。
ピアノのコード位置をいちから覚えなければならす、アタマに入っているギターのコード進行を、指の動きに置き換えられるように、ひたすら何度も繰り返し練習しかなかった。
そんな中でも、音がつながってくると面白くなってきて練習にも身が入った。四連打だけではつまらなくなって、少しづつオカズを入れられるようにまでなっていった。
メンバーで集まって音合わせの練習でも様になっていた。当時のバンドと言えば、ボーカルにリードギター、ベースにドラムが標準仕様で、あってもサイドギターがつくぐらいだ。
ダイキの男子校ではキーボードがいるバンドは他になく、それだけで差別化ができた。これで他のバンドよりアピールできて、よそから来た女子への売りになると盛り上がった。
それなのにそのギターのヤツは、上手いだけあってあちらこちらのバンドと掛け持ちしていたらしく、文化祭の直前にダイキ達よりレベルの高いバンドに鞍替えしてしまった。
ヤツにとってはその方が費用対効果が高いのでしかたない。名前も、顔も今は思い出せない。
ダイキは結局、元のギターを担当することになった。やはりギターがいなくてはバンドの体をなさないのでしかたない。
キーボードに愛着も湧いてきており、アレンジもできるようになっていたのに、部長の一存で振り回されることになったことにはわだかまりが残った。
付け焼刃のギターではヤツとの差は歴然で、ストロークで弾くことはできても、リードのリフを覚えるのは一苦労で、ましてやテクニックを駆使して聴く者を引き付ける演奏など、数日でどうこうなるものではない。
前日からひとりで練習を重ね、ほとんど睡眠もとらず、出演の直前までそれを繰り返した。指先が痛くて感覚がなくなっていった。
出演順はヤツのバンドの次になっており、派手なソロギターのパフォーマンスで大盛り上がりになったあとでは、途切れ、途切れで、なんとか音が出ているというダイキのギターでは、座席から失笑が聞こえ、途中で席を立つ者が次々と出た。
女子にモテるどころか、苦い思いでしか残らなかった。
そう思えば自分はいまだに何も変わっていない。なにをするにしても人任せで、中途半端でしかない。付け焼刃でなんとかしようとして、勝負所に弱い。そしてどこかにできないことの言い訳を用意していた。
ダイキは当時を思い出しながら、コード進行を押さえてみた。ダイキたちがコピーした曲は、アメリカのハイスクールの若者群像を描いたテレビドラマの主題歌であり、テンポのいいサウンドで大ヒットして誰もが一度は耳にしていた曲だった。
久しぶりであるのに指先は覚えているもので、自然と次のコードに指が動いていく。ただ、ロックだと言うのにバラードのようなリズムになってしまうのはお愛嬌だ。
店の扉を閉じて振り返るケンシン。道の中ほどでマオは立ち止まっていた。まだ言いたいことがあったのか、このまま引き上げて良いのか、彼女が逡巡しているようで心が痛んだ。
アタルのようにいつまでも目を離せずに見ていると、ケンシンの心配は的外れだったようで、マオは左手側から誰かが来るのを待っているだけだった。
そうであれば会長が言い忘れたことでも思い出したのか、それとも念押しに戻って来たのか。気になってのぞき込もうとしても扉の窓では小さくそこまで見えない。ショウウィンドウの窓はすでにブラインドが下ろされている。
マオは軽く手を上げて会釈をした。店で客に接する時と何ら変わりのない柔らかな動きだった。それを見れば、どうやら知った人がマオに近づいているようだ。
その相手が扉の窓に現れ、ケンシンの視界に捉えられた。上下スポーツウェアで、キャプを被っている。パッと見たところは中高生の男子に見えた。
ランニングの途中らしく、マオに近づくとスピードを緩めた。マオが何やら話しかける。穏やかな表情だ。カレはその場で足踏みを続け、今度は身を持て余すようにステップを踏みはじめた。
マオは目を見開き口を手で覆い驚いたしぐさをした。何の話題を話しているのか、そのあと首を振って手を開いて制止する動きに変わった。
カレは肩をすくめて気に留めていな様子で、今度はマオのまわりをステップを踏んで回り出した。マオはそれにつられて首を回したり、身体の向きを変えたりしてカレを追っかけ、しきりと話しを続けている。
ケンシンは覗き見に罪悪感を感じながらも目が離せなくなっていた。これでは今後はアタルに文句を言えない。いったいふたりがどんな関係なのか、気になってしまい判断する情報を欲しっていた。
想像する中では姉と弟という構図が一番しっくりするが、それはケンシンがそうであればいいと望んでいるだけで、それ以外の選択肢では余りしりたくない関係性となってしまう。
それを確認してどうなると踏ん切りをつけて仕事に戻ろうとした次の瞬間、ケンシンの目に飛び込んだのは驚愕の光景だった。
ステップを踏みながらダランと下げていた両手が目にも止まらぬスピードで、右、左とマオの顔面に飛んでいった。
それは例えではなく、本当にケンシンの眼には腕の動きが見えなかった。そのためにカレの拳がマオにヒットしたのか判断できない。ただ、マオは倒れるわけでもなく、顔は困ったような笑顔であるので、当たってはいないのは間違いない。
そうではあっても放っておくわけにいかずケンシンは店を飛び出した。自分に何ができるかわからないまま突っ走った。いくら知り合いだからといっても、このままにしておくわけにはいかない。
事実カレはマオの回りを移動しながら何度もパンチを放ち続けている。いつ本当に当たってもおかしくないはずだ。
「なにしてるんだっ!」ケンシンはカレの腕をつかもうとした。その行為を嘲笑うかのように、またそうなることを予感していたかのように、ケンシンが伸ばした手からスルリと身をこなした。そして見えない右のフックがケンシンのアゴ先を捉えた。
ケンシンは尻もちをついてしまった。当たってはいないのに。
それなのにマオとは異なりケンシンは腰から崩れ落ちていったのだ。そして首筋に冷たい汗が流れた。
「エマさん! やめて!」マオは慌ててそう言ってエマを制止て、すぐにケンシンを心配した。
「カミカワさん大丈夫ですか?」あっけにとられ地面に座り込んでいるケンシンに、マオは両ひざをついて寄り添った。
ケンシンは恐る恐るアゴ先に手をやった。痛みはない。それなのに何かカミソリにでも切られたような感触が残っている。ホッとするのと同時に嫌な汗と、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ごめんなさい、あのコ、フザケてただけで、本気じゃないんです。そのう、つまり、いつもの挨拶みたいなもので、、」マオは申し訳なさげにそう言った
ケンシンが驚いたのはパンチを食らわずに倒れたことだけでなく、男のコに見えた相手をマオがエマさんと呼んだことだ。
深くかぶったキャップと、短い髪の毛でわかりづらくはあるが女性に見えなくともない。それがあの身のこなしと、ケンシンを圧倒した寸止めのパンチ。それが本当ならますます立つ瀬がなくなる。
低姿勢のマオに比べ、エマは尊大な態度のままだ。鋭い眼光をケンシンに向けてくる。ひとに簡単に気を許さないタイプの人間のようだ。
さらに言えば、男という人種を信じていない。そんな目つきだった。それがマオとを結びつける精神的なキズナになっているようにケンシンには思えた。
エマは口には出さずに、マオに、誰? コイツ、と言ったような態度を取る。普段からそんなやり取りをしているのか、マオはその仕草に応える。
「このひとは、あのベーカリーで働いているカミカワさん。アナタがふざけてあんなことするから、ビックリしたのよ、、 」きっと… マオはケンシンの顔を覗いて、間違いでないか確認したつもりだ。
そんな大仰なモノではない。偉そうに助けに出て、いとも簡単にやり返される。一番みっともないパターンを披露しただけだ。やはり身の丈に合わないことをすれば、こういうことになるとあらためて認識していた。
はやとちりと尻もちの照れくささをごまかそうと、ケンシンは立ち上がってアタマを掻くしかない。
「そんな、結局、何の力にもなれず。余計な手出ししてハジをかきに来ただけみたい、、」そう自虐的に言って笑いを誘おうとする。
声が上ずらないように必死に落ち着いて話そうとするケンシンに、エマはニコリともしない。マオを見てイヤな笑いをする。このオトコも同じだと言っているように見えた。
別れの合図がわりのつもりか、マオだけに軽く手を上げてロードワークを再開した。自分はもうここにいたくないという意思表示にケンシンには映った。すれ違う時も目を合わせなかった。
その顔つきは確かに女性に見えた。マオとは正反対といってよく、すべて敵対視した目つきで、薄く荒れた唇は冷淡に見え、動きのない表情からは何も読み取ることができない。多くのオトコが気に留めることがない外見の女性だ。
「さっきのコ、ボクサー 、、ですよね?」ケンシンは思わず、マオの友達かもしれない相手に、そんな訊きかたをしてしまった。
「あの、わたしもそれほどよく知らなくて、、 以前、男の人にしつこくされていた時に、助けてもらって、、」
言いづらそうに説明するマオをみて、触れて欲しくない案件であるのがわかる。ケンシンは手をあげて、それ以上言わなくていいと制止した。
なにか男を代表してマオに謝りたくなった。そんなことをしても何も変わりはしない。彼女の生きづらさがヒシヒシと伝わってくる。
自分の思うところと別の要因で、常に何かと戦っていかなければならない。寂しげな顔にいくつもの疲弊の痕跡が滲み出るマオが不憫だった。
「あれからは、たまにこうして出会うぐらいで、それに込み入った話をするほどでもなくて、その時は、ただ話しを聞いてもらったっていうか、一方的に話したっていうか、、 」
歯切れの悪い言い方をするマオだった。つまりそれほど深い間柄でないことを示したいのであろうし、嫌な記憶をケンシンに話すほどの間柄ではない。
日頃のマオを見ていれば十分に想像がつくケンシンとしては、無様に倒された理由を明確にしておきたかっただけだった。そうでなければ自分があまりにも貧弱と認めなければならない。自分を正当化するためにマオに無理強いをさせていては本末転倒だ。
「ゴメン、いいんだムリに答えなくたって。それに、いろいろとわかった気になるつもりはないよ。ただ、カノジョに、エマさんに、興味が湧いただけなんだ」そう言って、マオの件とは切り離そうとした。
それでもマオは下を向いて申し訳無さそうにしている。
「いやね、カノジョがボクサーであり、それなりの能力を携えていて、今後、頭角を現していく存在ならと、期待してみただけだだから」
それはマオを安心させるための方便でしかない。たまたま偶然出会ったアスリートが有名になるなんてことは、宝くじが当たるぐらい起こる可能性は低いはずだ。
「そうね、エマさん、強いから、、」
マオの言う強いには、複数の意味が含まれているように聞こえた。自分のやられぶりをみれば、マオを助けた時の立ち回りを想像してしまう。見てみたかったとさえ思った。
マオは口を閉ざして首を振ってみせた。今の言葉を否定するように。
なにか自分たちは、自分に無いものを、欠けているものを、常に探して追い求めているようだった。何が備わっているかではなく、何が足りていないか。
そして、その実、足りないものを正しく捉えられていなかった。永遠に見つけられない宝の在り処を探し続けているだけのようだった。ケンシンは勝手にそう決めつけていた。
「エマは、ほとんどしゃべらないんだけど、あの時は、ひとつだけわたしに忠告してくれた」
――すべてを制御するな。
エマはいつも通り、表情に感情をあらわすことなく、オトコたちと立ち回りをして追い払ったあとだというのに、息ひとつきらすことなく、そう言った。
「その時はなんのことか全然わからなかった。混乱してたし、エマさんが支えてくれてたから、身に詰まっていたコトを吐き出してしまったから」そう言ってマオは少し笑った。
「なんだか変ですよね。エマさんもそうだけど、カワカミさんも、なんだか安心していろんなことがしゃべれちゃう。こんなこと言ったら迷惑かもしれないけど、、」
今度はケンシンはクビを振った。自分に何ができるかわからないが、少しは役に立てているならば心も楽になる。エマのようにマオの心に響く言葉は出てこない。
”すべてを制御するな”とは、捉え方によれば肯定的であり、否定的であり、どちらでも引用できる言葉だ。
「それをどう解釈したの?」ケンシンはマオの眼を見た。マオは今度は目を逸らさなかった。
「うまく言えないんですけど、自分がどれだけ抗いても、身に降る全てを排除することはできないんだから、自分ができることだけに専念するしかないのかなって。それを後ろ向きに捉えなくてもいいんだから」
「掃除当番も制御できる案件ではないしね」
マオは驚いた様に目を見開いてから手で口を押さえて笑った。まわりの雰囲気を変えられるような素敵な笑顔だった。
一体エマは何をマオに伝えようとしてその言葉をで選んだのか。
過去の世界では、情報は無料で誰にでも開かれたものであったはずなのに、それが高度化するとコストを持つようになる。
そしてそれはいつしかビジネスとなり、費用をかけることですでに知識を得たと錯覚してしまったり、逆に意図した結果が得られないと、費用として放棄してしまったり。本来の情報の伝達とは別の使われ方が本流となってしまっている。
ケンシンはエマのパンチモドキで尻もちをつき、マオはエマの言葉で倒れた心を立ち上がらせた。
「これまで本を買ったり、学校で勉強したりしたけど、本質的にわたしを救うものはなかった。エマの言葉で落ち着けたのは、カノジョ自身が持つエネルギーが説得力を孕んでいたんだと思う」
ケンシンもその風圧で吹き飛ばされたのかもしれない。
マオはケンシンに自分と近い感覚を見出していた。彼もまた異なる周波数の中でチューングに苦しんでいるのだと。
自分達には不要なものが、この世の中には多く存在している。それを取り除こうとすればするほど、接点が増えていく。先の見えない道を歩き続けるのは限界があるのだ。
お互いに思うことはあっても、初対面でそこまで気持ちを開示することは憚られた。
ケンシンは、もはや恥の上塗りでもいいと腹を決めた。空回りでも、的が外れていようとも、それを今しなければ、ここまでの時間がすべて無駄になってしまいそうだった。
「あのう、実は、、」「はい?」マオは首をかしげた。
なんの抵抗も感じさせずに、髪の毛が一本づつ肩に移動していく。
「実は思い出したことがあって、オレ、明日の講義が昼からで、そのう、つまり、、」
マオはケンシンの辿々しい、いかにも言い訳じみた説明を、優しい眼差しで聞いていた。これでは多くの男たちが勘違いしてしまうのも無理はないと、双方に同情していた。
「あした、掃除出るから。オレもわかんないことばっかりだけど、ひとりよりマシだと思う、、んだけど、」
「ホントですか!うれしい! すっごく不安だったんです」マオは満面の笑みに変わっていた。
ケンシンはその笑顔を凝視することはできなかった。下心があるわけでなくとも、他の男たちと対して代わりはしない。きっかけのあるなしで対応が変わるだけだと、自分に言い聞かせていた。そうでも思わなければ調子に乗って誇大妄想しそうになる。
「アナタはいつも朝から掃除してるから、そんな心配いらないでしょ。あっ、別に覗き見してたわけじゃなくて、その、、」
「ふふっ、カミカワさん気をつかい過ぎですよ、お店正面だから、見えますよね。わたしも何時も見てますよ。男のひと、ふたりで楽しそうだなって。今日は年配の方に優しくされていて」
「カワカミです」「エッ?」「名字、カワカミなんです」マオは目をクルッとまわしてから、合点がいったらしくうなずいた。
「そのまま、ムラサワです」そう言って笑った。ケンシンもつられて笑った。
それほど力を入れる必要はない。ふたりは肩の荷を下ろしていた。
「来たぜ」
アタルが目線だけで示した先には、ピンク地のスーツ姿でビシッと決めたショッピングモール会長が、こちらに向かって歩いて来る姿があった。
ケンシンも顔は上げずに目端で確認するだけで気づかないフリをして、そのままレジ締めの作業を続ける。目の前に会長が止まったところで顔を上げる。間近で見たそのスーツはピンクの格子柄がちりばめられたジャケットであった。
「ちょっと、今日が期限だって言ったでしょ」
ケンシンは、いま気づいたという体で顔を上げ、驚いて見せる。アタルはすでに奥に引っ込んでしまった。
「はあ、」「はあじゃないでしょ、明日のモール一斉掃除の担当、提出するように頼んでおいたでしょ。今日一日待ってたのに、出てないのはアンタんとこのパン屋と、向かいのブティックだけなんだから、大体ね、、」
ブティックと言われたところから、ケンシンは次の言葉が入ってこない。
今どきブティックと言う店長の感性に驚いていた。ケンシンもそれほど通じてはいないが若い女性ならショップと呼んでいるはずだ。よくそれでモールの会長がつとまると感心してしまう。モールと言っても中身も関係者もまだまだ商店街と変わりない。
「、、でしょ!?」「はあ、」そのあとで何を言われたか知れず、何と返答すればいいかわからない「、、でも店長いないし」
「店長なんてほとんどいないないでしょ、コックは不愛想だし。あんたに話しといたんだから、あんたが答えなさいよ」
さすがに店の状況はよく把握している。それにしても洋食屋でもあるまいし、笑いをこらえたのはコックはないし、チーフのコモリにベーカーという言葉は似合わないことだった。
「はあ、でも、オレ、バイトだし」
「バイトだろうが何だろうが、お金の計算して、お店任されてるんでしょ。もういいわ、あんたで」
そう言うと会長は、ケンシンの胸にあるネームプレートを見てカミカワと、リストに書き込んだ。ケンシンの名字はカミカワではない。店用の通り名だった。そんなことは会長はお構いなしで、ケンシンの名字が何であろうと、この店の掃除担当者が決まればいいのだ。
「近頃じゃ、どの店も高齢化しちゃってね、あんたみたいな若い人が頼りなのよ、、」
ここにも憂国の高齢化の波が押し寄せており、ご多分に漏れず、若者にそれを負担させようとしている。高齢化で人手が足りないなら。今までと同じことを無理にするのではなく、できる範囲で行うとか、アウトソーシングするとか、別の代替え案を検討しようとはしないのは何故なのであろうか。
ケンシンは会長が何かこれまでの方法を踏襲することだけが正であり、それが継続できない自分が、悪であると思い込んで、正しい解に向かっていないように見えた。若い人に頼ることで、その人たちの時間と労力をどれ程奪っているのか考えたことはないように。
「、、私たちが若い頃はねえ、声がかかれば、どんな用事があったって、一目散に駆けつけたもんよ、、」
あなたたちの若い頃は、成長する将来にまだ希望があり、同じことをしていても飯が食える時代だったんだろうと、うそぶくケンシン。
「、、いまの子はみんな自分勝手で、自分さえよければって感じでしょ、自分の子供より自分が楽しむことを優先するんだから、イヤになっちゃうわよ。ウチのヨメなんてね、、」
と、ついに家庭の愚痴まで言いはじめた。今日の売上げの計算もまだなのに、やりながら話を聞くわけにもいかず、手は止まったままだ。
だいたい、お互いの方向性も確認しないまま、これまでの慣習を立てにして、それがさも正義だと言わんばかりに振りかざされても相手は閉口するばかりだろう。
共通の利益を手にするために、どこが問題点で、その課題を克服するために、お互いがどうすれば最大利益が得られるかを意見を出し合って、解決策を見つけ出すことが必要であると、ケンシンは先日受けたばかりの講義内容を思い起こし、ここに生きた教材があると感心していた。
「、、なんだから」言いたいことを言ってスッキリしたのか会長は時計を見て「あらやだ、もうこんな時間、もい一軒行かなきゃイケないのよ。時間食っちゃたじゃないの。じゃあ必ず来てね」と、チラシを押しつけて店を出て行った。まるでケンシンが時間を取らせたような口ぶりにあたまを掻く。
押し付けられたチラシは丸めてポケットにねじ込んだ。店のゴミ箱に捨てるのはどこで目につくかわからず、家に帰ってから捨てるつもりだ。行かなくても店長のせいにすればいい。文句を言われても今みたいに、聞き流していればいい。
途中になっていた、売上げの計算の続きを急いではじめる。会長のけたたましい声が、前の店から聞こえた。会長が言う所のブティックでは例の彼女が対応していた。困った顔をしているのがここからでもわかる。
「おっ、ようやくいなくなったか」嵐が去ったのを嗅ぎ付けて、アタルが中から出てきた。
ようやく売れ残りのパンを片付けはじめだしても、彼女が会長と話している姿を見逃すはずはない。
「なんだよ、あの店も狙われてたのか。うわあ、カノジョ、めっちゃ困ってるな。そりゃそうだよな、来たばっかで、何もわかんないから」
「おまえさ、そう思うんなら、助けてやったら? キッカケ作れるかもよ? 」
思った通りのアタルの言動に、ケンシンは計算機を叩きつつ、つれなくそう言った。
「だよなあ、でもオレ、あのおばちゃんホント、ダメなんだわ」
店の看板を置いた場所のことで、たまたま居合わせたアタルはさんざん説教をくらい、その後も何かあるごとに目をつけられていた。ケンシンもそれを知って楽しんでいる。
売れ残りの片付けを終えても、まだ恨めしそうにふたりのやり取りを眺めているアタルは、じゃあオレ先にあがるわと、店をあとにした。後ろ髪を引かれる思いがひしひしと伝わってくる。
そんなアタルにお疲れとだけ声をかけて、ケンシンは遅れを取り戻そうと表計算ソフトに打ち込みをする。計算が一致して、店長にメールを送るまで帰れない。
調理場の片付けも終わったようで、厨房から顔だけ出したチーフが、戸締まり頼んだぞと一言残して、裏口から帰っていった。
レジの日はだいたい遅くなり、今日は余計なジャマが入ってさらに時間がかかっている。そんな日に限って計算が一発で合わず、何度か見直しして入力をやり直している。
「あのお、」画面に集中していたため、声をかけられたことに気づかない。
人の気配と、何か声がしたようで思い出したように顔をあげた。彼女が目の前にいた。白い肌、クリッとした大きな目、プックリとした柔らかそうな唇。近くで見ると、さらに美しさが際立ってくる。
映画の巨大スクリーンで女優を見ているようだ。イヤミのない甘い香りがホンノリと漂ってくる。ケンシンは計算が合わず四苦八苦していた険しい顔のまま硬直していると、申し訳なさそうにもう一度声をかけてきた。
「あのお、お仕事中、申し訳ありません、、」
テレビのアナウンサーのような良く通る声だった。それでいて何か甘えたような、頼りにされて、つい聞き入ってしまう声だ。ケンシンは一気に心拍数があがり、脇から汗が出た。
何か言わなくてはいけないのはわかっているが、言葉が出てこない。
「、、明日の掃除の件で、教えていただきたくて。わからないことがあったら彼に聞いてと言われて、、」
ケンシンと同じように、彼女も会長に掃除当番を押し付けられたのだ。彼女しかいないからそうなるだろう。どこを見ていいのかケンシンの目は泳ぎぱなしである。そして胸元のネームプレートに目が止まった。ムラサワと書かれている。
名前だけを確認して、直ぐに視線をずらした。胸を凝視していると彼女に見られたくなかった。ニット地の効果は至近距離ではそのパワーを最大限に発揮して、丸々と膨れている胸部のその迫力に圧倒されてしまう。
気づかれないように用心して覗き見ていても、女性には丸わかりだと聞いたことがあり、ケンシンは必要以上に警戒してしまう。
「あのう、ムネ、、」そう彼女に言い出され、ケンシンは真っ赤になって否定した「見てません、見てませんよっ!」。それではかえって怪しまれるほどに。
彼女は一瞬大きく目を見開いて、そして口をおさえて吹き出した。ケンシンは何がどうなったのかわからずオロオロしてしまう。
「大丈夫ですよ、わかりますから、ムネ見られてる時って」彼女はニッコリと笑って言った。
「胸のネームプレート。カミカワさんって言うんですね。私はムラサワです。ムラサワ マオ」
そう言って、ムネのプレートを突き出した。大きな膨らみが一層強調されるので、プレートを見ながらのけ反ってしまう。続いてマオは、ケンシンのプレートを指さす。
「すいません、初対面なのに名も名乗らずに、ちょっと、動揺しちゃって」とケンシンはあたまを下げた。
たぶん、マオにいきなり話しかけられれば、男はたいてい動揺するだろう。いったい自分になんの用事があるのかと、いぶかしがってもおかしくはない。それほどに平凡な男にとっては次元の違う存在だ。
気さくに話しかけられてケンシンは少し気持ちが落ち着いていた。
「ああ、そう、あっ、イヤ、これ本名じゃないんだ。ショップ名って言うか、店だけで使ってる名前。顔と名前、バイト先で覚えられるのイヤだから」
名前のことを人に話すのは初めてだった。アタルは同じ学校に通っているのでケンシンの本名を知っている。ケンシンがそれをマオに伝えて、流れの中といえ余計なことを言ってしまったと後悔した。
そんなことを言えば、マオも本名じゃない場合、カミングアウトを強要しているように取られても困るし、ケンシンに本名を訊いてこられても困る。
「へー、そうなんですね。 知らなかった。私もそうすればよかったかな」
マオは、複雑な表情をしていた。自分のようなわかりやすく、名前を変えて身を守った気になれるぐらいの、単純な人生を歩んでいてはわからない気持ちがにじみ出ていた。
本名だったと喜んでいいのか、これだけ仕事で気苦労している彼女のことだ、本名と思わせておいて、実はそうでない可能性も考えられると、推測をしているうちにいったいどちらが正なのかこんがらがってきた。
そんなことより、この状況をどうにかしたいケンシンであった。いまの自分が彼女の役に立たないことを知ってもらわないと、どんどん泥沼にハマっていきそうだ。
「ごめん、おれバイトだから、モールの規則とかよくわかんないし、今日は店長いないから、取り敢えず話し聞いといたけど、明日は大学もあるし掃除は来れないんだ」
彼女は難しいそうな表情で話を聞いていた。そんな顔をされるといたたまれない、アツシだったらどうするだろう。調子の良いこと言って、一緒に掃除するだろうか。
「そうなんですね」彼女はポツリとそう言った。そんな表情を今日も何度か目にしていた。外見が良いだけで、厄介事がひとより多く発生するのも有名税と言っていいのだろうか。
ケンシンはどうすればいいかわからない。気になりながらも、なにもできなかったから今がある。何時だって、何処だって。たぶんこれからも。
身の丈以上のことをして何度も失敗してきた。その不成功事例に囚われている。たまに成功した事はアタマに残り、何時までも有効だと信じて、消費期限を過ぎていることに気付かない。
自分では彼女を救うことはできないのだ。ならば関わっても仕方ない。
「わかりました。そういう事情でしたらしかたないですよね。なんだかご迷惑かけちゃったみたいで、申し訳ありませんでした」そう言ってアタマをさげた。
自分の方に否があると下手に出て気を遣っている。大袈裟でもなく、礼儀的でもなく、ケンシンには丁度いい加減の振る舞いだった。
多くの意にそぐわない男たちと接していく内に身についた、相手を不愉快にさせない所作なのか。ケンシンも気の利いた言葉でもかけられればいいが、そんな器用さは持ち合わせていない。
人生はままならないもの。一部の成功者が取り立たされるのも、その秘訣を知りたい大勢の人間がいるからで、全員が成功者になれば、誰もその秘訣を知りたいとは思わない。世にあふれる啓発本はこうして増えていることがそれを現している。
この女性も、マオも、ひとが羨む容姿をしていても、幸せではない。むしろ余計な外因に時間を割かれ、好意的だったひとを敵に回し、いわれのない暴言をはかれることもあるのだろう。
だったら自分ぐらいは、そっとしておいてあげたほうがいいような気がするケンシンだ。それが自分の身をわきまえた行動だと納得させる。アタルにも気を遣わせていた。
マオは失礼しますと、お辞儀をして店に戻っていった。
「ホント、可愛いよな、カノジョ」
アタルがそう言った先には、半月前から向かえのブランドショップに勤めはじめた女性がいた。
女性物を取り扱うファッションショップなだけに、着こなしも、着ている服装も様になっている。カラダを動かす度に明るい髪がサラっと、なんの抵抗もなく流れてそよいでいる。
毎日、準備万端で10時の開店にそなえるために、こんな時間から店のまわりの掃除をしている。そのあとはシャッターを半分開けて、店内の清掃からショーウィンドのマネキンの服の取り換え、配置を調整したり、服の入れ替えや、新入荷された服を開封して確認して、ショーケースに並べたりとテキパキ働いている。
ケンシンはいつもその様子を見ていた。アタルとは大違いの働きぶりである。
顔立ちは、女優の誰かに似ているようで、それでいて、その誰にも似ていない。そんな印象がかえって、直ぐに人目を引く美しさとなっている。
レジを担当しているケンシンも、アタルとは別の理由で彼女のことを気にかけていた。
アタルはそう言ったきり、焼き上がったパンを配膳する手を止めて彼女に見とれている。
「オマエさ、いつまでそうしてるんだよ。早くそのパン並べないと、焼き立てのうたい文句が偽りになっちまうだろ。次のパンもチーフの前で大渋滞で、そうだな、これは確実にドヤされるぞ」
ケンシンが呆れてそう言うと、アタルはまだ開店前だからいいだろとボヤキながら、渋々と配膳をはじめる。それでも目線は彼女に釘付けのままだ。
白い薄手のセーターは首の部分が緩やかになっており、花が開いた様な感じに見える。黒のパンツとのバランスも良く、一層長く見える脚を引き締めており、自分のストロングポイントをおしみなく強調するコーディネートだ。
「あのさあ、、」アタルが未練がましく口を開く。
ケンシンは、つり銭用に準備してあるパッキンされた小銭を、バラしては所定の場所に入れる作業をしており、視線を上げられない。
「セーターいいよなあ、カノジョの大きいオッパイが、さらに1.5割り増しって感じで」
そこはケンシンも気になっていた。丸々とした胸部と、キュッとしまった胴回りまでのピッタリとしたラインに、嫌がおうにも目線が吸い込まれていく。
道路の清掃をするとどうしても前かがみになり、ホウキでゴミを掃くことになる。その態勢で重力にあらがうこともせず、丸いふくらみはユラユラと揺れて、アタルのような好き者にとってはたまらない光景だろう。
「先週はさあ、ガバッと開いたVネックで前かがみになったときは最高だったけどさ、この時期にセーターっていうのもいよなあ。オレ、あんとき5回はイケたけど、今回もそれぐらいイケそう。想像力をかき立てられるって言うか、その方が盛り上がったりするんだよなあ」
そう言ってケンシンに同意を求める目線を送る。それを感じてケンシンは顔を上げる。だらしない顔をしたアタルがパンを配膳しながら、もう一度彼女を見つめはじめる。
「オマエの盛り上がりはどうでもいいからさ、想像したくもないし、見たくもない。ほら、次の取りに行けって」
それは食品を扱う店には適さない顔で、ケンシンが客だったら絶対に入店しないだろう。アゴでシャクって次のパンを取りに行くように促す。
アタルの顔つきを見るだけで、アタマの中で何を考えているのかケンシンには想像がつく。白くふんわりと焼けたパンでも見ようものなら、彼女の素肌の胸と置き換えているに違いない。
しぶしぶ次のパンを取りに戻るアタル。今日もチーフの焼くパンは完璧な焼き上がりを見せている。アタルの変な妄想がまとわりついていようが、香ばしい風味が負けじと店内に広がっていった。
「あんなコ、彼女になったらいいのになあ」戻って来たアタルがぼそりとつぶやいた。
「声かけてみれば?」ようやくレジの準備も終わって、ケンシンはしかたくアタルの相手をした。
首を振るアタル「オレなんか無理だって。彼女と釣り合わない。アピールできるとこ何ひとつ思い当たらない」
自分も含めてケンシンもそんなことはわかっていた。せいぜい端から見てワイワイと冷やかしている立場の人間だ。そうでなければ半月たったいまでも同じことを続けていない。
「そう言う、ケンシンはどうなんだよ? キライじゃないだろ。いやむしろ好みだろ。いつも関心ないみたいなフリしてさ」
アタルにそう言われるのも無理はない。必要以上にアタルが推しまくっているのも、ケンシンが一向に乗ってこないからという理由もある。
「あーっ、オレ? そうだな、必要じゃないんだ」ケンシンはそう言った。
ケンシンにしてみればアタルの異常ともいえる高揚振りに、食傷気味であるのもいなめない。どんなに焼き上がりの香りが最高のチーフのパンも、毎日食べていれば感動も薄れ、今日はもういいかなとなることと近いのかと、変な例えに首をひねる。
「はっ? ナニ? おかしいぞ、オマエ。誰が見たって可愛いだろ。必要とかそう言うの抜きにしても、お近づきになりたいだろ?」
自分以外の考えを一切考慮しない無茶苦茶なアタルの言い分だ。ケンシンはそう言われると踏んでいた。そうなれば次は、どういうコならいいんだとか、やれもう彼女がいるのかとか、あげくにはオンナに興味がないのかとかと下衆な詮索をしてくる。
「オレさ、あのコが不憫でしかないんだ」というわけで、口を開こうとしたアタルの先を押えた。
「どうゆうことだよ、フビンって。あんなカワいかったら人生バラ色でしょ。何だってできるし、どんな男にも好きになってもらえる。そいつが大金持ちなら、好きなことだって放題じゃないか。そう考えれば増々オレなんか選ばれるわけない、、 」
最初は景気よくまくし立てていたアタルは、自分の立場を再認識するとともに声がしぼんでいった。
「オマエの言い分はよくわかるけど、それで地球が回っていれば、世の中は美しい女性と金持ちだけが生き残ることになる。そうじゃないから、オレがいてオマエがいる」
ドアが開いて今日最初の客が来店した。ケンシンが時計を見上げれば8時を回っている。年配の女性の客はトレーとトングを取ってパンを選びはじめる。よく開店とともにやってくるなじみの客だった。
「やけに哲学的じゃないか。そんなの授業でならったか?」
客が来た手前、一応声をひそめてアタルは続ける。
「そうだな、オマエみたいに考えている男たちが1000人ぐらいいて、そして彼女を見ているだけで諦めている。もしかしたらその中に、彼女の好きなタイプがいるかもしれないのに、誰にも声を掛けられず、一歩引いて遠くから眺めているだけで終わってしまう」
ケンシンはそう言うと、トングとトレーの準備が少ないのを見て、補充をしようとストック置き場に向かってしまった。本来はアタルの仕事だ。
「だから、フビンなのか?」アタルは手伝うでもなくケンシンの後についてくる。ふたりが調理場に入ってきたので、チーフがチラリと目をやるが、すぐにパン生地に目を落とす。
「オマエがさ、本気なら声かければいいだろ。ただ、見た目だけで、すぐヤリたいとかだけなら、やめといた方がいいんじゃないの」
調理場の右手にあるバックヤードに入っても、チーフの耳に入らないようにケンシンは声を潜める。
「ケンシンはさ、そういう気にならないのかよ、、」その続きに、おかしいんじゃないのかと言われるのを遮るために言葉をかぶせてくる。
「どうかな。彼女はとびきりに可愛いのは間違いないよ。きっと、何人もの男にこれまでも言い寄られてるだろ。その度にしなくてもいい謝罪をしている。何のためだろうな、、 」
レジに戻ってくると、最初の客が店の奥を覗き込んでいた。会計をするために声をかけようかとしていたところだったらしい。
ケンシンは失礼しましたとアタマを下げ、トレーに載せられたパンを見てキーを打つ。横でアタルがパンを袋に入れる。会計を済ませるとふたりで揃って、いつもありがとうございますと礼を言って、あたまを下げる。
「オマエってさ、とにかく超悲観的な未来を想像するタイプなわけ。いやー、知らんかった。今日の今日まで、ひとってわからんもんだな」
出会ってまだ半年しか経っていないのに、バイトの時間だけの付き合いなのに、長い付き合いがあったみたいな言いかたをされて、苦笑するケンシンだった。
次に女性のふたり連れの客がきた。ここのパンおいしいのよと、もうひとりに伝える。自分の目利きを知って欲しく連れて来たようだ。そう言われて大した味じゃないと言う友人はいないだろう。
「そうなんだよ。なんか楽しみがあっても、もしこうなったらどうしようって考えるタイプなんだ。だからいままで自分からなにか言い出したことはない。だいたい人に頼まれて、仕方なくやるって言うか、それを理由にようやく決断できたことばかりだ」
自傷気味にケンシンはそう言った。
「バイトも?」「バイトも」「大学も?」「大学も」あと、数十回にわたるアタルの問いを答えたケンシンだった。
「あー、おいしそう、これも、これも、これも食べたい」
「ふたりでシェアすればいいから、気になるのは買っちゃいましょ」
ふたりは楽しそうにパンを選んでいる。
「オマエさ、そんなんで人生楽しいのか?」けげんな顔をして、アタルは最後の質問のように言う。
「どうだろ、オマエには楽しくは見えないだろうな。なんかさ、そもそも、人生を楽しめる人種はそれほど多くはないだろ」
女性客は大盛り上がりで、ふたりでは食べきれそうにないパンをトレーに載せてレジに来た。食べきれなかったら冷凍庫で保存すればいいと話し合っている。
ケンシンは、沢山お買い上げいただきありがとうございますと、営業トークをする。アタルは大きめの紙袋を擁してい包んだパンをひとつづつ入れていく。
「レベルの問題だろ。ああやって楽しんでればいいんじゃないの。オマエの考えって哲学的すぎて、わけわかんないけど」アタルは感心しているのか、呆れているのか。
「だろうな、オレも理解してもらえると思って話してないよ。じゃあ、何のために生きてるのかって言いたいんだろ? オレもよくわかんねえ。常に何かを心配して、なにも起こらないことだけを祈って、平凡な日々に感謝してるだけだからな」
それからは、立て続けに数人の客がやって来た。ふたりは無駄口をたたくことなく接客をする。商品棚のパンがなくなると調理場に行って、次に焼き上がったパンを配膳する。チーフは今日の売れ筋を読みながら次に焼くパンを考えてく。
この店の売れ残りが少ないのはチーフの読みの正確さからきており、アタルは売れ残りのパンが少ないことにいつも嘆いている。
客足が途絶えたところでアタルが言った。
「あのさ、オレもホントはさ、ムリして楽しんでるフリしてるだけなんだ。ああやって、オンナの話しとか、若者っぽい話ししてないと、みんな相手してくれないだろ。ケンシンもそうだと思ってたし、、」
彼女をキッカケに、野郎がふたりなら、そういう会話になるかと話しただけだった。アタルに合わせてそれっぽいことを言うこともできた。
「そうか、悪かったな、つまんない話して」
ケンシンは今回はそれをしなかった。それは彼女を気遣ったことでもあり、自分に重ね合わせたことでもあった。
「ああ、ううん。ケンシン、オレさ、思うんだけど、それでもいいと思うんだ。それで小さな幸せを感じて、よかったなって。何かの比較じゃなくて、自分がそう感じれるだけで」
ふと彼女を見ると、今も男に声をかけられていた。女性物のファッションショップに似つかわしくないヤロウがふたり、彼女にまとわりついていた。
「カノジョ、また声かけられるぜ」アタルも気づいてそう言う。
客相手の商売ではあからさまにイヤな顔はできない。彼女は笑顔で対応しながら陳列されている服をセッティングし直したり、マネキンの服を整えたりしていた。あきらかに不要な仕事をしてはぐらかしている。
今まで何度も目にしてきた光景だ。ガッカリする男、残念がる男、茫然とする男、悪態をついて去っていく最悪なのもいた。
どうであろうと彼女は深々とアタマを下げて見送っている。服を買いに来た客でもないのに。
無限の可能性を信じることは大切だ。特に若いうちは。やってみなければわからないとか、馬券も、宝くじも買わなきゃ当たらないとか。
それで成功する確率は高くはなく、ほとんどの人はなにも起こらない人生に、何かを期待しつつ年だけ重ねていく。
いつのまにかお年寄りの女性がトレーにパンを載せてレジに立っていた。遠くの彼女にはすぐ目がいくのに、近くの老婆に気づかない。ケンシンも自分に呆れるしかなかった。
アタルとふたりで手早く会計を済ませ商品を渡す。
「ありがとうございます。こちら、商品になります」アタルが大げさに言う。
「ありがとね。アナタたちみたいな若いコから買うと、パンも倍おいしくなるわ」
お年寄りの女性は嬉しそうにそう言った。ケンシンたちをおだてるわけでなく、自分の素直な気持ちで言っているのがわかった。
ケンシンとアタルは顔を見合わせて笑顔を見せた。そしてお年寄りのために店のドアを開けて、普段ならしない見送りをした。向かいの店ではその光景を見た彼女が微笑んでいた。
見栄えが特権になることもあれば、若さが特権になることもある。他人はうらやましがっても、本人はそうでないこともある。その価値を見出すのは自分ではなくまわりであることも。
ケンシンはアタルの肩をたたいて店内に引き上げていった。