髙安ミツ子
身内や友との別れが多くなり、日常の中でもふと寂しさで心がいっぱいに
なってしまうことがあります。そんな時は、亡き人のことを思い出して私の
心で語ってあげようと思うことにしました。共有していた思い出時間が懐か
しく蘇り、来客を迎えているような思いににもなります。見送る側のこみあ
げてくる気持ちは呟きなり、やがて徐々に日常に溶け込んでいき、私が終わ
るときは消えていくことになりましょう。はかないと思えばはかないのです
が記憶は私を照らす標識のように続いているのです。
詩人の新川和江さんがご逝去されました。追悼の気持ちをこめて私の思い出
の一つを記したいと思います。
確か私が二四歳昭和43年か昭和44年)の頃だったと思います。当時土橋冶
重氏が主宰していた同人誌「風」の主催「夏の詩のカレッジ」が都内で開催
されました。詩人たちが詩について語る講座で、詩を書き始めたばかりの私
にとって詩とは何だろうかという思いでの参加となり、多くの聴衆の一人で
した。講師のお一人が新川和江さんでした。時代背景としては、たしか「日
本の詩歌」が各出版社から発刊され詩のブームのような雰囲気があり、全国
の文学同人誌がお茶の水の「東京堂書店」に置かれていたこともある時期で
した。思えば精神の渇きを詩に求めようとする人々が多かった時代なのかも
しれませんでした。
新川さんの講演内容を全ては覚えていませんが難解ではない語り口で柔ら
かく、とても魅力的に感じたものでした。その時の忘れられないお話の一言
が「詩を書くことは編み物を楽しむこととは違います」でした。詩を書き始
めた私には優しい言葉でありながら詩の奥深さを暗示しているように思えま
した。若さの不安を感じていた私の心を受け止めてくれる世界が詩ではない
かと思いこんだ出来事でした。そして、詩を書いていこうと心に留めるよう
になりました。
新川さんは私が言うまでもなく、長きにわたり多くの詩の活動をされてき
ました。特に吉原幸子さんと二人で女性だけの季刊詩誌「現代詩ラ・メール
」を創刊し一〇年間女性詩人の育成に努められました。中学や高校の国語の
教科書にも新川さんの詩は掲載されていますのでご存じの方も多いと思いま
す。
新川和江さんは二〇二四年八月十日ご他界されました。当年九五歳という
ことでした。深いお付き合いがあったわけではありませんが、夫の詩集「母
の庭」の帯文を書いていただき、また、東金市生涯学習課が一〇〇号まで発
行した「ときめき」の「ポエムの窓」のコーナーに新川さんの詩の紹介をす
るにあたり快く掲載を承諾していただきました。
その後新川さんから詩集「はたはたと頁はめくれ」をお送りいただきまし
た。私はこのタイトルに驚かされまた。人の人生をこの一行で語っていると
思えたからです。まるで言葉で絵を描いていると思えたのです。「はたはた
と頁はめくれ」のようにレトリックのうまさのある詩人といわれますがまさ
しく言葉の力を感じさせてくれる出来事でした。
七〇歳のころ新川さんは「まだ詩の書き方がわからなく・・・・。歩いて
も歩いてもたどり着けない遠くの海のようで、 手を伸ばしても伸ばしても
届かない高い木のレモンのようで、・・」と語られています。詩作への精神
の高さが窺われます。
数年前、私の詩集「今日の風」をお送りしたところ施設に入られ目のお加
減が悪いとのご連絡をただきました。そのお知らせが最後でした。
今まで私は最良の詩作品が書けたとは決して思えません。しかし、私の生
きる傍らにいつも詩があり詩を書くことは生きる上での私の精神の浄化作用
を果たしてくれたように思えます。新川さんが話された「詩を書くことは編
み物を楽しむこととは違いますね」という忘れられない言葉のように厳しい
世界には辿り着けなかったと思いすが、あの時の新川さんの言葉は詩作する
私に寄り添っていたのではないかと勝手に思い込んでいます。気が付けば半
世紀以上も詩を書いてきました。このことが、胸に響いた新川さんのあの言
葉への一つの答えになっていればと願うばかりです。一方的な追悼文ですが
、私にとっての感謝の思いでしたためました。
ご逝去された新川和江さん、心からご冥福をお祈り申し上げます。
合掌