Wind Letter

移りゆく季節の花の姿を
私の思いを
言葉でつづりお届けします。
そっとあなたの心に添えてください。

随筆 「新川和江さんを偲んで」

2025-01-20 16:14:11 | 随筆

              髙安ミツ子 


       

 

 身内や友との別れが多くなり、日常の中でもふと寂しさで心がいっぱいに

なってしまうことがあります。そんな時は、亡き人のことを思い出して私の

心で語ってあげようと思うことにしました。共有していた思い出時間が懐か

しく蘇り、来客を迎えているような思いににもなります。見送る側のこみあ

げてくる気持ちは呟きなり、やがて徐々に日常に溶け込んでいき、私が終わ

るときは消えていくことになりましょう。はかないと思えばはかないのです

が記憶は私を照らす標識のように続いているのです。

 詩人の新川和江さんがご逝去されました。追悼の気持ちをこめて私の思い出

の一つを記したいと思います。

 確か私が二四歳昭和43年か昭和44年)の頃だったと思います。当時土橋冶

重氏が主宰していた同人誌「風」の主催「夏の詩のカレッジ」が都内で開催

されました。詩人たちが詩について語る講座で、詩を書き始めたばかりの私

にとって詩とは何だろうかという思いでの参加となり、多くの聴衆の一人で

した。講師のお一人が新川和江さんでした。時代背景としては、たしか「日

本の詩歌」が各出版社から発刊され詩のブームのような雰囲気があり、全国

の文学同人誌がお茶の水の「東京堂書店」に置かれていたこともある時期で

した。思えば精神の渇きを詩に求めようとする人々が多かった時代なのかも

れませんでした。

 新川さんの講演内容を全ては覚えていませんが難解ではない語り口で柔ら

く、とても魅力的に感じたものでした。その時の忘れられないお話の一言

「詩を書くことは編み物を楽しむこととは違います」でした。詩を書き始

めた私には優しい言葉でありながら詩の奥深さを暗示しているように思えま

した。若さの不安を感じていた私の心を受け止めてくれる世界が詩ではない

かと思いこんだ出来事でした。そして、詩を書いていこうと心に留めるよう

なりました。

 新川さんは私が言うまでもなく、長きにわたり多くの詩の活動をされてき

ました。特に吉原幸子さんと二人で女性だけの季刊詩誌「現代詩ラ・メール

」を創刊し一〇年間女性詩人の育成に努められました。中学や高校の国語の

教科書にも新川さんの詩は掲載されていますのでご存じの方も多いと思いま

す。

 新川和江さんは二〇二四年八月十日ご他界されました。当年九五歳という

ことでした。深いお付き合いがあったわけではありませんが、夫の詩集「母

の庭」の帯文を書いていただき、また、東金市生涯学習課が一〇〇号まで発

行した「ときめき」の「ポエムの窓」のコーナーに新川さんの詩の紹介をす

るにあたり快く掲載を承諾していただきました。

 その後新川さんから詩集「はたはたと頁はめくれ」をお送りいただきまし

た。私はこのタイトルに驚かされまた。人の人生をこの一行で語っていると

思えたからです。まるで言葉で絵を描いていると思えたのです。「はたはた

と頁はめくれ」のようにレトリックのうまさのある詩人といわれますがまさ

しく言葉の力を感じさせてくれる出来事でした。

 七〇歳のころ新川さんは「まだ詩の書き方がわからなく・・・・。歩いて

も歩いてもたどり着けない遠くの海のようで、 手を伸ばしても伸ばしても

届かない高い木のレモンのようで、・・」と語られています。詩作への精神

の高さが窺われます。

 数年前、私の詩集「今日の風」をお送りしたところ施設に入られ目のお加

減が悪いとのご連絡をただきました。そのお知らせが最後でした。 

 今まで私は最良の詩作品が書けたとは決して思えません。しかし、私の生

きる傍らにいつも詩があり詩を書くことは生きる上での私の精神の浄化作用

を果たしてくれたように思えます。新川さんが話された「詩を書くことは編

み物を楽しむこととは違いますね」という忘れられない言葉のように厳しい

世界には辿り着けなかったと思いすが、あの時の新川さんの言葉は詩作する

私に寄り添っていたのではないかと勝手に思い込んでいます。気が付けば半

世紀以上も詩を書いてきました。このことが、胸に響いた新川さんのあの言

葉への一つの答えになっていればと願うばかりです。一方的な追悼文ですが

、私にとっての感謝の思いでしたためました。  

 ご逝去された新川和江さん、心からご冥福をお祈り申し上げます。

                            合掌

                             

                         

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随筆「8月の思い」

2023-09-08 17:09:00 | 随筆

                  高安ミツ子


   異常気象が続いた八月が終わりました。日本の季節が変わってしまうのではな

  いかと危惧するくらいの猛暑は続き、体調も疲労感が増すばかりでした。それに

  つけても、猛暑と同様に社会の動きが暑苦しく感じます。ウクライナの戦争は続

  き、テレビの情報は稚拙で品位がなく、CMは人の欲望を煽っているように思え

  てなりません。欲望の追及は人に幸福感をもたらせるものなのかと問うてみたく

  なるのは私の年齢からくる所以でしょうか。変わりゆく時代の中で私の八月を記

  してみたいと思います。

   我が家の八月は猛暑と 愛犬「こむぎ」の介護と草花の水かけの日々そして私が

  インフルエンザにかかったことでした。

   愛犬「こむぎ」は一九歳と八か月が過ぎ、何とか頑張っています。今は歩くこと

  もままならずおむつを付けた状態です。横になったまま足をバタバタさせたとき、

  何を望んでいるか推察して対処している状態です。随分我が家の空気を癒してくれ

  ましたので、最後まで看取ってあげなければと思います。しかし、鳴き声を出せな

  いほど弱った様子を見ると、切ない思いになります。こむぎの生命が一九年も私た

  ちと重なっていたことに愛おしさが沸くばかりです。生命にはバーチャルと異なっ

  た重さがあるからこそ、愛おしさが増すのではないかと思うのです。

  今年の猛暑で庭の花々の葉がやけどをしたように茶色くなりました。朝夕水やり

  をし、しかも葉水もたっぷりあげていたのですが、この猛暑は花たちにとっても痛

  手のようでした。

   今年七八歳になる私は過去の思い出ばかりが多く蘇ります。さすがに、自分の未

  来への予測はできません。かろうじて未来を感じさせてくれるものが庭の草花です。

  来年咲くように花を植え替えたり、剪定をすることで、草花の生命を育てる現実の

  私と未来に咲く花たちへの思いがつながっていくように思えるからです。

   アメリカのボストン郊外の広大な庭で草花を愛でほぼ自給自足に近い生活をした

  絵本作家ターシャチューダーのことがいつも思い出されます。ターシャは「美しい

  庭は喜びを与えてくれる」とまた、「草原に咲き乱れる白いデイジーを想像してみ

  て。無数のデイジーが光を浴びて白く輝くの。ほかになにもいらない」と話してい

  ます。欲望のよる幸福感ではなく自然の中に生きる本来の人間の姿を見る思いにな

  るのです。ターシャの庭ほど広くはない小さな我が家の庭ですが、季節ごと私に多

  くの喜びを与えてくれています。

    今宵は大輪の夕顔が咲きだしました。涼風が吹くころになると、夕暮れから見ら

   

 

  れますが、暑いうちは夜にならないとみられません。一日花です。宵闇に咲く純白

  で気高い香りに満ちた夕顔の花には魅せられます。鉢植えをはじめ、地植えや、は

  たまた紫陽花に絡むように傍らに植えました。毎夜いくつ咲いたか幼児のように数

  えています。昨夜の満月の夕顔はくっきりと宵闇に浮き出たように咲いていました。

  また猛暑の中、けなげに咲いてくれた花があります。万葉植物の「檜扇」(色彩は

  緋色)と「南蛮ギセル」(色彩はキセルに似た部分がピンク色)です。強いから時

  代を越えて生き残ってきたのでしょうか。元気に咲いてくれました。ちなみに「

  南蛮ギセル」は万葉のころは「思い草」といったようですが南蛮人が吸っているキ

  セルに花の形が似ていることから、名前が「南蛮ギセル」に変わったようです。個

  人的には「思い草」のほうがよいと思っています。この二つの花は義母が作ってい

  たものを受けついだものですが、毎年咲いてくれます。思い出を運んでくれるうれ

  しい花です。そして今年は酔蝶花の種を庭のあちこちに撒きました。朝夕花火のよ

  うな形で咲きます。初冬になると色が鮮やかになって一日中咲いてくれます。

  猛暑の中でも秋の近さを知らせるように「吾亦紅」「ほととぎす」「秋海棠」も咲

  きだしました「中秋の名月」では活躍してくれる花たちです。

   初秋から咲きだす朝顔に「天上の碧」があります。蔓を伸ばし咲きだしましたが、

 

  猛暑のため咲ききれない花もあります。この花は朝だけでなく一日中咲き、初冬ま

  で咲いてくれます。名前のように上に上に伸び蔓の先端にいくつかの花を咲かせま

  す。嘗てサントリー美術館で琳派の日本画家鈴木其一の作品「朝顔」を見ました。

  その色合いそのものの朝顔です。他に類しない碧の色は、まさしくフェルメールブ

  ルーといえましょう。早朝花たちに水やりをするのですが少しずつ花には変化があ

  ります。その分私も色んなことができなくなっていくのでしょうが折りあいを付け

  て生活しなければと思う日々です。毎朝花を見ていると人間の心に響くものは理論

  ではなく情感ではないかという思いが募ります。ふと、同じ思いをしたことが蘇り

  ました。宮沢賢治生誕某年の記念講演が日仏会館でありました。二十代のころ「玄

  」の創刊同人であった亡き友「染谷比佐子」さんとでかけ、谷川徹三と草野心平の

  講演を聞きました。谷川徹三は宮沢賢治について論理的に解明しながらの講演でし

  た。詩人草野心平は詩の朗読でした。よろよろと登壇し何も語らず賢治の詩を全身

  で朗読しました。その時の朗読が心にしみわたり涙を抑えることができませんでし

  た。実に対照的な二人の講演で、私にとって草野心平の朗読は逸品だと今でも心に

  刻んでいます。花を見ているといろんな思いが交差し自分の心が洗われていく思い

  になります。

   八月の終盤インフルエンザにかかりました。高熱が続き苦しい日々でした。「死

  ぬときは誰でもいいから傍らにいてほしい」と高熱の中で思ったものでした。平安

  時代、阿弥陀如来が死者を迎えに来る「来迎図」が盛んに描かれたそうです。安ら

  かな死を願う平安時代の人々の思いとリンクする私のインフルエンザ体験でした。

  猛暑の中の私の八月が終わりました。時代が変わろうとしています。私の記した

  思いも時代の中では振り向かれないただの落とし物かもしれません。それでも書く

  ことで自分の立ち位置を定めたい思いに駆られるのは私のエゴイズムといえましょ

  うか。

 

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随筆 「思い出の絵画」

2023-05-18 15:25:36 | 随筆

                        高安ミツ子


         

   

 

    庭の花々の世話で飽きることのない日常を過ごしていますが、先が見えないコロナ禍の

 三年間は内省することが多くなり、そのうえ老いへの更新は止まることがありませんでし

 た。日々私のどこかが削られていく思いがありました。私の立ち位置から考えても未来を

 想像することより、過去の時間が多い所以でしょう。年齢を重ねた特権でしょうか数々の

 思い出が蘇ってくるのです。自己の感傷かもしれませんが、一枚の写真のように心の底か

 ら浮かび上がってくるのです。それは一種の懐かしさをさ迷い歩くような思いにもなりま

 す。 
  日常の合間に、季節の彩の合間に、私の心模様によっても思い出は蘇ってくるのです。

 私の心が漠然とした寂しさを感じるとき蘇る一つの絵画があります。日本画家横山操(よ

 こやまみさお)が描いた「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)そして「越後十景」です。

 確か国立近代美術館で開催された「横山操」展で見た絵画でした。もともと「瀟湘八景図」

 は中国の禅僧画家牧谿(もっけい)が、中国の瀟湘地方の風景八枚を巻物として描いたも

 のです。牧谿の水墨画は鎌倉時代の末期に日本に渡ってきたようです。室町幕府の足利家

 は美術品の収集をしたり、一芸一能に優れた人を阿弥と称する芸術家集団をつくったり、

 有能な人を抱え込んだりしました。そんな尊氏のもとに中国画家牧谿の絵が持ち込まれま

 した。尊氏は絵巻物「瀟湘八景図」を切断し大きな掛け軸に直し自らの落款を入れて所持

 していました。牧谿の水墨画はやがて日本の禅僧による水墨画として発展していくわけで

 す。

 「瀟湘八景図」は足利から朝倉、そして織田信長の手にわたり信長は家臣に「瀟湘八景図」

 を分け与えたようです。「瀟湘八景図」は時の権力者を渡り歩いた訳です。そして徳川の

 世になり八代将軍吉宗が「瀟湘八景図」に興味を示し、各大名家に散らばっていた「瀟湘

 八景図」を狩野派の絵師に模写させ、それらを巻物の形に再現しました。こうして歴史の

 中で翻弄された「瀟湘八景図」が曲がりなりにも元の形に戻ることができたわけです。

  後年、近江八景(琵琶湖周辺)や横山大観、横山操等が「蕭湘八景」を描いているよう

 に「瀟湘八景図」は日本の画家たちに大きな影響を及ぼしたことが伺われます。

 横山操の初期の絵は大きく荒れ狂ったような表現でした。後年、水墨画を描くようになる

 と絵画の雰囲気が一転します。横山操の「瀟湘八景」とは横山の心象風景であるのでしょ

 うか。一気につながる故郷ではなく、その感情は曲線のように揺れ動きその彼方にある故

 郷の越後を描いたのではないかと思われます。故郷越後の風景に、牧谿の描いた絵と同じ

 題名の「瀟湘八景」を描いたのです。これに更に二点を加え「越後十景」を描きます。

  私はこの絵を見た時、絵の前から動くことができませんでした。確か和紙を使っていた

 ように思える絵画でした。墨の濃淡、光の微妙さ、そして雨、漁村、日本海の寂しい雰囲

 気が胸に迫るものがありました。私は絵が泣いていると思いました。

 その時、ふと思い出したことがありました。以前荒川法勝先生が「君たちは悲しいと記し

 ているが書かれている作品が泣いていないですね」と話されたことがありました。作品が

 泣くとはどういう意味か私には理解できませんでした。横山の絵を見て「作品が泣く」と

 は、このようなことだと知らされたのです。後日横山と盟友であった日本画家加山又造が

 「横山の絵は泣いている。俺には描けない」ということをテレビで話しているのを見たこ

 とがありました。あの時私が感じた思いは絵の力であったと認識したのです。それは技術

 力を踏まえ画家の内面から溢れてくるものだろうと思いました。横山は不義の子として生

 まれ、実母は強制的に他家に嫁がされます。横山は養子に出され、その養子先の母親もな

 くなり孤独の中一四歳で故郷を捨て上京しました。ですから故郷への思いは複雑なもので

 あったと思います。

  更にシベリアにも抑留され捕虜生活という辛酸な体験後、三十歳で帰国します。数々の

 苦労を重ね、やがて熟成された精神の在処(ありか)としてたどり着いた世界が抒情性の

 ある「蕭湘八景」や「越後十景」を描かせたのではないかと勝手に推測しています。日常

 の中でふと寂しさを感じるとき「越後十景」が頭をよぎります。「越後十景」は既に多く

 の人に語りつくされたことでしょうが、私の心の底には影のように眠っていて、私の生を

 見守ってくれるまなざしのように思えるのです。「瀟湘八景」と「越後十景」は私にとっ

 て懐かしく特別な思い出の絵画となっています。

  年齢を重ねたせいか私の思い出袋は只今膨れ上がるばかりです。

     

        

  5月だというのに今日は夏のような暑さでした。体はまだ暑さの準備が
できていません。
 今年は少し早めに夕顔の種を撒きました。発芽を楽しみにしています。
発芽を見るたびに感動するのは私だけではないのですが、せっかちな
夫は種をまいた先から早く出ないかなと話しています。猿蟹合戦の蟹
が「早く目を出せ柿の種。出さぬとハサミでちょん切るぞ」
といった蟹の心境でしょうと笑ってしまいました。
酔蝶花(すいちょうか)も撒きました。
発芽率が高く、少しおろぬかなければならない状態になりました。
開花の期間が長い花です。暑いうちは朝晩だけしか花は見られません
が涼しくなると初冬まで一日中みられ、涼しさで色合いが深くなり
花火のように咲き楽しませてくれます。
 また我が家の近くにある岩川池の小山には野生の「定家葛(ていか
かずら)」が白い小さなプロペラのような花をつけ桜や杉に絡みつき、
龍のように天に昇る勢いで咲いています。その風景は圧巻で息をのむ
思いにさせてくれます。野生のだいご味ここにありと思えるほどの風
景です。「定家葛」には花の伝説があります。藤原定家が式子内親王
に恋心を抱いたがかなえられず内親王が亡くなるとその墓に定家葛と
なって墓に絡みついたという花だそうです。
花伝説も楽しさの一つに思えます。
 植物といえば植物学者の牧野富太郎が思い出されます。富太郎は
「雑草という草はない」という名言を残されました。知らない花を
見るとその思いが蘇ります。
今は亡き義父が「これは牧野さんが描いた植物採集図鑑だ」と古び
たモノクロの図鑑を大切そうに開きながら義父がわからない植物の
名前を調べていたことが思い出されます。

季節になるとひたむきに咲いている花々、そのみずみしさは年齢を
重ねる私の寂しさにときめきの灯をつけてくれます。

今年は紫陽花が早く咲き出しそうです。
季節の移ろいが早いようにおもわれます。

                          (2023.5.17)

 

 

 

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随筆「よもぎ摘み」

2023-03-03 11:16:34 | 随筆

             

                         高安ミツ子


     

 

    寒さの中でも、少し暖かい日があって、紅梅が一二輪咲きだし、庭に萌黄色のふきのとう

   を見つけると春の前触れを感じます。

   「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」と百人一首の歌が思い出され

   ます。 


    我が家(夫と二人)の春を呼ぶイベントによもぎ摘みがあります。摘む場所は義母の生家

   の方が教えてくれました。犬も人も入らないよもぎ摘みに最適な場所でした。摘んだよもぎ

   のごみを取り,茹で、蒸したもち米と混ぜ餅つき機に入れます。つきあがると草餅が出来上

   がります。草餅を丸めますが、形は一定にはいきません。それでも、草餅は春の色合いと香

   りをもたらせ華やいだ気分にさせてくれます。出来上がった草餅は春便りと称し子供や兄弟

   に送っています。終わるたびに、来年は無理かもしれないと言いつつ新しい春を何回か迎え

   てきました。しかし、体力の限界が近づいていることは間違いないでしょう。 

   よもぎ摘みの楽しさは、枯れた草木の中で陽に当たったよもぎが、両手を広げたようにや

   わらかく育っているのを見る時です。辺りを鶯の囀りが響き渡り、太陽とよもぎと鶯と私は

   空間でなじんで、のどかな時間になります。

    しかしながら不思議なことに、よもぎ摘みの場所の鶯は「ホーホケ」と鳴くのです。最初

   は力を抜いているのか、面倒なのかと思いその省略した囀りに笑ってしまいましたが、どう

   も鶯は場所により囀りが違うことがあることに気づきました。子供が住んでいる成田市の鶯

   は「ホーホケキ・ヨ」とキ・ヨを強く鳴くのです。我が家に聞こえる鶯の鳴き声は一般的に

   言われる「ホーホケキョ」です。ある時叔父にその話をすると「京都から江戸に嫁いだお姫

   様が江戸の鶯は訛っているからと京都から鶯を運ばせて江戸で放したところ鶯はきれいに囀

   るようになり鶯の名所になった」という話を叔父から聞き囀りの違いあることを認識したわ

   けです。刷り込みという話を聞いたことはあります。鳥類のヒナが孵化直後に初めて見た動

   くものを追いかける現象だそうです。鶯も親鳥の囀りを聞いて育つのですから囀りの刷り込

   みがあることは当然でしょう。寧ろ囀りの違いがあるからこそ、それぞれの親鳥が示す子供

   への慈しみの証のようにも思え温かい心持なります.

   私は時代の恩恵を受けながら、便利さ包まれて日常生活を過ごしています。ですから生活

   のうえでの必然性からよもぎ摘みをしている訳ではありませので、他者から見たらお遊びだ

   と思われるかもしれません。確かに仕事ではないので遊びといえなくはないのです。それで

   も、実生活の中でのどかさを感じる時間は少ないかと思えるのです。のどかさとは便利さで

   も不便さでもなくほのかな命の明かりをゆったり灯せる瞬間ではないかと思えるのです。

   よもぎ摘みは私にとってのどかさとの出会いかもしれません。

   子供のころは意識することなく移り変わる四季に包まれ遊んでいました。自然には無言の

   優しさと荒々しさが共存していることを遊びを通し子供心に感じたからでしょうか。四季の

   移ろいをできるだけ受け取りたいという願望が私の根底にあることは否めません。よもぎ摘

   みもその願いの一端であるといえましょうか。確かに年とともに記憶の曖昧さは増えていき

   ますが、それでも私の中に潜む感情を喜びに変え、はかなさも含めた情感を受け止めてく

   れる自然は鶯の親鳥の慈しみに似ているように思えてくるのです。

   まもなく黄金色にミモザが庭に咲き春到来となりましょう。

   今年のよもぎ摘みが始まることでしょう。

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随筆 「コロナ禍の日々」

2022-03-05 16:50:08 | 随筆

                       高安ミツ子


 

    

 

 コロナ禍で生活していると外とのかかわりが少なくなるので自分の心探しをする時間が
増えていくように思える。思い出巡りが格好の時間となっている。私の年齢になると思い
出が多くなり、その中でも覚えているものと忘れているものがまじり合って時は過ぎてい
る。
 しかし、ふとした出来事で、過去が私に握手をしてくるような思いに駆られることがあ
る。その一つの出来事を記してみたいと思う。歌舞伎役者の中村吉右衛門が昨年の11月に
逝去された。ほぼ私と同世代の77歳であったことを知った。まさしく、吉右衛門の死は私
の思い出の一つを蘇らせてくれたのである。~太宰治の作品集より~「太宰治の生涯」と
銘打った、作品を通した太宰の生涯の芝居を東京の芸術座で見たことがふいに思い出され
た。昭和四二年の公演で太宰治役は中村吉右衛門であった。演じる役者は吉右衛門を襲名
したばかりで初の現代劇出演であったようだ。演じる吉右衛門も見る私も20代の若さで
あった。若いころは太宰文学に引き付けられるものであるが私もそんな生きにくさを感
じていた時期であったのだと思う。公演の中で、作品「津軽」からの場面があった。太宰
を三歳から八歳まで育てた女性「たけ」に太宰が会いに行く内容がとても印象に残ってい
る。病弱だった母代わりに太宰の幼少期を慈しんでくれたのが女中「たけ」であった。本
を読んでくれたり、昔話をしてくれた「たけ」への母性を求める旅であり、故郷を知る旅
でもあった。それが作品「津軽」である。この作品からは、素の太宰を感じられたのであ
る。見る私には「たけ」役の三益愛子と吉右衛門の演技に心動かされ、無性に涙があふれ
たことを思い出された。吉右衛門について逝去された後知ったことだが四歳にして吉右衛
門は「播磨屋」の養子となり歌舞伎への苦しい精進をしたそうである。「播磨屋」は実母
の生家であったという。太宰の「たけ」への思いと同様の物が吉右衛門の内部にもあり、
その思いが見る私にも伝わってきたのだろうかと今にして思われるのである。太宰の思い
出つづりはまだ続いていくようだ。
 今から一〇年は経っているのだろうか。「White Letter 」の同人四人で文学散歩をした。
同人の田村きみたかさんが企画して三鷹にある禅林寺の太宰治のお墓を案内してくれたこ
とがあった。若い人に人気がある太宰の命日の「桜桃忌」の時期ではなかったので静かにお
参りができた。また同寺にある森鴎外のお墓もお参りすることができた。更に太宰が山崎富
栄と入水自殺したという玉川上水沿いを四人で歩いたことが思い出された。太宰が亡くな
ってからの長い時間の経過で風景も変わっただろうと思われた。しかし、玉川上水沿いに
「エゴ」の大木があり茂るように小さな白い花がたわわに咲いていた。感情移入であろうが、
太宰のつぶやきのように思え、その白の美しさを見上げながら通り過ぎたことが蘇ってく
る。田村きみたかさんを先頭に佐藤真理さん、高安義郎、私の四人にとって、それぞれの思
い出深い散策となったことが懐かく、田村さんに感謝したい思い出となっている。その後同
人の佐藤真理さんは青森県金木にある太宰治の生家「斜陽館」を訪れたことを知った。私は
いまだ訪れる機会がないままである。このように、思い出をまさぐることは、自分の心の
「なごり雪」を捜しているようにも思えてくる。そういえば、太宰の作品「津軽」の本文に
入る前ページに津軽の雪という題名があり  こな雪 つぶ雪 わた雪 みづ雪 かた雪 
ざらめ雪 こほり雪 と雪の種類が記されていたことが蘇ってきた。私のなごり雪は勿論そ
の中には含まれてはいない。コロナの時期だからこそ、津軽の雪の種類になごり雪も加えて
私の懐かしさを上乗せさせてみたくなってきた。そうすることで雪景色がはるかに広がっ
ていくことを感じた。
 思い出にふけりながら窓の外を見やると庭の餌台にはヒヨドリが餌をついばんでいる。
雀はボケや梅の木にとまりヒヨドリが飛び去るの待っている。体の小さな雀は絶えずおど
おどして餌をついばむのである。このような僅かな時間経過を知らせる一コマでも、何故か
今日を生きている証のように思え、愛おしくなってくるのである。また、朝、雨戸を開けた
途端、裸木となった冬の欅の背後から昇る朝日の輝きは、まさしく「覆された宝石のやうな
朝」(西脇順三郎作品 天気より)とうたわれたことが思い出され、まぶしさと神々しさが
交り合い生命の喜びを感じさせてくれる一コマである。このように今ある小さな出来事と思
い出を交差させながら格別なことはないまま、コロナ禍を過ごしている。しかし、これから
の日常はコロナ前の日常とは異なってくるかもしれないが、同人の皆と心置きなく語られる
例会を心待ちにしているの私である。           

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