敵意の源は、対象となる人間の、あるいは人間集団について理解できないという感覚にあると思う。
たとえ、互いを敵と認識して戦いを挑むことになっても、相手を知る努力を怠った側は、敗北する道理なのではないだろうか。
昔々、米国が敵国だったころ、我が国は片仮名の言葉を禁じ、そのあらゆる文化をシャットアウトしていた。
しかし、同じころ、米国では或る人類学者が、図書館の書籍だけを頼りに、訪れたこともない極東の島国について、一読に値する文化論を書き上げていた。
ベネディクト女史の「菊と刀」という著書を読んだ時、ニッポンが負けなくてはならなかった理由に辿り着いたような気がしたものだ。
しかし、ニッポン人の私、或る人物や事象を嫌いで仕様がなくなった折には、やはりその対象に関係の深いエリアに立ち入ることを避け、関連のものを排除して、一切をシャットアウトしようとする。
それでは相手に打ち勝てないよなぁ…とは思うのである。
世情もしかり。
不愉快なことであっても、じっと事実を見据えて置くこと。
ひとつひとつの些細な事象もしっかり記憶にとどめ、整理しておき、より正しい判断ができる自分でいたい。
ひどい現実を見据えながら、いつかきっと小さな判断を集結する機会に恵まれるはずなのだから。
たとえ、互いを敵と認識して戦いを挑むことになっても、相手を知る努力を怠った側は、敗北する道理なのではないだろうか。
昔々、米国が敵国だったころ、我が国は片仮名の言葉を禁じ、そのあらゆる文化をシャットアウトしていた。
しかし、同じころ、米国では或る人類学者が、図書館の書籍だけを頼りに、訪れたこともない極東の島国について、一読に値する文化論を書き上げていた。
ベネディクト女史の「菊と刀」という著書を読んだ時、ニッポンが負けなくてはならなかった理由に辿り着いたような気がしたものだ。
しかし、ニッポン人の私、或る人物や事象を嫌いで仕様がなくなった折には、やはりその対象に関係の深いエリアに立ち入ることを避け、関連のものを排除して、一切をシャットアウトしようとする。
それでは相手に打ち勝てないよなぁ…とは思うのである。
世情もしかり。
不愉快なことであっても、じっと事実を見据えて置くこと。
ひとつひとつの些細な事象もしっかり記憶にとどめ、整理しておき、より正しい判断ができる自分でいたい。
ひどい現実を見据えながら、いつかきっと小さな判断を集結する機会に恵まれるはずなのだから。