(承前)
「演出論」では、氏は、演出=交通整理、だと考えている、演出家中心の演劇は常につまらない、潔癖な人は舞台芸術に対して完璧で統一ある作品を生み出そうと考える、全体主義国の演劇は必然的に演出家中心主義にる、演出家=全能者という考えに惹かれた演出家は劇の隅々まで自分の爪痕が残らないと承知しなくなる、演劇は「妥協の芸術」だ、役者は台本に、劇作家は役者に妥協しなければならない、妥協の余地のないものはもはや芸術でない、目に見える生きた肉体(役者)が、眼に見えないもの(演出家)に操られているのを眺めるのは観客にとって苦痛だ、役者の自由が禁じられ表立ってくると表立ってくると、観客の想像の自由を失う、私たちの後進性がよく新しさと勘違いして肯定されていることがあるが、演劇中心主義もそのひつ、演劇後進国日本に西洋帰りの演出家を奉る風習を生み、演出家を演劇の中心的存在に祭り上げた、これは知識人や文化人といった人たちが特権階級に祭り上げられる傾向と一致している。
全体主義国家の演出云々というところは福田氏ならではの論理展開であろう。なかなか面白い論考である。演劇の演出家に限らず、オーケストラの指揮者、オペラの演出家、映画監督などの役割についても考えさせらる。
「シェイクスピア劇の演出」では、役者と劇作家との間には対立や抗争があるが、ある種の信頼感があれば両者は両立する、演出家の役割はその両立の兼ね合いにかかっているのでその範囲を逸脱してただ全体の統一といってもそのよりどころは演出家の恣意による以外なくなる、演出の意識過剰にしてはならない、シェイクスピアは劇的効果という点では何人も及ばぬほど的確であった、劇的効果とは不安・怒り・懐疑・愛欲・野心等の情熱を刺激し浄化する効果のこと、劇は描写ではない、ハムレット役者は観客がその都度ハムレットにこうしてもらいたいと願うことをやってのけて、観客の心理的願望を満たしてやらなければならない、役者は観客が自己の心理的効果を充足させるため、観客の身代わりとして、舞台に昇っているのだと言うこと、シェイクスピア劇では役者もまた作者、演出家、観客にならなければならない、つねに作者と役者と観客との三位一体がある
シェイクスピアの原文は強弱の音が交互にひびき、リズムがありテンポがあるので早く喋っても言葉が崩れない、日本語の翻訳では早く喋るとわけがわからなくなる。これは(その1)でも述べた「ジョン王」を観たときに感じた日本語せりふの聞き取りにくさについての福田氏による回答かもしれないと思った。
(その3に続く)
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