最近、演劇に興味があり、たまにプレミアムステージ(BS放送)や劇場に見に行くことがある。戯曲(シェイクスピアやイプセン、ゴーゴリなど)や、原作となっている小説を知っている場合もあることも興味を持ったきっかけになっている。たまたまこの本(「演劇入門」)があるのを知って、かつ、著者の福田恆存氏がシェイクスピア戯曲翻訳家であることもあり、演劇のことを少し勉強しようと思い読んでみることにした。少々古い本だが本質的なところは現代でも同じだろうと思う。
読んでみたところ、氏の演劇に対する深い考察を感じられ、なるほどそういうものか、と思わせるところが多々あった。もちろん、これは1つの見解で他の見解もあるだろう。それで良いのだ。ただ、内容は今まで演劇を真剣に勉強してこなかった者にとっては、簡単に理解できるものではない、先日読んだフルトヴェングラーの「音楽と言葉」と同じだ。その道の権威が専門的に解説しているものはそう簡単に理解できるものではないし、一回読んだくらいで全部わかった気になることはできない。しかし、氏が主張しているいくつかの論点をを記してみよう。
「劇と映画」では映画と演劇の違いを述べている、映画は監督が観客がどう見てほしいか時間も空間も支配する、演じている役者も映画の場面を前後関係なく細切れで撮影して監督がつなげる、一方、演劇は、舞台で一気に演ずる、そして役者が一方的に観客に見せるのではなく、観客の反応を見て自分が演じたことが伝わっているか理解して更に自分の演技を修正していく、観客も参加した観客と役者の無言の対話がある点で両者は異なる
「劇と小説」では、演劇はせりふが全てである、小説は場面の説明をせりふとは別にできるが演劇はできない、小説は後戻りして何度も繰り返し確認しながら読めるが、演劇は一回勝負である、だからせりふが大事、せりふは事件や筋の展開を説明する面と人物の性格、主張をする面と両方ある、前者ばかりのセリフになると退屈な劇になる、1つのセリフにこの二重の意味を持たせた深みのあるものに充ち良いものである
「演技論」では、役者諸君に真剣に考えてもらいたいのは、役者にとって個性とは何かということだ、個性は強制と禁止によってしか得られない、人によって強制され禁止されて初めて、自分は何を強制され禁止されたら最も辛いか、最も欲するものは何かがわかる、自分がやりたいように演ずるなど手軽な欲求を殺してかかることが肝要。ここは保守派の福田氏の面目躍如といったところだろう。強制や禁止という言葉を聞くだけで拒絶反応を起こす人たちがいるが、それを全部否定してしまうとどうなるか、考えさせられる。
「演技論」では、私(福田氏)が不思議と思うのは、日常生活では極く自然に喋り動いているのに、いざ舞台に上がるとそれが全くできなくなるということだ、更に不思議と思うことは、地声、普段の話し方、姿勢、歩き方をそのまま舞台に持ち込むことは逆に、その役者はその役者なりの舞台の声、舞台の話し方、舞台の姿勢、舞台の歩き方、等々、舞台用の癖というものを持っている人が案外多いということだ、この場合も役とは関係なしに、つねに同じ1つの癖というものを持って押し通していることだ。先日観た「ジョン王」で感じた、舞台の役者がつねに怒鳴って話しているようだという感想はあながちおかしくないと感じた
(その2に続く)
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