澤田瞳子著「星落ちて、なお」(文春文庫)を読んだ、この本は第165回(2021年上半期)直木賞受賞作だが知らなかった、著者は昭和52年/1977年生れ、直木賞受賞前にも「若冲」で第9回親鸞賞(平成28年/2016年)受賞などの業績がある
絵師・河鍋暁斎(きょうさい、1831-1889、59才没)の娘とよ(1868-1835)は、暁翠(きょうすい)の画号をもつ絵師、父亡き後、仲がよいとは言えぬ腹違いの兄・周三郎(暁雲)と共に洋画旋風の中、狩野派由来の父の画風を守ろうとする、江戸末期から明治大正期にかけての激動の時代、家庭の生活を担いつつ、絵師として母として、愚直に己の生を全うした女の一代記、とある
物語は暁斎がなくなった明治22年から書き起こされ、大正13年までの35年間にわたるとよの人生を綴っている、出てくる人物は全て実名であると思われる、フィクションはないでしょう、それだけに美術ファンの私としては単なる小説ではなく美術の教科書的なものとして読んだ
とよ(暁翠)の人生は葛藤の連続であった、いくつかそのわけを書いてみると
- 父の暁斎は画鬼と呼ばれるほどに絵に狂った存在、生家の火事すら人の命を顧みず写生し、血を分けた子供たちでさえ絵の技量で推し量った、暁斎が真に家族と考えていたのは自分の筆で描いた絵のみ
- 画家になった異母兄の周三郎ととよは父と「血でつながっている」というよりは「墨や一本の筆でつながっている」親子であり、父は画の師匠でしかなかった、だからこそ暁斎の死後もなお憎み、嫉まずにいられない、暁斎は獄、自分と兄は彼に捕らえられた哀れな獄員、絵を描くというのは父にとらわれ続けることだ、二世画家の悩みが一生付いて回った
- 維新後、西洋画の手法が導入され、狩野派の画風の父の絵は時代遅れになった、兄が父と同じ病気で他界したため、とよだけが父の画風を継承する画家となった、しかし、兄と違って自分は父や兄のようにはなれないとも思っていた
- とよは結婚もし、子供も授かった、父の画風を引き継いだ絵を追求しても金にならないため挿絵などを書いて家に金銭的負担がかからないようにしていたが、ついに自分が父を引き継ぐ立場になり、画家と家庭の板挟みになる
とよはこれらの葛藤に終始悩んだが、最後は若いころ自分を援助してくれた鹿島清兵衛の生き様を見て、話を聞いて、示唆を受け克服する
読後感
- 自分は絵画鑑賞を趣味にしているが日本画は必ずしも詳しくなかったため、河鍋暁斎・暁翠親子のことは知らなかった、そして著者の澤田瞳子も知らなかった、今回彼女の本を読んでいろいろ勉強になった
- 画鬼と呼ばれるほどの絵師であった父を持つ女性絵師として長年悩み葛藤するとよ(暁翠)であるが、そのようなことは歌舞伎や他の伝統芸能の世界でも当たり前のようにあると思うがどうであろうか
- この本には河鍋親子以外にも何人かの画家や彫刻家が実名で出てくるが、一番多く出てくるのが当時の日本画壇の権威、橋本雅邦だ、昨年川越の山崎美術館を訪問したら、雅邦の絵を多く所蔵していた、そしてオーナーである和菓子の龜屋の歴代当主は雅邦の絵の保存に力を注いできた(その時のブログ)
- 同じく昨年、土方定一著の「日本の近代美術」を読んで、日本近代美術の歴史を少し勉強した(その時のブログ)、その本でも橋本雅邦が多く出てきた、雅邦は西洋絵画技法を日本画にも導入し画壇の頂点に君臨したが、本書では「もとは狩野派の門人のくせに西洋かぶれした朦朧体画家どもの師を気取っている男だ、おれはこういう腹のすわらない絵描きが一番きらいだ、新しい物好きな世間にふわふわと流され、雑種(あいのこ)の絵など描きあがって」と周三郎に言わせてる、一方、土方の本では河鍋親子のことは全く触れられていなかったのは残念だ、河鍋暁斎は当時の最高人気作家であったのにだ
- 橋本雅邦や横山大観、下村観山、菱田早春、植松松園らのように時代の変化に合わせて自分のやり方を修正して売れる絵を描くのが良いのか、暁翠のように自分が継承者を自認して昔ながらの教えをかたくなに守って売れない絵を描くのが良いのか、芸術家は常に悩むのでしょう、同じ問題は恩田陸著の「蜜蜂と遠雷」でコンクールに出るピアニストの話としても出たし(こちら参照)、樋口一葉の「うもれ木」の陶芸家でも出てた(こちら参照)
- 暁翠は平凡な男性と結婚し、娘も一人授かったが、父を承継する決意をしてからは画業に専念するために別宅にこもって絵を描き続けたため、夫婦仲が疎遠になり離婚せざるを得なくなった、この暁翠の生き方は共感できなかった、何とか家庭と両立できなかったのだろうか、生き方が器用ではなかった
- また、自分が長い間、父と兄との間で悩んだため自分の娘は画家にしなかったが、娘さんはどう思っていたのか知りたいと思った、母のようにはなりたくないと思っていたのだろうか
- 兄の周三郎が百画会(展覧会)を神田明神境内脇の料亭「開花楼」で開いた、この「開花楼」だが、宮尾登美子の小説で十一代目市川團十郎をモデルにした「きのね」で雪雄(團十郎)の初婚の相手がこの「開花楼」(小説では「満開楼」)の令嬢ということを思い出した、なお開花楼は現在は新開花という名称になって営業を継続している
- その「開花楼」の百画会に橋本雅邦が押しかけて周三郎とひと悶着があった、それは画家の才能があると見込んで雅邦の娘の婿にした男が周三郎の嫁お絹の妹と遊蕩のあげく身を持ち崩し、離縁する結果となったことに怒り、怒鳴りこんできたのだ、この追い出された婿は西郷孤月という画家だ
- 弟の記六の彫刻の先生の門下生である北村直次郎が東京勧業博覧会の運営に激怒する場面がある、曰く、「この展覧会には審査委員を務めるお偉い方の作も多く出展されているんですが、噂によれば褒賞の一等は、ほとんどそいつらが取ると内々に決まっている、今までも審査委員が知り合いの作品に手心を加えたり、自作に高い評価を付けたとのうわさが囁かれた」、昨年読んだ恩田陸の「蜜蜂と遠雷」でも音楽コンクールの審査委員が弟子の審査をすることが書いてあった、そのような「利益相反」は結果に信頼性がないとされるが美術界や音楽界は業界の特殊性として今でもそうなっているのだろうか、ただ本書では「東京勧業博覧会での直次郎の自作破壊事件の反省を受け、実作者のみならず美学者や美術行政官を審査員として迎え、公平な審査を旨とする展覧会として知られる」と書いてあったから少しは改善されたのかもしれない
良い本でした
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