■■■■■
帯とけの三十六人撰
四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。
藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。
兼盛 十首(七)
ことし生ひの松は七日になりにけり 残れる千代を思ひこそやれ
(今年生まれの小松は、七日目になったことよ、残っている千年を思い遣るなあ……こ疾し、極まりの、女子は七日目になったことよ、残る千夜を・残りのほとを、心配するよ)
言の戯れと言の心
「ことし…今年…こ疾し…こ早過ぎ…おとこの性」「おひ…生ひ…生まれ…追ひ…極まり…感の極まり」「松…千年の長寿…言の心は女…貫之は土佐日記二月十六日に(小松…少女)であることを歌で教示している」「千代…千夜…長寿…持続性」「ほど…程…時間…程度…人柄…ものの性格…ほと…おとこおんな…まぐあい」「ほ…お」「と…門」「思いやる…遠い先に思いをはせる…遠い先を心配する」
拾遺和歌集 巻五 賀 右大将藤原実資産屋の七夜に(右大将藤原実資に女の子が誕生した産屋の七夜で・祝いに詠んだ歌)。
歌の第四句「残れる千代を」は、拾遺集では「残りの程を」となっている。公任は「ほど…ほと」の戯れを避けて、祝賀に相応しい「千代…千夜」の方にしたのだろう。歌の姿の清らかさはこちらが優っている。なお、藤原実資(ふぢはらのさねすけ)は、公任にとって従兄弟にあたる。後に祖父の養子になって、小野宮右大臣と呼ばれた人である。実資も公任も若いころ、兼盛の歌に直に接している。
歌の「清げな姿」は、言祝ぎ。「心におかしきところ」は、生まれて七日目の女の子の先々のそのお心の程を心配するところ。たぶん、産屋は和やかな笑いに包まれただろう。
拾遺和歌集 賀の歌を、もう一首聞きましょう。「藤氏のうぶやにまかりて」 大中臣能宣、
双葉より頼もしきかな春日山 こだかき松のたねぞと思へば
(双葉のころから、頼もしいことよ、春日山、木高き松の種ぞと思えば……幼児より、頼もしいことよ、春日山、小貴き女の、胤だと思えば)
言の戯れと言の心
「春日山…藤原氏の氏神の鎮座するところ…藤原氏の象徴」「こだかき…木高き…小高き…小貴き…すこし貴い」「松…言の心は女」「たね…種…胤」
歌の清げな姿は、春日山の小松のお話。「心におかしきところ」は、藤氏の女腹に皇女が誕生された言祝ぎ。
両歌とも、松の「言の心」を心得ると、歌の「心におかしきところ」のあることがわかり、貫之が「古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」ということもわかる。
『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。
以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。
藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。
清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。
上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。
それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。