帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 兼盛 (八)

2014-10-10 00:21:36 | 古典

       



                   帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 兼盛 十首(八)


 朝日さす峰の白雪むらきえて 春の霞はたなびきにけり

 (朝日さす峰の白雪、斑消えて、春の霞は棚引いたことよ……朝日さし、山ばの頂の白逝き、まだらに消えて、張るの彼済みは、横ざまにのびてしまったなあ)


 言の戯れと言の心

「峰…山ばの頂上…絶頂」「白雪…白逝き…おとこ白ゆき」「春…季節の春…春情…張る…緊張・膨張」「霞…かすみ…彼済み…あの果て」「たなびく…棚引く…横ざまにのびる…山ばたち消える」


 これは歌合の歌という。その詳細は知らない。それでも「心におかしきところ」を当座の人々と同じように聞けているのではないかという実感が得られれば、この歌を享受した証しとなる。


 

 春の霞と冬の名残の氷・雪の歌を聞きましょう。


 後拾遺和歌集 春上 「花山院歌合に霞をよみ侍りける」、藤原長能(ふぢはらのながよし・蜻蛉日記の道綱母の弟)


 谷川のこほりもいまだ消えあへぬに 峰の霞はたなびきにけり

(谷川の氷も未だ消えきらないのに、峰の春霞は棚引いたことよ……女の身のかたさも未だうちとけきらないのに、山ばの峰の彼済みは、横ざまにのびてしまったなあ)


 言の戯れと言の心

「谷…言の心は女」「川…言の心は女」「氷…冬の名残り…ひややか…心に春を迎えていない」「峰…兼盛の歌と同じ」「霞…兼盛の歌と同じ」「たなびく…兼盛の歌と同じ」

歌の姿は清げで、「心におかしきところ」は、何となく「艶」にも「あはれ」にも聞こえる。

 

 後拾遺和歌集 春上 「一条院の御時、殿上人、春の歌とて請ひ侍りければよめる」、紫式部(源氏物語作者)


 み吉野は春のけしきに霞めども むすぼほれたる雪の下草

(み吉野は春の景色に霞んでいるけれども、つぼみの・結ばれたままの雪の下草よ……身・見好しのは、春の気色にぼんやりしているけれども、からみついたままの白ゆきの下の女)


 言の戯れと言の心

「春…兼盛の歌と同じ」「霞…兼盛の歌と同じ」「むすぼほれたる…結ばれている…からまったまま…しがみついたまま」「雪…兼盛の歌と同じ」「草…草花…言の心は女」


 歌の姿は清げで、「心におかしきところ」は、何となく「艶」にも「あはれ」にも聞こえる。さすが紫式部と言いたくなる。殿上人にも好評だっただろう。

 


 『群書類従』和歌部を「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。


 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集仮名序の冒頭に、「やまと歌は、人の心を種として万の言の葉とぞ成れりける」とある。同じ、真名序の冒頭に、和歌は、託其根於心地、発其華於詞林(その心根を心地に託し、その花を言葉の林にひらく)ものなり、とある。

 

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。

 

藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 

清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 

藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 

上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているけれども、貫之と公任の歌論と、清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。

 

それに、歌のよきこと(優れた歌の様)について、古来風躰抄に「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、「歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、(公任のいう、心におかしきところが)何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである。(歌の姿は、清げにこしたことはなく、深き心は、心におかしきところの煩悩即ち菩提にある)」。