■■■■■
帯とけの九品和歌
公任の歌論『新撰髄脳』は、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。
「九品和歌」 中品下
すこし思ひたるところあるなり。
(少し思っているところが有るのである……詠み人は・少し思っていることが有るのである)
きのふこそ早苗とりしかいつのまに 稲葉そよぎて秋風ぞ吹く
(昨日よねえ、早苗採り・田植したのは、いつの間に、稲葉そよいで秋風が吹くの……木の夫だからよ、さ汝枝とい入れたわ、いつの間に、否端、揺らいで、飽き風吹かすのよ)
言の戯れと言の心
「きのふ…昨日…ほんのこの前…木の夫…つよくかたいおとこ」「こそ…限定して指示・強調する意を表す」「こ…おとこ」「さなえ…早苗…さ汝枝」「さ…接頭語」「な…汝…親しみ込めその身の枝」「え…枝…身の枝…おとこ」「いなば…稲葉…否端…否という身の端」「そよぐ…揺らめく…よれよれになる」「秋風…飽き風…あきの心風」「秋…季節の秋…飽き…あきあき」「風…心に吹く風」
歌の清げな姿は、光陰矢の如し。
心におかしきところは、よみ人の女は、媾淫矢の如きおとこのはかないさがについて、すこし思うことがあるのである。
深き心はない。古今集 秋歌上、題しらず、よみ人しらず。
我を思ふ人を思はぬむくいにや 我がおもふ人の我を思はぬ
(我を思う人を思わない報いなのか、我れの思う人が我を思わない……俺に思いを寄せる女を愛おしく思ってやらなかった天の報復か、俺の思いを寄せる女が、俺を何とも思わないのは)
言の戯れと言の心
「思ふ…心にかける…愛おしく思う」「人…異性…女」「むくい…報い…ある行為の結果として受ける事態…因果応報」
歌の清げな姿は、因果応報の自覚。
心におかしきところは、まわりくどく、失恋を自嘲するところ。
深い心は無い。古今集 雑体の誹諧歌、題しらず、よみ人しらず。誹諧歌は滑稽に誹謗する(嘲笑する、時には自嘲する)歌。
原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。
以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。
◇「我を思ふ人を…」の歌は、三十一文字の中に、「思」が四箇所、「我」が三個所、「人」と「ぬ」が各二箇所ある。これは歌の病(欠陥)である。承知しながらあえてそうするのは自虐。ここまでやれば諧謔となる。
◇このような歌には軽く次のように返すのだろう。古今集に並べられてある歌、「思ひけむ人をぞともに思はましまさしやむくいなかりけりやは(思いを寄せてくれた女と、相思相愛になればよかったのになあ、確かに・失恋の・報いはなかったかなあ、いや、確かに・おぬしは女に・報われないなあ)」。「むくい…報い…因果応報…果報…幸運」「やは…反語の意を表す」。