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帯とけの新撰髄脳
優れた歌を詠むための技術指導である。優れた歌を例示して参考にせよという。悪い歌を例示して難点を指摘する教え方ではない。
「新撰髄脳」
み山には霰ふるらし外山なる 正木のかづら色付きにけり
(深い山にはあられが降るのだろう、浅い山の柾木の葛、色付いたことよ……奥の山ばには、荒れ振るにちがいない、浅い山ばの男成る、からみつく女、色づいたことよ)
言葉の多様な意味
「み山…深山…奥深い山…おんなの山ば」「山…山ば…感情のやま」「あられ…霰…氷り混じりの雨…荒れ…粗れ…おとこの情念の塊」「ふる…降る…振る」「らし…推量を表す…確信を以て推量する意を表す」「外山…深山以外の山…浅いおとこの山ば」「まさ木…柾木…正木…まさに男」「木…言の心は男」「なる…にある…の…成る…ゆきつく…萎る…なえる」「かつら…葛(採りものの一つ・神の御前で神官の具す物)…生命力の強いつる草…からみつく女」「草…言の心は女」「色…色彩…秋色…飽き色…色情…色欲」「つき…付き…着き…尽き」
歌の清げな姿は、晩秋の木とつる草の風景。
心におかしきところは、おとこの山ばに後れて、おんなの山ばが、ようやく色つくさま。
古今集 神遊びの歌、採り物の歌。
(山二つあり秀逸の歌なれば病とならず)。
ことさらにとりかへしてよみ、所々に多くよめるは、みなさるさま也。其歌ども更に書かず。
(山が二箇所あるが、秀逸の歌であるから病とせず・取り去ることは無い)。
ことさらに繰り返して詠み、所どころに多く同字が有るのは、皆、取り去るべき様である。悪い・その歌々は、あらためてここに書かない。
又ふた句に末に同字ある(初句二句の末の字同じき事也)は、世の人みな去物也。句の末にあらねども、ことばの末にあるは、みゝにとゞまりてなんきこゆ。
またそれに、二句の末に同字ある(初句と第二句の末の字が同じ場合である)のは、世の人皆とり去るものである。句の末でなくとも、詞の末に有るのは、耳に留まってだ、難と聞こえる。
散りぬればのちはあくたになる花と 思ひしらずもまよふてふ哉
(散ってしまえば、後は塵あくたになる花と思いもせずに、舞い迷うという蝶だなあ……散ってしまえば、後は、吾くたくたになるお花と知らずに、迷うというのかあ)
言葉の多様な意味
「あくたに…芥に…塵芥に…吾くたに…おのれくたくたに」「くたくた…ずたずた…ぐにゃぐにゃ」「くたに…花の名か…何の花か不詳…苦多に」「花…男花…おとこ花」「まよふ…迷う…出家を迷う…世をさまよう」「てふ…蝶…と言う」「哉…かな…感嘆・感動を表す」
清げな姿は、花と花とを縫うようにとりとめもなく舞う蝶の様子。
心におかしところは、おとこ花の果てをしらずに酔い惑うおんなとおとこのありさま。
古今集 物名、くたに、をおり込んだ僧正遍照の歌。別に深い心がありそうである。
(散りぬれはのはと後はとみゝにたつ也)。
句をへだたらでも、さらさらんよりは、おとりてきこゆる物也。
(此義は初句と第二句の末の同じ字はさのみの病ならず、句をへたてゝ、第一の句の末、第三の句の末の同字を禁じることば也、第三の句の末の字本韻也)。
(散りぬればの「ば」と、後はの「は」と、耳に留まるのである)。
句を隔ててなくても、滞らない・すらすらいくのよりは、劣って聞こえるものである。
(此の意味は、初句と第二句の末の同じ字は、それだけの病ではない、句を隔てて第一の句の末と、第三の句の末の同字を禁じることばである。第三の句の末の字は上の句の韻である)。
「新撰髄脳」の原文は、続群書類従本による
(公任の書き残した文に、これで学んだ人の書き入れがあるようだが、区別せず受け入れる)。