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帯とけの九品和歌
公任の歌論『新撰髄脳』に、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。
「九品和歌」 下品下
ことばとゞこほりてをかしきところなきなり。
(言葉が滞って、おかしきところが無いのである……言葉の流れが悪く淀んで、心におかしき艶が消えてしまって無いのである)
世の中のうきたび毎に身を投げば ひと日に千度我やしにせむ
(世の中が憂き度毎に、池にでも・身を投げれば、一日に千度、我は死んでいるだろうな……夜の仲が浮き度毎に、逝けに・身を投げれば、我は一日に千度、死ぬだろうな)
言の戯れと言の心
「よの中…世の中…男女の仲…夜の中」「うき…憂き…浮き」「し…死…逝」「む…推量の意を表す」
歌の清げな姿は、憂き世の中の誇張表現。
心におかしきところは、おとこの自慢らしいが、誇張しすぎた言葉に引っかかって、艶消しでおかしくない。
梓弓ひきみひかずみこずはこず こはこそは猶こずはこはいかに
(梓弓・引いたり引かなかったり、君・来ないのは来ないつもりね、これは、これこそは、やはり来ないのは、これはどうしたことよ……弓張りのもの、引き寄せたり寄せなかったり、もの・来ないのは来ないのね、此れは、此れこそは、汝ほ、来ないのは、此れ何ゆえに)
言の戯れと言の心
「梓弓…梓製の弓…枕ことば、引く・射る・張るなどにかかる」「弓…おとこ」「ひき…弓を引き…引き寄せ」「こず…来ず…(待つ君が)来ない…ものが来ない…(山ばが)来ない」「こ…来…子…小…此れ…おとこ」「なほ…猶…やはり…汝お…君のおとこ」
こずはこずこはこそこずはそをいかに ひきみひかずみよそにこそみめ
(君・来ないのは、もう来ないのね、此れこそ、来ないのは、其れはどうしたことよ、引く退かないいづれにしても、よそ目に観察するつもりよ……君・来ないのならば来ずっともいい、其れこそはどうかしたの、引き身引かず身、他所の女にこそ、見ているのでしょう)
言の戯れと言の心
「こず…来ず…(待つ君が)来ない…ものが来ない…(山ばが)来ない」「こ…来…子…小…此れ…おとこ」「見…観…覯…媾…まぐあい」「め…む…意志を表す…推量を表す」
この両歌の清げな姿は、男心に吹いた飽き風を問い詰める女の心情。
心におかしきところは、伝わっても、読みあげにくく聞きづらい言葉に引っかかって、艶もあはれさもないので、心におかしく無い。
原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。
以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。
◇藤原俊成は、『古来風躰抄』に、「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れる」と、歌に複数の意味が顕れる原理を述べ、その重要さを述べた。加えて、「歌のよきこと」(優れた歌の様)について、「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にも、あはれにも聞こゆることのあるなるべし」と述べている。公任の歌論でこれを読み解けば、(歌はただ読み上げたり、朗詠した時に、心におかしきところが・何となく色気があって艶っぽく、心にしみじみとした感慨や胸がキュンなる感動が有るように聞こえることがあるべきである)ということになる。公平に見て、上品の歌にはそれがあるが、下品になるにつれて、艶が失われていることがわかる。
これにて、「九品和歌・前大納言公任卿」の解釈を終える。今の、伝統的和歌の捉え方は、公任とは全く異なる文脈に成ってしまっているため、「和歌九品」と称される公任の歌論を解釈することは不可能であった。「歌に表裏の説ありといふこと不用」という近世の国学と、其れを継承した国文学によって構築されてきた解釈方法を、私は、あえて捨て去った。そして、貫之、公任の説に素直に耳を傾けると、こうして、曲がりなりにも、公任の歌論の一つが解けた。
今のところは、四面楚歌であるが、我らの和歌はそのような歌ではなかった。我が歌解釈の方法は間違っていないことを、地道に示していくしかない。そうすれば、和歌に、心におかしきところが甦るだろうか。
数日休んで、また、和歌について語りつづけるつもりである。