帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 下品中

2014-11-11 00:53:52 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 公任の歌論『新撰髄脳』に、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。

 

 「九品和歌」 下品中


 ことのこゝろむげにしらぬにもあらず。

(言の心、無下に、知らないのではない……言の心を全く何も知らないのではない)

 

 今よりはうゑてだにみじ花薄 ほに出づる秋はわびしかりけり

 (今よりは、植えまでして観賞しないつもりだ、花薄、穂に出る秋は侘びしいことよ……これからは、たね・うえつけまでして、見るつもりはない、華の薄い気、ほに出る飽きは、わびしいかりであるなあ)


 言の戯れと言の心

 「うゑ…植え…植え付け…種付け…胤つけ」「見…観…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す」「花薄…花の咲いてしまった薄…飽きてしまった薄情な気…薄は草花なのに薄情なのは男だからか、言の心は男」「ほ…穂…お…おとこ」「秋…飽き…あきあき」「わびし…ものたりずさみしい…くるしくつらい…やりきれない…興ざめだ…わびしきおとこのさが」「かり…(わびしく)あり…狩り…猟…まぐあい」「けり…詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、花薄に寄せた季節の秋のわびしさ。

心におかしきところは、飽き果てたおとこのわびしさ。

深き心はない。 


 

我が駒は早くゆきこせ松浦山 まつらむいもをいきてはやみむ

(我が駒は早く行き越せ、まつら山、待つであろう愛しい人を、行って早く見たい・逢いたい……わがこ間は、早くゆき越させよ、女心の山ば、待つだろう愛しい女を、活きて全速で見よう)

 

言の戯れと言の心

 「こま…駒…こ間…股間」「はやく…早やく…すみやかに…すぐに」「ゆきこせ…行き越せ…山ばを・行き越せ(命令形)」「まつら山…山の名…名は戯れる。松浦山、待つら山ば、女心の山ば」「松…木の言の心は男ながら、待つためかどうか、松の言の心は女」「浦…言の心は女」「いき…行き…生き…活き」「はや…早や…速や…急速・強烈」「み…見…対面…覯…まぐあい」「む…意志を表す」

 

歌の清げな姿は、愛しい人に早く逢いたいと吾駒に鞭打つ男。

心におかしきところは、愛しい女を全速で山ばへ送り届けよと吾こ間を叱咤激励する男。

 深きい心はない。
 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。


◇清少納言は、すすき(薄)という植物とその名を枕草子に記している。

「草の花は」という書き出しで、なでしこ、おみなへし、他、次々と草花の名を十数種類示して、「これに薄を入れぬ、いみじうあやしとひといふめり」という。草花の言の心は女なので、これに薄を、入れぬ(入れないと…入れたら)、女たちはとっても変よというでしょう(薄の言の心はおとこだから)。「秋の野のおしなべたるおかしさは、薄こそあれ、穂先の蘇枋にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりのものやはある。秋の果てぞ、いと見どころなき(……飽きのひら野の、おしひしがれたおかしさは、すすきこそよ、ほ先の、赤紫いろの濃いのが、浅きりに濡れてうちひしがれてよれよれになったのは、それほどの物は他にあるや・無い。飽きの果てぞ、まったく見どころなし)」「人にこそいみじうにたれ(人によくよく似ている……男によく似ている)」などという。清少納言は読者の女たちを意識して、その心をくすぐっているのである。そのおかしさは、和歌の「心におかしきところ」と同じであり、言葉の用い方も同じである。伝統的和歌の文脈に至らなければ、枕草子も清げな姿しか見えない、「をかし」とあっても、おかしくないのはそのためだ。

 

◇「我が駒は」の本歌は、万葉集 巻第十二にある。旅にあって我が家の妻を思い詠んだ歌。「乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟」(さあ、吾駒、ここは・早く去ろう、故郷の・まつち山、待つだろう妻を、早く見たい・逢いたい……乞う吾こ間、ここは・早く去ろう、まつち山、待つだろう妻を、ゆきて急速・全速で、見たい・覯しよう)。