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帯とけの九品和歌
公任の歌論『新撰髄脳』に、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。
「九品和歌」 下品中
ことのこゝろむげにしらぬにもあらず。
(言の心、無下に、知らないのではない……言の心を全く何も知らないのではない)
今よりはうゑてだにみじ花薄 ほに出づる秋はわびしかりけり
(今よりは、植えまでして観賞しないつもりだ、花薄、穂に出る秋は侘びしいことよ……これからは、たね・うえつけまでして、見るつもりはない、華の薄い気、ほに出る飽きは、わびしいかりであるなあ)
言の戯れと言の心
「うゑ…植え…植え付け…種付け…胤つけ」「見…観…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す」「花薄…花の咲いてしまった薄…飽きてしまった薄情な気…薄は草花なのに薄情なのは男だからか、言の心は男」「ほ…穂…お…おとこ」「秋…飽き…あきあき」「わびし…ものたりずさみしい…くるしくつらい…やりきれない…興ざめだ…わびしきおとこのさが」「かり…(わびしく)あり…狩り…猟…まぐあい」「けり…詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、花薄に寄せた季節の秋のわびしさ。
心におかしきところは、飽き果てたおとこのわびしさ。
深き心はない。
我が駒は早くゆきこせ松浦山 まつらむいもをいきてはやみむ
(我が駒は早く行き越せ、まつら山、待つであろう愛しい人を、行って早く見たい・逢いたい……わがこ間は、早くゆき越させよ、女心の山ば、待つだろう愛しい女を、活きて全速で見よう)
言の戯れと言の心
「こま…駒…こ間…股間」「はやく…早やく…すみやかに…すぐに」「ゆきこせ…行き越せ…山ばを・行き越せ(命令形)」「まつら山…山の名…名は戯れる。松浦山、待つら山ば、女心の山ば」「松…木の言の心は男ながら、待つためかどうか、松の言の心は女」「浦…言の心は女」「いき…行き…生き…活き」「はや…早や…速や…急速・強烈」「み…見…対面…覯…まぐあい」「む…意志を表す」
歌の清げな姿は、愛しい人に早く逢いたいと吾駒に鞭打つ男。
心におかしきところは、愛しい女を全速で山ばへ送り届けよと吾こ間を叱咤激励する男。
深きい心はない。
原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。
以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。
◇清少納言は、すすき(薄)という植物とその名を枕草子に記している。
「草の花は」という書き出しで、なでしこ、おみなへし、他、次々と草花の名を十数種類示して、「これに薄を入れぬ、いみじうあやしとひといふめり」という。草花の言の心は女なので、これに薄を、入れぬ(入れないと…入れたら)、女たちはとっても変よというでしょう(薄の言の心はおとこだから)。「秋の野のおしなべたるおかしさは、薄こそあれ、穂先の蘇枋にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりのものやはある。秋の果てぞ、いと見どころなき(……飽きのひら野の、おしひしがれたおかしさは、すすきこそよ、ほ先の、赤紫いろの濃いのが、浅きりに濡れてうちひしがれてよれよれになったのは、それほどの物は他にあるや・無い。飽きの果てぞ、まったく見どころなし)」「人にこそいみじうにたれ(人によくよく似ている……男によく似ている)」などという。清少納言は読者の女たちを意識して、その心をくすぐっているのである。そのおかしさは、和歌の「心におかしきところ」と同じであり、言葉の用い方も同じである。伝統的和歌の文脈に至らなければ、枕草子も清げな姿しか見えない、「をかし」とあっても、おかしくないのはそのためだ。
◇「我が駒は」の本歌は、万葉集 巻第十二にある。旅にあって我が家の妻を思い詠んだ歌。「乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟」(さあ、吾駒、ここは・早く去ろう、故郷の・まつち山、待つだろう妻を、早く見たい・逢いたい……乞う吾こ間、ここは・早く去ろう、まつち山、待つだろう妻を、ゆきて急速・全速で、見たい・覯しよう)。